BGM

葬儀中は喪主だったこともあり、感情に流されている暇は無かったですし、人前で涙など見せたくなかったのですが、抑えきれない場面は幾度かありました。

特に告別式での最後の場面。
棺を花で飾り、蓋をして顔の扉を閉じる場面。
会場で流れていた曲がまたいけませんでした。
優しいメロディが涙腺崩壊を招いてしまい。

火葬場での待ち時間、あのBGMについて自分は文句をつけていました。あの場であんな曲はかなわん。
叔母の話ではドラマ「仁」で使われていた曲だったそうです。
あのドラマは観ていないのですが、気になった作品でした。
題材が面白そうでしたし、漫画の方の作者さんとはちょっとした縁があり。

自分が小学生だった頃に連載されていた漫画「ドロファイター」は好きな作品で、自動車レースを題材にした内容としては現実的で。
漫画「六三四の剣」についても気になる展開でしたが、高校受験を控えた頃から自分は漫画とゲームから足を洗ってしまい。

社会人になって数年目の頃、自分は某社の研究開発部門に所属していました。
セキュリティ系の会社だったものの、創業者の一声で浄水器も販売していました。
その浄水器、評判は悪く無かったものの全数交換が必要になり。本社系の若手が全国の支社に応援作業へ。
自分は23区内の幾つかの支社へ応援に伺い、交換作業のお手伝い。モノを売る作業では無いので、作業内容自体は楽なものでした。

訪問先の中には著名人さんも居ました。
その中の一人があの作者さんでした。リスト上の名前を観て「まさか御本人?」と。
ご自宅には珍しいネオクラシックな車が。
御本人にはお会い出来なかったのですが、応対してくれた方へ聴いてみたところ間違いなかったそうです。

ドラマ「仁」がどんな展開だったのか、Wikiで調べてみたところ中谷美紀さんも出演されていたそうです。
この方もちょっとだけ縁がありました。
都心の下町で暮らしていた頃、自宅二軒隣りの「ちゃんこ屋」さんで映画のロケがあり、中谷美紀がいらっしゃっていました。自分は全然知らない女優さんでしたが。
そういえば、あのお店で町の新年会があった時の写真が、母の遺品整理中に見付かったなぁと。
A4サイズくらいに引き伸ばされた印画紙でした。2007年のBlog記事に載せていた写真は小さめだし、何処から拾ってきたのだか。
煙草を美味しそうに頂いている写真。母は煙草についてあまり文句は言ってこなかったなぁと。
せっかくなのでその大きな写真は居間のカウンターに載せたまま実家を離れていました。

ちゃんこ屋さんのお孫さんがまだ小さかった頃、お向かいのお爺ちゃんの出棺に歩道でお見送りした場面、隣りに居た小さな女の子が「お兄ちゃん手繋ごう」と。
小さな手を握りしめつつ、こんな小さな子でもお別れの寂しさ伝わっているんだなぁと。

音楽とドラマと作者と役者とちゃんこ屋さんと。妙な繋がりがあった様です。

昼型

東京に戻ってから昼型の生活が続いています。
ここ数日はネットのニュース記事も読むようになりました。
ただ、続報的なニュースについては前情報を知らないので、妙な感覚です。
連続ドラマを途中から観始めたとか、観ていたけど前回を観そこなったとかに近い感覚で。
社会から取り残された感。

葬儀や母の件については、Blogにも一通り綴れた気がしますし、いつまでも意識がそこに留まっていたら周りに心配を掛けるだけと思っています。
しかし、一週間や十日で抜け切れるものではありませんでした。
カタチだけの喪主だったにしても葬儀の期間は無事に葬儀が終わることばかり考えていて、母のことを考え始めたのはその後からでした。
兄が亡くなったときも、思い返すと葬儀が終わった後の方が辛いものがありました。

忘れようとしても気持ちがそっちに寄ってしまうのは仕方ないことなのでしょうし、時間に任せるしか無い様子です。
だいぶ薄らいできましたし。

自分の実務については短期間の葬儀だけで済んだのですが、母の面倒をみてきた叔母の方はまだまだ作業が続いています。
母を先祖のお墓に入れたり、実家を片付けて処分したり。
全く申し訳ない限りです。

