地震予知の研究は、まだ「トンデモ科学」の範囲でもある様です。
未確認飛行物体の研究と大差無いと思われる方もいらっしゃるかと。
ただ、予知の精度がもっと上がればそれなりの説得力を持つでしょうし、被害を最小限に抑えられるメリットは莫大でしょうし。
なので、未解明な部分が少しでも明らかになればなぁと。
あと、地震による二次災害的なものは、ある程度対策がされている様子です。
地震による津波とか、地震による停電とか、事後対応だけでも前例が活かされているらしく。
個人的に気になるのは、震災復旧の現場でもありまして。
自分の若かりし頃に地方の役所の土木課に勤務していた身内は、自分より少し若く。
何事も無ければ平和な部分もある職場だったそうです。
しかし、その地域で突然の大地震が発生し、道路や橋といったライフラインはズタズタに。
窮地に陥った人というのは心の余裕が失われ気味で、本性が露わになりがちで。
それから数年は地獄の様な忙しさの日々だったそうです。
役所には早く橋を直してほしいといった苦情も毎日で。ともかく冷静な優先順位は必要だったそうで。
身内と久し振りに再会したのはお互いに遠くの関西ででした。祖父の突然の葬儀でした。
かなり久し振りの再会、子犬の様にふっくらした頬の少年はスラっとしたシルエットに変貌していたのですが、やつれさえちょっと感じてしまう程で。
まだ若いのに白髪も目立っていて。
葬儀の晩にホテルで同じ部屋だった身内とは、夜遅くまで現状報告が続きました。
震災の処理は大変なのですが、出口はもう少しだからと。
当時は自分も忙しい立場でしたが、身内と比べればまだ全然マシな部類でした。
ともかく、お互いに身体を壊さぬようにと。
翌年の中旬には結婚を予定していた身内、一年でまた再会出来るんだなと、次の目出度い席を楽しみにしていました。
しかし、新年の気分もまだ抜けぬ一月中旬に職場へ兄から突然電話があり。
あの身内が亡くなったと。
信じ難い話でしたが、そんなことでも無ければ職場への電話など無く。
車が好きな身内でしたし、その仲間には乱暴な運転なのも居たので「車の事故?」と聴いたところ「心不全で朝起きてこなかった」そうでした。
寮母さんが起しに行った時には、もう手遅れだったそうです。
翌日には北海道の寒い地域に到着し。葬儀場の周りには多くの若者達が駆けつけていて、順番待ちで。氷点下20度以下の外で大変だったと思います。
亡くなる前日は、震災復旧の報告書を書き上げた日でもあったそうです。寮に帰宅したのは深夜だったそうで、枕元にはコンビニのおにぎりも。
苦労が報われるタイミングでしたし、明るい未来や生活が待っていたのに。
婚約者だった女性が気の毒過ぎて、掛けられる言葉も無かったです。
過労が原因だったと思うのですが、それにしてもこのタイミングというのが。
何かホッとしてしまったのだか。
身内とは自分も似ている点が幾つかありました。祖父の葬儀でのホテルでもそんな話題で大笑いしたり。
お互いに弟の立場だったので、兄からは玩具にされてしまった過去はあったらしく、これは弟じゃないと伝わらない会話でもあって。
葬儀が終わると、骨になった身内は実家へ帰りました。身内の方々も可哀想で、自分の休暇も延長してご実家まで付き添うことに。
ご実家でも葬儀に来れなかった高齢者の方々が。そのお婆ちゃんの一群からは自分が亡くなった身内にそっくりだとの言葉も。
初めてお会いするお婆ちゃん達でして、若い世代は皆同じに観えてしまうのかなぁと。
ただ、痩せた体型は確かに似ていたのかも知れません。
あと、寮の部屋で遺品整理していた中で、机の引き出しの奥から出てきた本のタイトルが実情を語っていました。
「上司を殴らなくて済む方法」の様なタイトルでした。
理不尽な指示が多かったとは噂で聴いていたものの、本人も相当頭にきていたんだなぁと。
だったら、ホテルの一緒の部屋で思い切り毒を吐けば良かったのにと。
自分から先に吐くべきだったのかも知れず。
当時は自分も一発くらい殴っても許されそうな上司が居ましたし。
勿論それは出来なかったのですが。
赤穂浪士の様な単独成敗は、周りも喜んでくれたとかも知れません。クビになっても降格になっても「でかした」と。
しかし、全てを捨てる覚悟が必要でして。
以前にも同様の記事を綴っていましたが、大地震というと数年後にあったあの不幸を思い出しがちです。
なので、復興が遅れていても、現場の担当者を責めてほしく無く。
命懸けで頑張っているのですから。その地域の皆さんの為に。
あの不幸以降は、自分も仕事の進め方を変えました。大きな教訓にもなり。
頑張るにしても、命を落したら元も子もなく。
徹夜の仕事は極力回避するようになり、手抜きとも言われまして。
同じく忙しくしていた同僚の中にはメンタルを壊してしまったのも居たりで。
自分の場合は胃潰瘍程度で済んでいたので、まだ救われた範囲かと。
あのままのスタイルでやっていたら、身内と同じ結果だったかも知れずです。
話が逸れます。
その関西での祖父の葬儀の写真が何枚か残っています。
自分は葬儀の場での撮影が苦手で、カメラを持参していてもよほどな場面以外は撮影出来ずで。(母の葬儀でも安置所から火葬場へ向かう前に立派な霊柩車の前で一族と集合写真の予定だったものの、その場で泣き崩れてしまった自分には無理でした。安置所に辿り着いた時にドライバーさんが勧めてくれた撮影のタイミングに素直に従うべきでした)
待機している時間は意外に長く、東京から愛車を飛ばしてきた自分は身内をドライブに誘ってみたく。
現地のスタンドで観光名所を聴いたところ、日本画の立派な美術館が近くにあるそうで。
しかし、誘いに乗ってくれたのは母だけでした。皆さんそんな心境では無かったのが当然ですが、気分転換にはなるだろうと。
母と一緒に伺った美術館の写真は押入の何処かに残っているハズで。
自分は日本画の知識も興味も無かったものの、美術の教科書で観た様な横山大観の作品も並んでいました。
絵画か趣味でもあった母は、かなり感動していました。庭園も立派で。
あの時の写真は自分が撮ったのか誰が撮ったのかもサッパリ思い出せずです。アルバムを引っ張り出したら、あの場に集った身内の写真も残っているのかもと。
いまお互いに生きていたら、どんな会話が出来たのかと。