「平成最後の」という前置きが流行るこの頃。
「昭和最後の」という言葉は当時ほとんど出回らなかったなぁと思いつつ。
三十代以下の世代は勿論知らないと思いますが、三十年前の当時大学生だった自分は何となく覚えています。当時の人達は皆気付いてはいました。
昭和もそろそろ終わってしまうんだなぁと。
昭和天皇の体調がよろしく無いらしく、あの年末年始は独特の雰囲気でした。特にテレビ番組はCMも含めて自粛ムード。
日産のセフィーロという車のCMで井上陽水さんが「お元気ですか」というセリフを使ったのが「不謹慎」だと叩かれたり。
新しい元号はいつから始まるのか、どんな名前になるのか。
昭和六十四年の一月に自分は250㏄の単車を初めて入手したのですが、納車の当日に昭和天皇が崩御されたのを知りました。結果的に昭和最後の日でした。
当日はもう一つのイベントがありました。新元号「平成」の発表でした。全く聞き慣れない言葉はデザインの変わった千円札のようで現実味が湧かず。
それも明日から平成となるらしく、それまでしばらく続いていた出口の見えない自粛ムードとはえらい違いで。
ちなみに、その翌週は自分の成人式でもありました。
新しい元号と自分の成人が重なった時期でもあります。社会的には自分はもう大人扱いなんだなぁと。
どうにも慣れない平成の始まりでした。
あの頃描いていた三十年後の自分と、いまの自分はずいぶんと予想から逸れたとは思います。
まぁ、健康に生きて居られるだけ幸せではあります。
ここで文章を〆てしまうのは何だか言葉足らずなので、当時のエピソードでも。
成人式は当時暮らしていた地元の足立区で参加したのですが、引越し間もない土地でもあり地元には友達など一人もおらず、寂しい参加となりました。
昔から地元に住んでいるらしい集団も幾つか見受けられました。楽しそうに騒いでいるヤンチャな方々も。
いざ式が始まってもザワつきは収まらず、楽太郎さんの講演では楽太郎さん本人も煩い会場に怒りが爆発し「聴きたくなければ帰れ!」と。
笑点でもあまり好きなキャラクターでは無かったですし、この場で舞台から怒鳴られるのも不愉快だったので自分はその場を後にしています。
会場から去る際はコートも着ていない背広姿だったので、単車ではえらく寒かった記憶です。
続けて、中学二年まで暮らしていた川越方面に向かいました。幼馴染の友人に電話して一緒に呑もうと。
最寄りの上福岡駅で待ち合わせしていると、知っている顔触れと何人も再会出来たり。
六年ぶりの再会がハタチですと、女性の同級生達が突然大人の女性に変身していて、けっこうな驚きでした。
「〇〇君、北海道から戻ってきてたんだ!」から始まった会話、お互い近況報告でした。
皆さん幸せそうな雰囲気ではあったのですが、残念なお知らせも。
幼稚園の頃から仲の良かった秀才の一人H君が最近他界してしまったそうです。自分の手で。
美男でスポーツ万能で絵も上手だったし、高校も地元で一番の進学校に通っていた噂までは聴いていました。
しかし、大学進学は上手く行かなかったようで、浪人を繰り返す途中だったそうで。
同じ高校に進んだ中には、昔からいじめられっ子だった小柄な友人も居たのですが、一浪して東大に入ったらしく。ずっと誰からも一目置かれていたH君とは対照的でした。
H君の母親も宝塚の女優のような綺麗な女性で、自慢の息子だったと思いますし、教育には相当力を入れていた記憶です。(小学一年の頃に自宅に遊びに行ったら、絵本のソノシートを一緒に聴かされたり)
亡くなられた頃のH君の成績がどうだったのかは存じませんが、中堅大学だったら入れたのではと思えていて。プライドが許さなかったのかな。。
白馬のサラブレッドのような男、挫折をそれまで全く経験したことが無かったのかなぁと。
派手な男では無かったですが、ハタチまでにやりたいことの一つくらいやれたのか。
ともかく勿体なく。
当時の自分は働きながら夜間の大学に通っており、贅沢は出来ず無駄な出費になりそうなイベントとかは断りがちでした。(地に足は着いていただけ先の分からない浪人生よりは幸せだったかも知れません)
ただ、その件以降は少し方針を変えた次第です。たまにはやりたいことの一つくらいやっておこうと。
H君のような自害に関わらず、不慮の事故等でも突然亡くなってしまうことはありますし、それまでの人生が「ずっと耐えてきただけ」なんて勿体なくて。
当時の皆はいまどうしているんだろう。
今日は平成最後の大晦日か。