気分転換にちょっとした趣味のアマチュア無線も再開してみました。
デジタル通信なFT8なのでコンピューターが自動でやり取りしてくれますし、お気楽なものです。
今月の二度の帰省でハンディ機の一台くらい持参すべきかも迷えたのですが、鞄に入れる余裕は無く、現地でもそんなのを楽しむ余裕などなく。

自宅を空けていた間に細いワイヤーのダイポールアンテナは特に問題無かったです。強風で絡まったりがちょっと心配でした。
無線機の電源を入れてみたところ、21MHzのFT8でヨーロッパの珍しい局が聴こえてきたので呼んでみたところ、全く応答なし。昨夜はそんな結果ばかりでした。
これまでの運用実績は運が良かっただけなのかも知れないなぁと。うちのアンテナ環境にしては遠くまで飛び過ぎでしたし。

今朝は同じ設定で東海方面の記念局が聴こえてきたので呼んでみると、一発で応答が。それもかなり強いシグナルレポートを頂けて。交信が終わると続けざまに北陸の局から呼び出され。
HF帯で国内の局と交信するのは久し振りでしたが、また基本からやり直した方が良さそうなのかも。
ログを確認したところ、二週間ぶりの交信でした。

取り留めのない散文になってしまいましたが、そんな今朝です。

葬儀での諸々

偶然にしても、葬儀の前後では不思議な場面が幾つかありました。

母が他界した直後にナースさん(介護士さん?)が早朝の実家へ急行した際、信号待ちの遠くに虹が掛かっていたそうです。
その虹は写真に残されて叔母にも届いたそうで。
叔母も、母が眠る居間に窓から光が入ったと眺めていたそうで。

帰省二日目の午後は空港まで親戚の出迎えが二度ありました。
同い年のイトコの車で空港へ向かったのですが、どの駐車場を利用するかもイトコに検索して頂いていて。C駐車場の評判が良かったそうで、そこを利用することに。
しかし、いざ車を降りてみると空港まで結構な距離。そもそも歩いて空港まで行く正式な通路も無く。駐車場から歩道へは獣道の様な足跡を渡るしかなく。
炎天下、二人してやっと空港の建物に辿り着いたものの、そこから国内線の到着ゲートまでがまた結構な距離。
二人して苦笑い。

飛行機の到着時刻には間に合いました。
次は、ゲートから出てくる奈良の二人を自分が見つけられるか。
同い年のイトコは先程助けを求めてきた謎のお婆ちゃんに親切な対応中。
預けた荷物がグルグル周る回転寿司の様なレーンの周りに、二人が居ないのか自分は注視していたのですが、ふと横を見たら懐かしの二人が。
「北の大地へようこそ!」。

LCCの利用では無かったので、預けること無く手荷物で全て収まっていたそうです。
駐車場まで結構歩くのですが、お許しを。
ショートカットなルートを探りつつ、結果的に遠回りだったかも知れず。
空港の建物内を四人で歩きつつ、窓から外を確認すると状況は大いに変っていました。
どんでもない雨が降っていた様子です。水溜まりが酷く。
まだ降っているのか?

屋内の終点から地上に出ると、雨はやんでいました。
ここからも更に歩きます。
不安定な天候、これから大雨にあたる危険性は十分にありました。
イトコは駐車場まで一人で行って、車をここまで持ってくるとの意見も。
大雨喰らっても構わないので、四人で行こうとなりました。
水溜まりを避けつつ、どうにか車に戻り。

良かった良かったと四人で笑顔。実家までの道中がどんな天候だったのか記憶から飛んでいます。とりあえず雨はしのげていて。
実家に着いたら母の出棺を手伝ってほしい旨を伝えました。喜んで引き受けて頂けました。

