ご先祖さん

高校時代からご先祖さんを時々調べていました。
子供の頃に時々会う機会のあった奈良の爺ちゃん曰く「昔は大金持ちで、釧路の駅前の土地をいっぱいもっていたんだぞ」で。
嬉しそうに語る爺ちゃんはホラ吹きに見えず、そのうち調べてみようと思っていました。

爺ちゃんの苗字は代々受け継がれる珍名。
母が離婚してから八年ほど自分もその苗字でした。
母の再婚で北海道に引越した自分は苗字も代わり、千歳市内の図書館へ伺う機会があるとカビ臭い歴史書を時々漁っていました。当時はインターネットなど無かったですし、暇潰しに図書館に伺う機会が多く。
そんな中、釧路市史に気になる記載を発見。大正時代だったかに釧路に初めて電話が導入されたそうですが、その一覧にご先祖の苗字が。
それなりの資産が無ければ、当時は電話など持てなかったと思われ、爺ちゃんの話は現実味を帯びてきました。

釧路と帯広の間に白糠という土地があるのですが、そこにはご先祖の石碑もあると聴いていました。
高校一年の夏、同い年のイトコが暮らす帯広に伺える機会があり、青春十八切符を入手した自分は小樽観光を楽しんだ後に帯広へ。
帯広へ伺う前に何故に小樽へ寄ったかというと、自分も理由を覚えていません。しかし、当時暮らしていた千歳から帯広へ直行では数時間で到着してしまうし、一日中乗れる切符を有効利用したかったのかなと思います。
当時の小樽は観光名所としての再開発はそれ程進んでいなかった記憶です。デコレーションされていない古い町並みで駄菓子問屋を偶然見つけ「点取り占い」を大人買いしたりでした。

小樽からは札幌経由で帯広へ。車窓から伺える夕日に染まったオレンジ色の十勝川は何とも美しく。ヨーロッパの絵画とも違うし、ドラマ「北の国から」でもこんな場面は無かったハズで。
乗客もまばらな各駅停車には同世代の女子高生集団も乗っていたのですが、際どい話題で盛り上がっており、そんな場面も北海道らしかったです。(またしても妙な場面を覚えているのですが、生理用品の話題なんて近くに男子が居たら本州では出さないと思うし、こちらも耳がダンボになってしまい。引率者らしき若い男性の先生は特に気にしていない様子でした)
そんなことどーでもいー。今回はご先祖さんの話なのです。

帯広のイトコの家はやたらと立派でした。冬の間にボットン便所の排泄物が凍り付いて塔になる自衛隊の官舎とは偉い違いでした。
何泊したのか記憶に無いのですが、青春十八切符はまだ何枚も残っているので、イトコと白糠へ伺うことに。歴史探検。
白糠へ到着すると、思ったより新しい建物が駅の周辺にありました。もっと寂れているイメージだったので。
大戦までは、軍に収める馬の生産で相当潤っていたと何かで読んでいて。
石碑が本当にあるのか信じてはいたもののどの辺にあるのかは定かでなく、旅の直前に電話で爺ちゃんに聴いていました。
爺ちゃん曰く「白糠からゴリ離れたチャロだよ」と。「ゴリ」とは何ぞや?で聞き返すと昔の距離の単位が「五里」だそう。

白糠に到着してからの行動予定は全く無く、とりあえず役場へ行ってみることに。
「〇〇の末裔なのですけれど、ご先祖の石碑があるとのことで調べに来たのですが、何方か分かる方はいらっしゃいますか?」。
数分待たされて、老人がやってきました。
「町史を丁度編集していたところで、〇〇さんのことも調べていたんだよ」と。
何とタイミング良かったのか。そして、立派なセダンで石碑まで案内して頂けることに。
役場の職員の方の運転で観光名所も案内して頂いたりで、想定外のサプライズとなりました。

そして辿り着いた石碑。
過去に開拓されたであろう平野の少し小高い場所に石碑は残っていました。国道と並行に走る線路沿いで、裏には小さな小学校が。(当時はまだ廃線になっていなかった記憶の白糠線)
「開拓功労者」の石碑には〇〇六太郎の名が刻まれていました。(Googleのストリートビューではまだ残っている様子です。白糠線の廃止に伴い、更に移設されたのか?ちと当時の風景と異なる感でもあり)
これはなかなかの感動でした。

同行してくださった老人の話では、「大正時代に酷い冷害があって多くの村民が困り果て、誰も助けてくれる人が居なく頼りになりそうな人には見捨てられ。そこで〇〇さんに相談したところ拾ってもらえたらしいんだよ。この石碑は一度捨てられそうになったんだけど、当時を知る老人達が反対してここに移設されたんだ」。
この石碑には何十年にも渡るドラマがあったようです。そして、ご先祖もお人好しだったようで。
編集中の町史のコピーも頂いたのですが、同様な話が綴られていました。「捨てる神、拾う神」と。

