緩い時代

現代では許されないでしょうが、案外悪くなかった思い出を。

小学生の頃の思い出です。
我が家は母子家庭で貧乏だったものの、母の夢で自宅にはカワイのアップライトピアノがあり、自分ら兄弟三人はクラシックピアノを習っていました。
カワイ音楽教室の場を提供する位置付で、狭い家ながらも少しは安く習わせてもらっていた様子です。
地域の同世代の女の子達も、その小さな教室に毎週水曜日に集っていました。
三人兄弟末っ子の自分は音楽的才能など無く、母と違って若くて優しい女性の先生に可愛がられたものでした。
兄達は演奏も上手く、歳以上の難しい曲もこなしていて。

通っていた小学校でも、二人の兄は学業優秀でピアノも弾けて、先生達からは一目置かれた存在でした。
二番目の兄は音楽の先生から才能も認められて、かなり難関だった地元の少年少女合唱団に入れたり。見た目も悪くなく真面目だった兄のお陰で、自分も注目されたりでしたが、自分はおふざけばかりに熱中していて、大いに期待を裏切ったと思います。
当時の小学校の女性教師というのは、皆の前では感情的でけっこう怖く、兄を認めた音楽の先生もヒステリックになる場面は少なくなく。
しかし、自分と二人だけの場面では何故か優しくて。周りに誰も居なければ抱き着かれてしまう始末で。
当時の自分は学業も駄目駄目で、損得勘定などこれっぽっちも無く、担任にとっては面倒な生徒だったと思います。
あの独身の音楽の先生だけは、そんな駄目な自分がよほど愛おしかったのか、幾度抱き着かれたことか。
自分の背丈は当時まだ僅かで、先生の大きな胸元に顔を埋められたり。恥ずかしかったのですが、いい匂いもして居心地は悪く無かったです。
この時代だったら許されないことだとは思いますが、恋愛とかではない母性愛だったんだろうなぁと。

大学に入ったばかりの頃の思い出も、印象的でした。
自分は夜間大学に何とか現役で入学したものの、学費と生活費の捻出は当初難しく。田舎から上京したので、家賃から何から全て自前の必要があり。
通っていた大学では夜間の学生向けの職業紹介があり、結果的にそれに救われました。
履歴書を始めて書いた時でもありました。当時の履歴書というのは家族構成も綴る欄があり。
ここでも二人の兄に救われていました。長男は北大の理Ⅰに在学中で、次男は早稲田の一文に在学中で。
某マンモス大学の職員の仕事を紹介して下さった工藤先生は、早く仕事に就きたい自分に毎度呑気な質問ばかりで。一週間ほど毎日通ったある日突然。
「分かった、いい紹介状かいてあげるよ」と。

某マンモス大学での面接は、各課の課長がズラリと並んでいました。
以前にも綴った話題なのですが、課長達は自分の親より少し若い世代だったのもあり、親切で優しい質問ばかりでした。勿論、工藤先生の紹介状も効いていたのだと思います。
「君はどうしてうちの大学を受けなかったの?」の最後の質問にも素直に堪えました。
「兄達も大学は一校しか受けていなく、自分も許されませんでした」。

兄達のお陰で結果的に就けたような仕事でした。
しかし、付属高校からの進学が当たり前なマンモス大学で、自分はかなり異例な存在だった様子です。
最初から職場の皆さんは親切でした。ドジを幾ら踏んでも優しい対応で。

月給は安かったものの、賞与は六ヶ月分。これで何とか学費と教科書代は稼げるのかな?な一年目でした。
自分の通っていた大学は昼間部ですとそれなりに優秀な偏差値でした。夜間部については学費が異常に安く、国公立並みで。なので、下手な昼間部よりは偏差値も悪くなく。
バブル期の大学の競争率は夜間部でも現在より数倍高かった記憶です。浪人の許されなかった自分は安全パイを狙った一面もありました。兄や親からの脅しで併願など許されなかったですし。
社会人入試の枠もあったのですが、学科を担当していた若いお姉さんが後から教えてくれた話では、一般入試で自分は断トツの成績で受かっていたらしく。昼間部でも他の学科に入れたらしく。
出口の見えない卒業「奨学金を借りた方が良いのかな?」とお姉さんに尋ねたところ「本当に困ったら何時でも来なさい」と。「卒業しても返済は大変なのよ」と。
確かにその通りで。

職場での初めての職員旅行は異次元でした。
普段あんなに真面目に働いている職員達が、無礼講状況で。
熱海の立派なホテルを貸し切った真夏、温泉以外にも立派な屋外プールがあり、久し振りの水泳を楽しんだり。
食費を削ってばかりの自分は余計な肉など落ちて、まるで松田優作。(体型だけ)
その晩の大宴会でも、皆好き放題な振舞い。
なんじゃこりゃ?でした。大の大人がまるで子供のようで。

全く慣れない宴会の後、職員達はホテルの温泉へ。
焼け過ぎた肌が痛い中、露天風呂に向かうと、いつものオッサンや先輩達が裸姿で竹の塀にへばりついていました。
「おい!女風呂が覗けるぞ!お前も今のうちに観とけ!」。
ほんまかいな?と横一列に加わると、竹の隙間から確かに観えました。いつも優しいお姉さん達らしき姿が伺えたものの、裸姿では誰が誰だかよく分からず。
しかし、大宴会で飲み過ぎた自分は熱い風呂で益々酔っ払い、それどころでは無く。惜しい事をしました。
(この件はその後にちょっと問題になったのですが、有耶無耶のまま終わりました)

その後は熱海の花火大会が。
浴衣のままホテルの廊下を一人歩いていたところ、いつものお姉さん達とすれ違い。
某芸能人に似た綺麗なお姉さんは一回り上の世代で既に既婚だったらしく「うちの旦那とはえらい違いね。ちょっと触らせて」と。
普段はあんなに真面目に会計の仕事をしているお姉さんで、プライベートな話などしたことも無く。
「ん?」と現実がわからない中、浴衣から露出した腕を触られ。
その後「私も私も」と触られ放題。
「ぎゃー!」
なんじゃこりゃ。

イチモツ以外は全て触られました。
後から考えると、ちょっとは触り返せば良かったなぁと。
女性も異性に興味津々だとやっと気付いたりでした。
まぁ自分も若かったですし、今思うと青春真っ盛りで何か光っていたんだろうなぁと。

自分の通っていた大学の夜間は五年制で同期の学生職員達は一年早く卒業していました。
留年すると即解雇な仕事、その件は皆さん気にされていて。
大手企業の内定を頂いていた自分は、その後に正職員で残らないかとのお誘いも課長から説得されたのですが、若気の至りで民間を選んでしまいました。
選択肢は「やっと周りと同じスタートラインに立てる」だけでした。
今思うと、勿体ない話でしかないのですが。

卒業式の当日は、入学式と同じ日比谷公会堂。自分の親などどちらも参加せず。
昼間部も夜間部も合同の卒業式、式の直前に学科を担当していたお姉さんから「学科毎に起立する場面が待ってるから、掛け声はお願いね」と。
そして、「もう会えなくなっちゃうんだから、愛してるって言って!」と。
勿論、ちゃんと答えました。
ちょっと飛んだお姉さんでしたが、自分も大好きでした。
ずっと見守っていてくれたんだなぁと。

昭和から平成に架けての出来事でした。大人達の心に余裕があったと思います。
いまでは許されない出来事と思いますが、いい時代だったと思うんです。
だって、みんな正直だったんだから。

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