実家へ到着後、またしてもドタバタ。玄関に居た制服姿の宅配屋さんらしき男性にちょっと横へ移動してもらう様お願いしたり。(これが大失態)
棺を玄関から入れるには、あの長方形を斜めにしないと居間まで入れず。棺の中に母が収まった状態では居間の窓から送り出す以外に無く。
その窓の外は雑草が元気に伸びていたり、足元も悪かったり。その辺は事前に軽く自分も片付けていました。
葬儀屋さんと身内の男手で、巨大なリムジンの様な白い霊柩車に母の棺は収まりました。
途中で煙草をイップクさせてほしい旨叔母に伝えたところ、尻を一発引っ叩かれました。
素晴らしいリアクション。

実家を離れるリムジンの後席には、これまで散々世話になった叔母と自分。
向かいの歩道には御近所さんらしきオバチャン達が見送り。ありがたや。
葬儀の会場は中心街の反対側にあり、そのルートを走行中にまたしても大雨。
なんじゃこりゃ?

後席の叔母とは、さっきも大雨にあたらずに済んだ旨伝えたのですが、叔母の方もさっきの大雨を心配していたそうで。
後ろに続く息子さん(イトコ)の車でも、いま同じ話題出していそうですと。
ともかく、良かった良かったと。
あまりにもタイミングが良過ぎて、お天道様も見守っていてくれたのかな。
叔母とは大笑いしながら、昔自分が暮らしていた道中の景色をを説明しつつ。

二度目の空港もイトコの運転で。
今度は完璧な駐車場でした。ここなら大雨でも問題無く。そして、一時間近く早く到着してしまい。
何かホッとしてしまったのか、イトコは車内にお財布を忘れてしまった様子。
気になるでしょうし、それを取りに戻る時間も十分にあり。

イトコとは昨夜の近況報告の続きとなりました。
イトコが長く続けていた介護の仕事は自分になど務まらない過酷さ。母を介護していた叔母も身内にも見せられない過酷な現実があったと。
久し振りに帰省した実家、母は介護ベッドの上。自分も何か手伝いたかったものの、余計なお世話になるのは自分でも解っていて。
接種した解熱剤が効きすぎて、冷えた両手を握るくらいしか自分に出来ませんでした。
自分の幼少期は母の手も脚もいつも温かくて、布団に潜り込んでは温めてもらっていたのに。

大阪から訪れる親子は四半世紀以上ぶりの再会。自分はちゃんと見つけられるのか?
ゲートから登場した二人、直ぐに分かりました。
「テツヤおじさん?」。あっけに取られていたのか、リアクション無く。でも間違いなく。
「ケースケですよ!」。少し安堵した表情。

「北の大地へようこそ!」だいたい、自分も二十年帰らなかった大地なのですが、お迎えはこれに限る。
「さっきの雨は何だったんだ?」と会場へ向かう前席でニンマリ。

出棺のドタバタで玄関にて邪魔者扱いしてしまった男性は、ずっとお世話になっていたあの便利屋さんだったそうです。
二月の大雪では母を救助して頂いたり。またしても酷い事をしてしまった。(後日、メールでお詫びしました)

全ての式が終わり会場で普段着に着替えした身内八人が向かう実家。車は二台に分乗。母は既に骨。
江別からやってきた叔父の車の助手席に自分。中心街経由の実家までのルートは自分が何となく覚えていたので、先導することに。
中心街を離れた途中で、運転席の叔父がニンマリ。イトコの車が追い抜いて行きました。
この先のルートはイトコの方があてになる。

追記:
雨にあたらなかった件、全く逆パターンだったら、ほとんど「祟り」みたいなものだったんだろうなぁと。

欠けてる部分とか

母の葬儀以降、色々と考え込んでしまった数日間でした。
そして答えがちょっと見えてきました。

現在も育児中な同世代の身内や友人の話がキッカケでした。
子供が可愛くて仕方なく、心配で仕方なく、それ以外の困難は何でも受け入れられる。
偶然そうだったのではなく、親として当然の愛情らしく。
どうして子供の為にそこまで犠牲になれるのか。