老人からは「〇〇さんのそれまでの歴史を知りたいから、何か分かることがあれば教えてほしい」と。
ただ、自分が知っているのは釧路で大きな呉服屋を営んでいた程度で、何処から来たのかまでは当時分からぬままでした。

その後、身内から聴いていた話では大戦前までその呉服屋は繁盛していて、道内に幾つも支店を構えていたそうで。当時の釧路は相当繁栄していたとも。
しかし、番頭さんの裏切りで全てを失ったと。
自分の爺ちゃんはその辺の話を詳しく伝えてくれませんでした。まぁ、大人な人格であれば孫に語る話題では無さそうです。
しかし、自分もお世話になっていた身内が亡くなった際にその番頭の倅だかが葬儀に訪れ、お酒の入っていた爺ちゃんは激怒してしまったそうで。
自分はいつも優しかった温和な爺ちゃんのことしか知りませんし、懐いてくれる孫も可愛かったのかと思います。
爺ちゃんは店を失うまで幼少期からボンボンだったそうです。しかし、その後はかなり頑張ったらしく、大手生保の子会社で社長まで上り詰めていて。
自分が二十代の中頃に爺ちゃんの葬儀に伺った際は、生保のお偉いさんが何人も参列されていました。

インターネットが普及し始めて数年経った頃、何となく検索したところ、新潟に同姓の方が見つかりました。病院で真面目な仕事をされている方の様子。(現在ではもっと沢山の同姓の方が見つかります)
試しにそのHomepageの管理者さんに電子メールを送ってみたところ、しばらくして新潟の〇〇さんから封書が届きました。
自分からの電子メールにはご先祖の石碑の画像等も添付していたので、少しは信頼して頂けた様子でした。
頂いた文章では、元々は江戸で商いをしていたそうです。家系図にも白糠の石碑の人物は残っていたそうですが、面識も無い方には詳しく語れないとの内容でした。

上記から十年以上経った昨年、Webで改めて検索してみたところ、更に詳しい情報が見つかりました。
国会図書館のDBに残る北海道の開拓関連の古い書物でした。他にも大正期の何方か(永久保秀二郎氏)の日誌をデジタル化した記録にもご先祖さんの名が所々残っていて。
江戸時代のご先祖さんは江戸や新潟で商いをし、人望も厚かったらしく地域の長も務めていたそうです。しかし、大火で全てを失ったらしく、明治期に北海道に渡り。
その後、釧路で大成功を収めたと。
当時の人物写真もDBの記録には残っていました。大正期で既にかなりの老人でした。

江戸時代から大正時代までのご先祖さんの記録が残っているのは、なかなか貴重というか、珍しいというか。

そばっ子復活

今月の中旬に仮店舗で営業再開した金町の立ち食い蕎麦屋「そばっ子」さん。
移転後初日、開店の15分前に暖簾が降りていて、これはと入店したところ、自分は最初のお客さんだったようです。
これは色々と嬉しい。

頂いた最初の一杯は以前と同じく美味しかったのですが、蕎麦の食感が明らかに異なっていました。
それまでは特に冷やしですと蕎麦のコシもツルツル感も際立っていて、喉越しまで楽しめていたのですが。
その特徴が全く薄れてしまい、頂いた後は歯の隙間に崩れた蕎麦が残っている状況。こんなことは移転前にありませんでした。

それから幾度か訪問し、少しずつ改善はしたものの、移転前には程遠い食感は続いていました。
お店のおっかさん達と、その話題にもなりました。当初は製麺屋さんの担当が変わったからか?と。
しかし、製麺屋の方もそれを気にしてか幾度も店内で見掛けています。毎度真剣な顔で御蕎麦を頂いていました。

そして本日、九日ぶりでそばっ子さんへ伺ってみると。
ほぼ移転前の食感に戻っておりました。おぉ、これぞそばっ子。立ち食い蕎麦離れしたレベルの復活です。
他にお客さんが居なかったので、その旨伝えたところ原因が判明した様子でした。
何でも、移転前の御蕎麦はガスで茹でていたそうですが、移転後は電気で茹でていて当初は火力が足りない様だったとのこと。
原因さえ分かってしまえば、問題の解決は早いもので。
頂いた後も、歯の隙間に何か挟まるようなこともありませんでした。(あの感覚はどうにも好きになれず)

