世の中、会社や何らかの集団で老害というのはありまして、適当なタイミングでの引退というのは大切かと思っています。
ただ、本人は思考回路か記憶回路の経年劣化が入っているのか、全くその意識が無い場合も。そして、年配者に対して誰もそれを指摘できなかったり(陰ではまたかよ!と)。
功労者としての敬意は勿論ありますが、現在の立場でそれは不味いだろというのはあるかと。
結果的に、若い人が寄り付かなかったり直ぐに離れてしまったりな状況に陥りがちで。
自分は転職活動で多くの会社の面接を受けてきましたが、上記の様な経営者を見掛けた場合は内定を頂いても辞退してしまった場面が幾度かありました。
例外だったのは一人だけです。かなり個性的な出光の創業者の様な立派な紳士でした。
綴りたかったのは、このご時世での出来事です。後からこの文章を読み返したら「何のご時世?」となってしまうので曖昧にせず「新型コロナウイルスに関連したマスク不足」です。
漱石の明治時代の文章でも、注釈や解説が無いと何のことを言っているのかサッパリ分からない表現があったりしますし。
例えば三四郎に登場した「午砲(どん)」という単語。自分は他の文章で一度も見たことが無く(“当時はお昼に大砲で時間を知らせていた。1870年に午砲の制が出されて大都市では大砲を打つことが制度化されていた。「どん」という名称は大砲の音からそう呼ばれていた”だそうです)。
百年後に誰かがこの記事を読んでいるとはとても思えませんけれど、2020年は東京でオリンピックが開催される予定で、新型のウイルスの蔓延で予定は延期となり、それが何時開催されるのか分からない期間が現時点です。ひょっとしたら中止になるのかも知れず。
と、かなり脱線しました。
使い捨てマスクの多くは海外生産で、国産は2~3割程度。世界的に大流行した謎のウイルスのせいで、マスクは品不足。
国をあげてその対策を粘っているところですが、一般市民はなかなか入手出来ず。販売されているハズなのに、店頭でまず見掛ける機会も無く。
転売サイトでは平気で10倍以上の値段で販売されてはいましたが、それにもやっと規制が入った状況。
オリンピックを予定通り開催する招致国でもあったので、不安を煽るかもしれない大胆な政策がなかなか取れなかった国。それが(待っていた外圧で)延期となり、やっとまともな舵取りが出来そうなこの頃なのかと。
って、いま生きている人は誰でも知っている状況ですけれど、百年後の人は漱石の文章の如く知らないか、余程の懐古主義か、歴史の研究者くらいかと。
前置きが長過ぎました。
しかし、マスクはドラッグストアで週に一度以上販売されているらしく。
Twitterで検索したところ、早朝から老人達が行列を作って買い占めているそうです。購入可能な個数制限は勿論あるのですが、行列が長過ぎるそうで。
これは単なる噂でなく、ドラッグストアで働いている方や、その列に並んだ方や目撃された方の言葉で。
噂が噂を呼ぶ的な都市伝説ではなく、Tweetされた本人のProfileや過去のTweetを診れば、フェイクか否かはだいたい判断出来るもので。
その老人達は常連も多いそうで、開店前の行列で顔見知りな会話もあったりだそうで。
現在のトイレットペーパー不足もこのパターンがあるそうですが、マスクですと場所も取らずなので、無限に溜め込んでいるのかな?
こんなのが続いてしまっては、その他大勢の方にマスクが届く機会が無さそうで。
これは一種の老害かと。
この老人達がマスクの入手後にどうしているのかが謎です。
核家族が一般的な時代ですし、溜め込んでいるパターンも何割かはありそうです。
困っている子供や孫にプレゼントしているのなら、まだ救いようがあります。
対策を考えてみましたが、台湾の様な購入者の識別が現状で一番スマートそうです。そのような社会システムが日本ではまだ出来上がっていなく。
それが出来ないのであれば、どんな対策があるのか更に考えてみたところ、これがロクでも無いのばかりです。
その一例としては、列に毎度並ぶ常連な老人達だけをVIPルームに案内するとか。「こちらへどうぞ」と、暖房も無料の緑茶もリクライニングシートもトイレも用意した快適な空間。
集団感染を誘発するゴキブリホイホイのようなもので、一ヶ月ほどで効果が表れそうです。
星新一的なブラックジョークですが。
海外の医療崩壊ではトリアージな対応も迫られているらしく。60歳以上は優先度を下げる等の。
何らかの線引きが必要な最悪の場面、年齢制限というのは分かりやすく単純な選択肢だと思います。
ただ、マスクが入手出来ないだけで、この選択は論外でしょうね。
自分だって、高齢者の身内が感染してしまったら何とか救ってあげたい気持ちは勿論あります(人徳によりますが)。
ちと恐ろしいことを綴ってしまいました。
イタリアでのトリアージの選択は自分も色々と考えさせられました。もしそれが50歳以上となったら自分も引っ掛かるワケですし。
ただ、歳相応にやりたいことの何割かは実現出来たし、空席が足りないのであれば若い世代に譲れる気持ちはあります。
二十代までの間に何かが上手く進まず、やりたいこともやれずに自らあっちに逝ってしまった友人が自分には何人か居て。
あれに比べれば自分は余程幸せだったと思います。その倍も生かせてもらってきたのですし、やりたいことを幾つも経験させてもらってきましたし。
勿論、無駄死にするつもりも無いですけれど。
自分は興味対象が偏っている自覚があります。
学生時代に誰もが学んできたことでも、記憶から綺麗に消えてしまったこともあれば、妙に引っ掛かっていることもあったり。
社会不安については大昔から色々とあった様です。現代ですと核の問題が追加された程度かな?と思っていました。
だいたいは前例があった問題ですけれど、疫病についての不安については考えたことがほとんど無く。過去にも勿論あった問題ですが、そんな話題や文章に気をとめたことも無く、近代では低いプライオリティーと片隅に置いていて。
普通に暮らしている人で、その点を気にされていた方ってどれくらい居るのかなぁと。
漱石の文章でも当時の言葉に時代を感じたり、普遍的な感情に揺らされたり。
未来的なSF映画でも疫病関連は取り上げられたりしていました。ただ、どうにも実感が湧かず。薄気味悪いゾンビみたいなのがうろうろしているだけの印象で。
時代劇で過去の疫病に苦しむ世界を表現した方が、自分には取っつき易かったかなぁと。