自分は結婚もしなかったし、子供も居ないので、その感覚が解らなかった様です。ずっと解らないままなのかも知れません。
自分は母に対して酷い対応ばかりしてきたので、母はそれを許してくれるものなのか懺悔な数日でもあったのですが、母はそもそもそんなこと恨んでいないだろうと思えまして。
友人からも指摘されました。たとえ子供が極悪人だったとしても許してくれると。

自分は養父の傲慢な対応が苦手で、高校を卒業したら実家を離れるつもりでした。
自分が東京へ上京した後の養父は益々傲慢で、大学時代は二度も縁を切られそうになり。
養父側についていた母も自分のことを見放していた様子で、養父と同罪くらいに思っていました。
実際は板挟みに近い母だったとも思えますが。

大学の卒業間近に、自分は全て水に流すことにしたのですが、養父についても母についても自分は冷めた目で見続けていて。ずっと。
その後、大手企業に入社した自分はそれなりの収入がありましたし、恥かしくない名刺を出せたので、過去などどうでも良い感覚になれました。過去の問題は貧しさ故でもあったので。

披露宴等の機会で母が東京へ短期間訪れた際は、色々な場所を徒歩で案内したものでした。築地や上野等々。
急だった奈良の葬儀でも、せっかく車で来たのだからと近くの美術館まで日本画を観に行ったり。

あと、最初の会社を八年で辞めて実家へ帰省した際は、母が更年期障害でかなり荒れていまして。自分は胃と十二指腸に穴を開けていて、それを慢性化させたくなかったので一年間何もせず実家でゆっくりと決め込んでいたものの、逆に母の荒れ具合が酷く。
この時も気分転換で色々な場所へドライブに母を連れ出したりでした。
母は何処へ行っても難癖ばかりつけていたものの、その後に再会した際はやたらと嬉しそうにあのドライブを語っていて。素直じゃないよなぁと。
このときの帰省は秋に始まり、春が訪れる頃に単身赴任から解かれた養父が戻ってきたので、自分は実家を出ることに。厳しい冬の除雪役で少しは役に立ったかと。

既に幾度か綴っていますが、その後に母は養父と離婚し、二人の兄から縁を切られています。
離婚は養父の一方的な問題に思っていますが、兄に縁を切られてしまったのは母の干渉が大き過ぎたからと思っています。所謂嫁姑問題で。
母と上手くやってゆくには、ある程度の距離を取らないとトラブルになることが実際に多かったです。
距離感だけは意識していた自分でした。
そうしないと、自分まで母と縁を切りかねなく。
だから、結果的に母には酷い対応が多かったのかも知れません。

二番目の兄は14年前に他界し、一番上の兄は三週間前から入院中。結果的に三男の自分が喪主となった今回の葬儀でした。
兄弟全員が無事だったらどうなっていたんだろうと、それもまた考えてしまったり。
それでも自分しか参列しない葬儀だったとしたら、そっちの方が残念だったかもなぁと。
これで良かったんだと、いまは思っています。

母のPCからは溜め込んでいた写真を頂いてきました。
数年前からピアノに飾っていた大きな写真も見つけたり。
9年前の横浜でイトコの披露宴の夜に撮った一枚です。誰が撮ったのか謎ですが、母は引き伸ばして飾っていました。
なかなか嬉しそうな顔していました。
これは自分も何処かに飾っておこうかと。プリントアウト何て何年ぶりだか。

お悔やみ欄

帰省した際、実家では叔母と葬儀屋さんが既に打合せ中でした。
自分の到着後は喪主を誰にするかからの話し合いが。
他にも決めるべきことが多く。
新聞のお悔やみ欄は掲載することになりましたが、一週間後の7/26掲載としました。
この日であれば葬儀は一通り終わっており、身内はみな実家から離れているハズで。
北海道ではメジャーな四紙に掲載される流れとなりました。

遺品整理中に突然訪問してきた友人は、メジャーな新聞の記者で頑張っていました。
忙しい中、わざわざ車を飛ばしてきてくれました。
23年ぶりくらいの再会、短い時間に近況報告を。とても全部伝えきれずで。