Twitterでも移転後からの件を時々綴っていたのですが、あまり手厳しいことを綴ってしまうと営業妨害にもなりかねず。
Twitterでは常連のミナトクジラさんが当初から茹で加減について指摘されていて、結果はまさしくその通りだった様で。流石です。自分は製麺を疑っていたので。
食感まで含めた完全復活はもう少し時間が掛かるかなぁとお店のおっかさん達と話していましたが、もう大丈夫だと思います。
ともかく、良かった良かった。

柴又への帰路は江戸川のサイクリングロード経由でしたが、向かい風が強くてちとヘコタレました。
途中の公園にてイップク。しかし、煙草を自宅に忘れたようで。
素直に初夏の木陰を楽しむことに。
あぁ、たまらん。

近くの煙草屋さん

自宅近くの小さな煙草屋さんが心配です。
老夫婦が営む昔ながらの店舗なのですが、ご夫婦共に足腰がいよいよ弱ってきていて。

小さな店舗は奥の居間と続いていて、呼び鈴を押せばその奥から登場するハズなのですが、ここのところ反応が落ちる一方です。特に店番の機会が多いお婆ちゃんの調子が宜しくなく。
大丈夫かな?と店の小さな窓から覗き込むと、居間でのたうち回る姿を幾度も観ていて。
「のたうち回る」という表現は不適切かも知れませんが、弱った足腰で起き上がれずに頑張っている姿は他の表現が浮かばず。
以前はそれでも立ち上がれて何分も待つ価値があったのですけれど、この頃は立ち上がるのを途中で諦めてしまう場面が多く。

そんなことが続くと、呼び鈴を押すのも罪悪感が付きまとってしまい。
本日は三分ほど待った頃に何とか登場してくれました。お婆ちゃんは立ち上がりやすいように居間で椅子に腰掛けられていました。
登場さえしてくれれば銘柄指定から商品選びまで普通にこなしてくれて、何よりお釣りを含めたお勘定はとてもスピーディーでした。(過去形)
頭は十分に生きていたハズなのですが、本日は注文もなかなか通らず、普段自分が選ばない目の前にある銘柄で妥協。
そして、得意だった暗算も出来ない様子で自分がお釣りの額を指定する結果に。銘柄の値段も引き算も分からなくなった様子でした

残念ではありますが、このまま無理を続けるよりはお店を畳まれた方が良いかと思えてしまい。
健康維持の目的で続けているのかも知れませんけれど、それなら他のもっと楽な方法もありそうで。
そういえば、お爺ちゃんの方は前回の区議選以降見掛けておらず。生きてるのかな?

何年振りかに頂く「セブンスター」はけっこうキツいなぁと思いつつ綴っております。
しかし、この銘柄の発音がちと不思議です。
七つの星は複数形なので「セブンスターズ」と英語では綴られているのに。
お菓子のプリングルズはプリングルと発音しないのに。
まぁ、そんなことどうでもいいか。

月とキャベツと

流行歌に疎い自分でも、山崎まさよしさんの”One more time, One more chance”は当時からお気に入りでCDも持っていたりします。
主題歌が使われた映画”月とキャベツ”も良作とのことで、ずっと気になっていて。
あれから二十年も経った昨夜、Web経由で観てみたのですが、これは切ない。

【ストーリーは】
売れっ子バンドを解散しソロになった主人公は創作意欲も湧かない中、田舎へ引っ込んでキャベツ作りに暮れる日々。
そこへ謎の白い女の子が転がり込んできた夏。
主人公は追い払おうとするのですが、新曲を望む女の子は離れようとせず居候に成功。

喜怒哀楽が抜けた日々、少しずつ色彩が戻ってきた主人公。荷物置き場と化したピアノの蓋も久し振りに開けることに。
ダンサー志望の女の子は主人公の新曲で踊るのが夢で、少しずつカタチになってゆく曲をバックに踊ってみせたり。
新曲がカタチになり始めた頃、女の子の正体が主人公の親友(カメラマン)に知られてしまいます。

北海道の田舎で暮らす高校生の女の子は東京で予定される創作ダンスのコンクールに向けて大きな台風の中旅立ちました。
しかし、川沿いのバス停で土砂崩れに巻き込まれ、女の子は帰らぬ人へ。発見された亡骸のウォークマンからは主人公の嘗ての曲が流れ続け。
前年のコンクールを偶然撮影していたカメラマン、舞台裏の一枚の写真がキッカケで既にこの夏に女の子が他界していることを知り。

やる気を取り戻した主人公を支えてくれた女の子に、カメラマンは「ずっと奴の傍にいてほしい」と伝えるのですが、女の子は「もうすぐ夏休みが終わってしまうから」と。
新曲の完成まであと一歩の頃、女の子は主人公にかけがえのない存在になっていました。しかし、お礼の言葉を残しフワッと消えてしまい。
もう会えないのか。曲も詞も完成したある日、主人公は空に向かってハーモニカの音色で女の子を呼び戻そうと。
その晩、完成した曲を演奏していると、女の子はフワッと現れピアノの前で踊りが始まり。

要約が下手な自分ですが、結末も含めてこんなストーリーでした。
映画としての作りの甘さは隠せない部分が幾つかあったものの、伝えたい部分はしっかり伝わった佳作でした。

【自分の場合】
作品に登場したあの細くて白い女の子、自分の思い出の中にも近い存在が居ました。
容姿が似ているというより、雰囲気がです。妖精でした。

高校三年の春のこと、街から離れたいつものバスには同じ高校の制服を着た新顔もちらほら。
詰襟の男子もセーラー服の女子も皆小綺麗で、まだ幼さが残っていて。擦れた雰囲気の新顔は今年も一人もおらず一安心。
同じバスに何年も乗る自分は、新学期だというのにいつ洗濯したか分からない小汚い詰襟に寝不足なボサボサ頭に無精ひげ。最初からこうでは無かった。
丸暗記が苦手な三年生、解き慣れが必須な数学の教科書をいつも忍ばすおかしな奴。

そんな日々、時々目が合う女の子が居ました。見るからに童顔の真っ白な新入生。
場慣れしてだらしなくなった上級生がさぞや珍しい動物園の珍獣なのか、目が合えば逸らされるばかり。
部活に属していなかった自分が下級生と接触するのは通学のバスか、昼休みの階段くらいしかありませんでした。
そんな中、この白い子はすれ違う機会が何故か多く。

その年の文化祭で自分は少し目立たせてもらいました。
自分は学級委員のような立場を三年間続けていて、クラスのまとめ役な場面が多く。
成績が良かったワケでも無く、煙草もお酒も単車もたしなむ全く相応しくない立場でしたが、その役を決める場面は誰かによる勝手な推薦と一同の拍手で事収まる流れ。嫌がる本人に拒否権など無く。
学級委員といっても、一週間の時間割を大きな紙に描いて教室に貼るといった裏方作業ばかりで、イベントの予定では面倒な纏め役であったり。
役職特権みたいなのは当時から嫌いだったので、イベントの役割分担ではいつも余り物を拾っていました。

体育祭は運動音痴な自分に活躍の場が無かったですが、文化祭は毎年楽しみでした。
前年の二つの出し物も上手く行き。街中をパレードする仮装行列とステージ発表はどちらも満足の出来でしたが、受験を控えた今回は余り手を掛けないで行く流れでした。
手を掛け過ぎると衣装代で足が出てしまった例もあって、ともかくあり合わせのモノと知恵を有効利用しようと。
実際、予算は余ってしまったのですが、理系のクラスで僅かな人数の女の子達の衣装作りは毎度大変だったと思います。
仮装行列はインディアンを題材にし、みすぼらしさと勢いとノリで大当たりか大外れのどちらかしか狙えない内容。
よし行くぞよ。なんじ馬鹿になれ。

第三位からの結果発表で二位までに入れず、これは駄目だったかと半分沈んだところで一位は我がクラス。これはかなり嬉しかったです。皆またしてもインディアンの雄叫びで大騒ぎ。
この本番、先頭で段ボール製のトーテムポールの中に潜んだ自分は見守る観衆の中に子供を見付けると襲い掛かって喜んでいました。後方の皆も負けじと馬鹿騒ぎに大笑い。
いつもお世話になっていた本屋の女将さんに、イーヅカはこの中です!お借りしたリヤカーは後ろの馬車です!

そして、文化祭のもう一つのイベントがステージ発表。
音楽室から借りてきた沢山のギター、弾けそうな奴らを寄せ集めし、フロントに靴墨を塗った数人でシャネルズ(ラッツ・アンド・スター)バンドでした。
自分はラッパが吹けるということで、フロントラインに。目立てる役はこれが最初で最後でした。三年間のご褒美的な意味合いもあったかも知れません。
この一曲だけでは時間が余り過ぎてしまうので、最後は皆で肩を組みつつ「若者達」の合唱で。如何にも田舎の高校生らしく。

その時の笑顔の皆の写真が残っています。ぜんぜんカッコつけていなくて、生き生きとしていて。
自分は直前のラッパをしくじらなくて、ちょっとした安堵も入っていました。目立ちたがり屋な部分もあるのに、本番では力んでしまう不器用な奴で。
そして、明日からは大学に向けた受験勉強に励まなくてはいけないという哀愁も。
(あの時のステージ衣装は上出来なタキシードで、自分は欲しかったのですが本番後の楽屋で紛失してしまい。必死に探したところ製作してくれたクラスの子に奪われてしまったそうで。二千円で買うと取引を持ち掛けても認められず。大体、あんな汗臭いの恥ずかしく)