友人のお父さんの葬儀は、自分が合衆国の旅行中で知らず、帰国早々訃報を知り友人のご実家へ飛んで行った記憶です。
告別式が終わって何日か経っていたのかと思うのですが、ご家族は全員残っていて、旅行の面白い話を聞かせてほしいと友人のお母さんから言われてしまい。
そうはいっても、この場でそんな話など出来るワケもなく。

新年早々、自分は友人の家へ遊びに行き深夜まで酒盛り。途中の話題では家族がこの家に住み始めた頃のお父さんの思い出話を。当時は何もない原っぱのような場所だったそうです。
家族でも聴いたことが無かったとか忘れていた話題をお父さんは語っていました。
友人と自分は昔話に花が咲き、ご家族が布団に入った後も飲み続け。

数日後に自分は二週間ほど合衆国へ旅行でした。
マンハッタンではタックスフリーデー等が重なり、ブルックスブラザーズのタイを何本かお土産に購入しました。日本で購入したら倍はします。

帰国して当時間借りしていた実家へ戻るとS君から電話があったそうです。母に用件は何だったのか聴いても、特に伝えてくれなかったそうです。
S君にどうしたの?と電話したところ「親父が亡くなった」と。
喪服を着てS君宅へ飛びました。

玄関で迎えてくれたS君は自分の姿に「なんつー格好で来るんだよ!?」と驚いていて。(葬儀後は普段着が良かったのかな?)
居間に上げて頂いた後は、お正月と同じメンバーと再び語り合う流れに。
何でも、あの晩にビールを飲み尽くしてしまった自分達の為に、お父さんはあんな寒い中をコンビニまで買い足しに伺っていたそうです。
これは未だに罪悪感が残っています。あれがキッカケで他界したとしたら、俺のせいだよなぁと。

今回の母の葬儀が終わった後に訪ねてきたS君は香典を持参していました。
受け取れないと拒むと「あの時お前だって届けたろ?」と。S君の母親もあの時のことは良く覚えているそうです。
「そうだったっけか?」で仕方なく受け取ることに。ちょっと高価なタイをお土産に持参したのは覚えているのですが。
S君からは新聞のお悔やみ欄は断ったの?と聴かれてしまい。
亡くなった一週間後に載る旨伝えました。

その掲載日が昨日でした。
自分は既に東京へ戻っていますし、そもそも新聞も取っておらず、あれは道内だけで載る記事でしょうし。
S君へLINEにて記事が見つかったら写メしてほしい旨試しに頼んだところ、直ぐに届きました。
母の名はちゃんと載っていました。喪主は三男圭介とも。
これで示しがついた感でした。
全部終わったんだなぁと。

実際、一昨日まではちょっとしたことで涙ポロポロでした。こんなのが一生続いたら使い物にならないなぁと自分自身が心配になったり。
それが昨日からはだいぶ落ち着きました。こんなのも時が解決するのかな。

ドラマは続く

千歳の実家は秋頃に片付けが終わった後、手放されるそうです。
十年前に叔母が買い取り、母の生活費等に回されていました。
今回の葬儀を含めて叔母からすれば大赤字でしょうし、自分も住むつもりは無いですし、手放すのは仕方ない事です。
買い取る際は、叔母からも連絡がありました。かなり気を遣っていた言葉でした。
母について自分は実質何もしていなかったのですし、実家の所有権が変るなど問題で無く。
帰る場所は残っているにしても、それは母が暮らしている内という意識はその頃からありました。

自分が住みたいというのなら暮らさせてもらえたのかも知れませんが、そんな身勝手出来る立場に無いですし、景気の悪い北海道で仕事を探すのは東京よりも困難で。
たまに帰省するのは楽しみでしたが、それだけのために残すのは無理があります。だいたい、家の周りの木々が成長し過ぎて歩道やお隣さんの領域まで伸び放題だったりで。
自宅の小さな庭もそうなのですが、木を直接地面に植えると数年単位で恐ろしい成長。ちゃんと手入れをしないと凄い事になります。なので、桃の木もあえて鉢植えにしていて。
人が暮らして手入れをしないことには、木なんて植えるべきではありません。余程広い土地を持っているのなら別ですが。
自分も園芸を趣味の一つにしなければ気付かなかったことです。長期的な計画が見えないのなら、無暗に育てるべきではないと。
これは園芸に限った話でなく。