文化祭のステージで目立ってしまうと、後日は後輩からファンレターのようなモノを頂いてしまったりです。
これは自分に限らずですが、自分も頂いたりしてしまいました。時として集団でやってくることも。
普段の自分はステージの上のヒーローではなく、年中馬鹿な事ばかり企てている駄目な奴で。白馬の王子ではなく、ロバを引っ張るドン・キホーテ。
自分は卒業したらこの北海道から離れる予定でしたし、恋愛はその先と決めていました。
だいたい、アルバイトばかりしていた自分の成績は既に下の領域で、如何に効率良くあと数ヵ月で巻き返すかが重要課題。他の幾つも捨てなければ。
これを乗り越えなければ先が無く。それ以外の選択肢は考えられなく。

北海道の夏は八月末の文化祭と共にサッと去ってしまいます。夏は昨日までだよと。本州出身の自分としては、残酷過ぎる夏の終わりです。
親しかった友人達とは、いつも昼休みを図書室で過ごしていました。それまでは「こんな変な本があったゼ!」とか好奇心旺盛な仲間でしたが、受験勉強が始まると、そこで過去問を解くばかりのつまらない集団になりかけ。
時折やってくる女の子達には気付かぬフリをしていました。しかし、中には積極的な女性も居ました。合格祈願のお守りを頂いてしまったことも。
そのずっと後ろに、例の白い女の子も。
積極的なのは一学年下で、二学年下の白い子は心配そうに見つめている様子。
どうしてここに?

あの秋から数ヵ月、誰しも不安の中で孤独と戦っていました。
新年からは自宅学習期間で学校に通う必要もなく。時々様子見に伺っても、僅かな生徒だけの教室は夏が終わるまでのあの頃とは別の空気で、寒い自宅で布団に包まりながら問題集を解く方がまだ居心地良く。

希望の大学から合格通知を頂いた自分は、サッサとこの寒い土地から離れたい一心でした。本州の中心で、沢山の刺激が待っているに違いなく。大体、北海道での自分は出来ることなどとっくにやり尽くしていました。
そして、北海道の春先というのは寒さは和らぐものの、雪解けの始まった道路はドロドロで純白の雪とは程遠く美しくなく。
親しかった友人の何人かは浪人となり、特に文化祭で頑張ってくれた友人には申し訳なくて。自分が馬鹿色に染めてしまった夏が落としてしまったかもと懺悔の念。
みんな受かってほしかった。

高校の卒業式は初めてのパーマヘアーが大失敗で、そそくさと去った記憶程度です。皆、もうこの環境に飽き飽きしていたとも思えます。
最後にひと暴れしようか?と仲間内で話し合いもありましたが、最後くらい穏やかに過ごそうとなり、お通夜のような卒業式でした。
「沢山の素敵な思い出をありがとう」だけでした。一緒に馬鹿をやってくれた同期にも、校則違反を知りながらも見守っていてくれた大人達にも。

最後の文化祭は相当な盛り上がりで、特に三年生のレベルはどのクラスも大したものでした。それに感激した新入生は地元の新聞に投稿が採用されたりしたそうで。
当時ギリギリで学区内トップの成績だった母校は、現在ライバル校に相当な差を付けられてしまったそうで、これはちと残念です。何よりもあの仮装行列も後夜祭のウイットに富んだ挑戦状も既に失われたらしく。それでケジメはつくのか。
自分のクラスは浪人を含めると過半数以上が国公立大に進み、歴代でも一番優秀だったそうです。

それと、卒業式の夜は地元の居酒屋が同期の各クラス単位で何処も貸し切り状況でした。
おおらかな時代です。羽目を外す範囲も皆さんわきまえていたと思えて、特に事故も無く大人達は見守ってくれていた様子でした。
今の時代は何もかも無駄に厳し過ぎとも思う自分です。ハタチに突然大人になれるワケなんて無くて。

東京に出た自分は九月の終わり頃に初めての彼女と出逢っていました。
時はバブルど真ん中、お金も地位もコネも無い自分と付き合ってくれた女性に日々感謝しつつ。
昼間の仕事と夜の大学で平日が終わる日々でした。平日といっても当時は土曜も平日です。
彼女と会えるのは日曜日か祭日だけで、デートもお金の掛からない公園ばかり。
彼女は以前の彼氏にドライブに連れて行ってもらえたり、話題のスポットに連れて行ってもらえたりだったそう。
彼女のお姉さんは彼氏との週末でゴルフやビーチを楽しんでいたり。
自分はそんなの無理でしたし、ささやかなサプライズを用意するくらいで。

毎度申し訳ないなぁと思いつつの十月のデートは既に幾度目かの上野公園。この辺りは食事も安くて美味しくて。
美術館を巡った後、夕暮れ時の公園で見覚えのある制服達が。セーラー服の肩には鶴の刺繍。こんなの自分の母校しか観たことが無く。
「〇〇高校の生徒ですか?」と咄嗟に聴いてしまいました。
「はい」と。

修学旅行で東京に寄っているらしく、彼女の手を引っ張り集合場所の大きなレストランに走りました。二年前に自分も利用した場所です。
集合場所では懐かしい先生達も。自分は元気にやってますよと挨拶し。
隣の彼女は突拍子もない出来事に困惑していた様子でした。

集合場所を離れようとしたところ、二人組の女の子が駆け寄ってきました。
腕を引っ張られる女の子は、あの白い子。
「先輩。。」と頼りなさ気な声に涙ぐむ瞳。

何じゃそりゃ!こんな酷いドラマ許されるワケなく。

自分は気付くのが極端に遅い出来事が時々あるんです。
やっと理解しました。しかし、何故にこの最悪なシチュエーションで。
気付かぬフリして、彼女の手を引いてその場を去りました。
これは残酷過ぎる場面でした。さっきまで、今日はタイミング良い日だと思っていたのに。

その翌年の夏は、入手した250㏄の単車で北海道に帰省しました。
益々古ぼけた高校の校舎へ挨拶に。
三年間自分を担当した先生と再会し、痩せ過ぎた自分が心配だと返されてしまい。
でも、元気でなければ単車でこんな長距離走れませんし。実際、元気でしたし。いつも腹ペコだったけど。

数学の教員室でお別れし、階段を下りる途中で腕を引っ張られる女の子が。
「イーヅカ先輩!」

三年生になった白い子は、清純派アイドルのような綺麗な女性に変わっていました。
あんなに大きな声では、聴こえないフリも無理はありました。
しかし、無理なんだとも伝えられず、振り返りもせず。

昨年の彼女とはとっくに別れていて、独り身ではありました。
進学にしても就職にしても、自分の高校から東京に出てくるのは極僅かで。その極僅かなのも男子だけでした。
当時まだ若年者な自分でも、幸せは近くにあるに限るとも思っていて。
高校の同級生の中には東京で暮らす自分は派手な生活をしていると誤解もあったようです。しかし、実際は生活費と学費だけで精一杯だと気付き、大学時代に付き合った彼女は短い期間のその一人だけでした。

更にその翌年の夏、帰省した際に母から聞いたのですが、知らぬ名の女性から暫く前に電話があったそうです。
「〇〇さんっていう女性からケースケに電話があったのよ。この夏は帰省するのかって聴かれたの」と。
母はどうして直ぐに自分に連絡してくれなかったのか。そして、どうして自分の連絡先をあの子は聴かなかったのか。あと一歩だったかも知れないのに。
自分は毎度予告もせずに突然帰省して実家を驚かせていたので、母も答えようが無かったようです。これも確かに自分のせいですし、やはり誰も責められず。
あの白い子しか思い浮かばず、高校はもう卒業した年齢だったでしょうし、もう会うキッカケは残されず。
(その苗字についてはこうだったかな?と何となく覚えてはいるのですが、自信なく)

偶然な場面もありましたが、あんなに酷い素振りをしてしまった自分が未だ許せずです。
もう少し、気の利いた対応が出来なかったものなのかと。でも、思わせぶりを残しては一番美しかった時代に更に辛く長い時間を費やさせてしまったかも知れず、これで良かったとも。
互いにケジメの無かった中で時々、白い子のことを思い出しています。昨夜観た映画でも思い出してしまった次第で。
あんな引っ込み思案そうな子が、よく勇気を振り絞ってくれたなぁと。
「勇気」のほとんどは「言う気」だと何かで読んでいて。

北海道へ帰省する機会が社会人になってからの自分は減る一方でした。
ただ、帰省する機会があれば、何処かにあの子は隠れていないのかなぁと思い返したり。あの唄の歌詞に近く。
会えたところで自分も何を言えるのか分からないですが、お詫びの一言くらいは伝えたかった。
既に十年以上自分は北海道に戻る機会も無く。一度も。
封印未満の過去の土地。

漱石の三四郎でも終盤辺りに似たような場面がありました。
大昔の戦争の出陣式か何か、隊列を見守る群衆の中に白い女性が居て。会えたのはその一度きりなのに。
ずっと歳を重ねてしまった先生、風邪をこじらせた夢枕にその女性が現れたそうで。
こんな感覚は誰しもあるものなのか?(未だ独り身というのも理由なのか)