そんな流れで、実家を離れる前夜は「これが最後なんだよなぁ」と。しんみり。
自分のせいでもありますし「千歳に帰省」という言葉もこれが最後で。
母の葬儀も無事終わり、母の形見になりそうな小さなモノも少し飾られた前夜でした。
尤も、この作業のそのほとんどは叔母がお膳立てしてくれていて、自分は僅かに手に触れただけです。
形見になりそうな装飾品について自分は知見が全く無く、お世話になった方達へのプレゼントな作業も叔母に依頼しています。これは誰に相応しいとか自分には謎で。
それ以外は、恐らく廃品になるのかと。

しかし、東京ではその日に別の問題が起こっていました。
北海道のことでしんみりしている場合では無くなっていました。
大学時代から助け合って、馬鹿しあって、大喧嘩して、それでも続いてきた友人夫婦の娘さんが緊急入院。
身体の一部が機能しなくなり、目指してきた将来に支障が出そうな状況です。幼少期から親子揃って頑張ってきた夢が。
明日、直ぐに行くと約束。

嫁さんのお腹が膨らんできた頃からの付き合いな娘さんです。
二足歩行出来る様になってからは一緒に海水浴にも。冷たい海水に泣きじゃくっていた娘さんを抱えていたら、暖かい何かが自分に流れてきちゃったり。
なんじゃこりゃな場面も今や全部笑い話。赤の他人ではありませんでした。

病院は15時で追い出されてしまうそうです。
それは間に合わないので、夫婦と下の娘さんが自宅まで来てくれる流れになりました。

自宅近くのファミレスで七年ぶりの再会となりました。柴又に自分が引越してから初めての再会です。
あれだけ聞かん坊だった下の子は、まだ小学生なのにやたらと気遣う素振り。そんなのに一々感動して褒めるオッサン。
何も解らぬ下の子のワガママに、上の子は仕方ないわねぇと口にもせず譲っていた姿は七年前。上の子も随分と大人になったなぁと。
もう少しで自分の身長も抜かれるらしい上の子は病院で寂しいとのLINEも届き。

ドラマは続く。
お陰で、実家のことなど二の次になったぞよ。

facebookの公開を狭めてしまった理由

facebookの公開を狭めてしまった理由について。

仕事やプライベートが丸見えのfacebookに慣れきれずな自分でして。
仕事を理由にとか、プライベートを理由にとかいった大人のインチキも効かず。
都心の下町暮らしだった頃は横の繋がりが一気に増えてしまい、ウィットに富んだやりとりも。
毎日が学校祭みたいな大人達、自分はそんなのも楽しめたのですが、過ぎる冗談を家族が読んでしまうと、余計な心配を呼んでしまいそうでもあり。

311で神田の本祭りが中止になった以降、家族にはとても見せられない自分への非難もしばらく続きました。
分かっていてくれたつもりだったのですが。「自分にだって家族は居るんです」とももはや直接言えぬご近所さん。ここまで世話になっていましたし。

逆にプライベートなやり取りに母がイイネをクリックしてしまうと、恥かしくもあり。優しく見守ってくれるまでにしておいてと伝えていたのに。
自分は母をfacebookでブロックしていました。
酷い息子です。

母からは当時「圭介どうして観れなくなっちゃったの?」と。

遺品の整理中、実家のPCには自分が公開していたそれまでの画像が幾つも保存されていました。
母はそれが楽しみだったらしく、大きな印画紙に飾っていたりも。
もう少し、自分は許せられなかったのかと。
こんなもの無い方が幸せで面倒臭くないfacebookでした。

ほんと、酷い奴でした。
いまなら全部許せたのに。