大学時代に友人から紹介された本で当時流行り始めていた心理学の素人向けなのがありました。
お酒の席での話題作りとかには重宝するネタが満載で。その中で「人のイメージ色」みたいなのがありました。
うろ覚えですが、黄色いイメージの人は「面白い人」、白いイメージの人は「尊い人」。
これは案外、当たっていたのかも知れません。

名も知らぬあの白い女の子、きっと今頃は何処かで目の前の幸せと一緒に暮らしていることだと思います。勝手な想像ですが、子供さんは当時の自分達くらいの年齢で。
あの子の白い夏はいま、どんな思い出なんだろう。

アンテナの交換

昨日は夕刻から思い立って、小さな庭にてアンテナ交換を実施していました。
東日本大震災直後から再開したアマチュア無線、アンテナについては時々イジっていた感です。そもそも無線機はほとんど触っていないので、時々でした。

これまでのアンテナの流れは大体以下です。
・2011春頃~ ダイアモンド社のW-721という7&21MHzの短縮ダイポール(途中で手動のアンテナチューナーCAT-300も追加。設置環境は外神田の古いマンション屋上)
・2012冬頃~ バランをBU55に変更し、21&50Mhzのフルサイズダイポール(大雪で支柱が折れて短縮コイル以降を外し、50Mhz用の線を新たに加える)
・2014秋頃~ GPアンテナCP-6に変更。(見た目はゴツゴツしたアンテナでしたが、ソコソコの性能でした。飛ぶアンテナ程見た目がゴツい法則があるかも知れません)
・2015秋頃~ 外神田から葛飾柴又のマンション一階に引越し。小さな庭に目立たないようダイポールアンテナに戻す。
・2015冬頃~ オートアンテナチューナー(ATU)FC-40を入手し、ロングワイヤーに変更。(期待していた3.5MhzはSWRが下がらず。他の周波数は下がるものの飛びはイマイチでノイズも大き目)
・2018春頃~ ダイポールアンテナに戻す。21MhzはATU無しでもSWRは1.5以下。3.5MhzはATU経由でSWR1.5以下。ノイズは明らかに減りました。

ノイズが減ったのは嬉しいことです。これまでは受信可能な局があってもS7以上に振れているノイズの中から探す作業だったのが、全くバックグランドノイズの中から信号だけが浮かび上がる状況に変わりました。
オートATU自身がノイズ源だったのか、アースがちゃんと取れていなかったのか原因不明ですが、送信機からアンテナまでの構成はシンプルになり、21Mhzではアンテナ単体で効率も上がったのでメリットは大きそうです。
もしかすると、単純にコンディションが良くなってきただけなのかも知れませんけれど。

FC-40については、送信機とATUの距離が5m以下が標準で、実際のところ長さが足りな過ぎるかと。せめて10mあれば自由度が高まったかなぁと。
屋外設置型のオートATUはアパマンハムの救世主でもあるそうですが、数年間使用した感想として飛び云々については二の次になってしまうのかなぁと思っています。どうやっても普通のアンテナが立てられない環境で、ロングワイヤーなら何とか這わせられる中でなら最後の手段になり得るかも知れません。
マンションの狭いベランダ内での運用でしたが、今の自分なら一番利用率の高いモノバンドのモービルホイップに手動ATUの組み合わせが良いかなぁと思っています。自宅は狭いながらも21Mhzのダイポールが張れる庭があってまだ恵まれている環境かも知れません。
まぁ、この庭があったから買った部屋でしたけれど、マンションの管理規約が厳しかったりすると無線のアンテナどころか衛星テレビのパラボラアンテナも設置出来ないような例もあるそうです。流石にそれは厳し過ぎとも思えます。

現在のHFの給電点は5mのポールの先端になります。逆V的なアンテナです。エレメントは狭い庭に這わせたので、真上から観てもVな見た目です。
昨日のアンテナ交換の際、余っていた同軸ケーブルの長さが足りず、これまでポールの先に付けていた144/430Mhz用のモービルホイップに使用していた同軸を外してHF用にしています。
そんなワケで、現在はハイバンドが利用できない状況です。まぁ、ハイバンドは更に利用頻度が低かったのですけれど。
実際、無線機の電源を入れるのは月に一度あるか無いか。電波を出すのは年に数回。それも50MhzのFMの特定局ばかりです。ほとんど、生存確認状況です。
基本的に自分はラグチューが好きみたいです。あと、JARLに加入していないのでQSLカードの交換も面倒で。QSLカードの交換、そろそろ電子メール経由が普及しても良いのになぁと思っています。

あと、使用中のリグについてですが、東日本大震災直後はFT-817というポータブル機のみでの運用でした。しかし、出力5Wというのが頼りなく、途中で3アマの免許も取れたりでFT-857の50W仕様に鞍替えしています。
細かく綴ると、FT-817の前にVX3という144/430のハンディ機も入手していたりでしたが、話す相手が全く見つからず、無線やるからにはHFな姿勢だったもので(昔から)。
FT-817は相当息の長いモデルらしいですが、先月やっと新型になった様子です。しかし、写真をみたところほとんど同じですネ、スペック的にも。新型でもバッテリーは相変わらずリチウムイオンではなくて。
自分のFT-817はずっと押し入れの中で寝ています。使わなくてもファイナルが飛んでしまうとか噂に聴いていますので、たまには火を入れなければと。
そんなワケで、今年はもう少しアクティブに行きたいなぁと考えている無線環境でした。

このサイトのアクセス数

2005年にBlog形式に移行してから13年ほど経過した本サイト、取り留めもない記事ばかりなのですが、時々綴っている技術系の記事はソコソコのアクセス数があるようです。
Linux関連の記事、単車関連の記事、オーディオ関連の記事、あとは既に暖簾を降ろしてしまった店舗関連が古い記事でもアクセスが多い様子です。
特に技術系の記事は、初めて触る対象の設定方法等が分からない方向けに綴っているので、少しは役に立っていそうです。私本人の備忘録にもなってはいます。
自分でもたまにしか触れない技術方面で忘れてしまった部分は、このサイトの古い記事を漁っていたりです。

アクセス数は日によってマチマチですが、一日辺り50~150件程です。個人で流行りに乗っていないサイトとしてはこんなものでしょうか。
過去の最多アクセスの日は500件とかもあったようです。テレビか何かでその話題が紹介され、検索結果で上位に入ったとかな流れかと。

ちとオチの無い記事となりましたが、我ながらよく続いているなぁとは思っています。

奇人変人

以前にエベレストの登頂史をWikiで読んだところ、これがなかなか面白く。
なかなか登頂に辿り着けない歴史で、異色を放った一人が居ました。
本文からの引用では「1934年、イギリスの奇人モーリス・ウィルソン (Maurice Wilson) が飛行機を山腹に不時着させ単独登頂をするという計画を立てたが、不許可となる。登山経験のないウィルソンは「霊的な助け」によって頂上にたどりつけると信じ、2人のシェルパを雇ってノース・コルのふもとまであがったが行方不明になる。」とのこと。

歴史上の人物は色々と肩書があるものですが、このモーリスさんの肩書は「奇人」。
元々パイロットだったそうですし、現代でも飛行機を個人で所有できる人というのはかなりのお金持ちのハズで当時なら尚更かと。冒険家の一面もあったワケですし「奇人」以外の肩書だって書きようかあったと思うのですが、やってることがぶっ飛び過ぎていて「奇人」が適切な表現だったのかなぁと。
モーリスさんのやってきたことは他のサイトでもっと詳しく紹介されていました。誰よりも先にエベレストに登頂したかった様子で、この手段を択ばない作戦は凄いと思えます(結果的に帰らぬ人となりましたが)。

冒険家という存在自体、そもそも奇人の部類かと思っています。特に危険の付きまとうレベルですと、相当なリスクを背負うワケで。
初期の宇宙飛行士なんかも、それに類するのかなぁと。名声の獲得も少しはありそうですが、自分の目で見てみたいという欲望や好奇心が勝るのかなぁと。
その気持ちは自分でも分かります。「無理だ」とか「無謀だ」と言われることほど本当に無理なのか自分で試してみたくなる部分。自分でも分かるというより、自分は人よりその傾向が強いかも知れなくて。
ただ、命を落とすかも知れないレベルの挑戦はしたいと思わないですけれど。(若い頃に車や単車を無駄に飛ばした程度で、これは誰でもあった範囲かと)

誰しも多かれ少なかれ奇人変人な部分はあるかと思います。一人で居る場面など人に見せられたモノでは無いと思います。
それが冒険の方向に傾くと、場合によっては奇人でなく偉人になれるのかなぁと。しかし、そんな分野でも奇人とされたモーリスさんはやはり筋金入りなのでしょうネ。

で、「奇人」とは何ぞや?とWikiで検索したところ、面白い人が沢山登場しました。
こんな人が居たんだなぁと。中には大塩平八郎も載っていて。乱が成功していたら偉人扱いだったのかも知れず。
お暇な方は読んでみる価値あるかも知れません。