六年前くらいの仕事で、石巻へ幾度か訪れていました。
泊りがけの仕事が多く、大きな製紙工場と川の向こうにあるホテルを車で往復する日々。
石ノ森萬画館がある中州の辺り、道路沿いにインパクトある看板があったんです。
時間が出来たら寄ってやろうと思っていた映画館でした。
今回の災害で真っ先に思い出した石巻は、やはり岡田劇場でした。
残念なことに災害で流失してしまった様子でした。
復活したら、是非とも伺ってみたい場所です。
六年前くらいの仕事で、石巻へ幾度か訪れていました。
泊りがけの仕事が多く、大きな製紙工場と川の向こうにあるホテルを車で往復する日々。
石ノ森萬画館がある中州の辺り、道路沿いにインパクトある看板があったんです。
時間が出来たら寄ってやろうと思っていた映画館でした。
今回の災害で真っ先に思い出した石巻は、やはり岡田劇場でした。
残念なことに災害で流失してしまった様子でした。
復活したら、是非とも伺ってみたい場所です。
部屋の壁のヒビ、また広がっていました。
まぁ、自分もシワが増えていますし、似たようなものだと。
この古いマンション、地震のときは路上からみてもかなり揺れていたそうで、隣のビルとぶつかりそうな勢いだったらしく。
変なタイミングで部屋に居たら、SUKIYAKI煎餅の出来上がり。
本日の訪問先は、江東区の臨海地域。
研究所の入った立派な建物は、地面と玄関の間に砂が浮いていました。歩道はうねり。
埋まった排水溝にこれ以上砂を流さない為か、砂は土のうで囲まれていました。
建ってまだ六年くらいの立派なビルなのに。
とりあえず、うちの方がまだ被害が少ないなぁと。
ガァ
十数年前、自分は酪農系の仕事に就いていたんです。
宮城も福島も、幾度訪れたか分かりません。
搾乳ロボットの故障に朝から晩までハマッた数日の深夜でした。
福島の宿泊先で深夜の天気予報に嬉しさをちょっと感じたんです。
テレビの後ろで流れていた曲はBill EvansのAloneに含まれていた一曲、On a clear day (you can see forever)。
晴れた日には、明日がみえる。
人里離れたこの場所で、ずいぶん洒落た選曲だなぁって。
この曲を選んだ奴は偉いぞって。
そこに気付く奴は少ないだろうにって。
そんな東北も好きでした。
ガァ
プーケットのビーチでジェットスキーを借りたとき、教わったんです。
互いに片言英語でした。
もし、大きな波が来たら、波から逃げず真っ直ぐ突っ込め。
横を向いたら転覆する。保険は無いから修理代はお前が払うことになる。
分かったか?
今回の震災で目にした記事に、ちと感動がありました。(引用元:毎日jp)
【東日本大震災:大島救った「ひまわり」 客船運航で孤立危機回避--宮城・気仙沼】
宮城県気仙沼市の対岸に浮かぶ大島は、津波で900人乗りのフェリーが壊れるなどして孤立する恐れに直面していた。危機を救ったのは島で唯一船体の損傷を免れた42人乗りの古い客船「ひまわり」だ。船長の菅原進さん(69)は自身も避難所生活を送る被災者だが、地震2日後から毎日、島と気仙沼港を愛船で往復し、人と物資を運び続けている。
菅原さんは中学卒業後、遠洋漁船に乗り込んで世界各地に漁に出た。その後家庭を持ったのを機に、70年ごろ漁業をやめた。だが、大島で生活し始めると、気仙沼港とを結ぶ定期便が1日数本しかなく不便さを痛感した。そこで帰宅の遅い人たち向けに、夜間の臨時便としてひまわりの運航を始めた。島の人たちに欠かせない交通手段として、40年以上利用されてきた。
自宅で地震に遭った菅原さんは、津波から守ろうとひまわりに乗り込み、あえて沖に向かった。すぐに高さ数メートルの津波がやってきた。「逃げたら転覆する。前に進むしかない」。壁のような大波を4回ほど乗り越え海が落ち着いたのを見計らって島に引き返した。
島は沿岸部が津波で壊滅状態で、火災も起きていた。22人が死亡し、22人が今も行方不明になっている。菅原さんの妻と同居の三女、2人の孫は無事だったが、自宅は1階部分が海水につかり住めなくなった。
日中の地震だったため、働き手の多くが島を出ていた。菅原さんは「島民の救出にはもっと多くの人手が必要」と考え、13日、気仙沼港へとひまわりを出した。家族の元に駆けつけたい島出身者や、島からの避難が必要な高齢者らを運ぶため、島と気仙沼港を往復する日々が始まった。
有志の島民の支援も受けて1日2往復の予定で始めたが、それでは間に合わず4往復することもある。避難所では周りの人が休むよう勧めてくれるが「港を出るとき『頑張れ』と送り出してくれる人たちがいるから」と当面は続けるつもりだ。
年季の入ったひまわりは、乗り込むと床の板材がきしみ、操舵輪(そうだりん)にもさびが浮いている。菅原さんは言う。「太陽に顔を向けるヒマワリが好きで名付けた。少々古くてもあの大波を越えることができた。島民がみんなで力を合わせれば、島はよみがえる」【喜屋武真之介】
検索結果の「ひまわり」という船、これで乗り越えた船長に勇気を分けてもらえた感。(大波を乗り越えた→ひまわり)
ガァ
昨夜の頃、通販でカード型のサバイバルツールを購入しました。
子供の頃、少年サンデーか何かの広告欄に載っていた部類の商品です。
当時は高くて手を出せなく、昨夜検索したら安かったので、まとめ買いしてしまいました。
普段お世話になっている方にでもプレゼントしようかなぁって。
しかし、本日になって「ちゃんと使えるのか?」と調べたところ、どのサイトでも酷評が多かったです。
どの機能も使い辛く、最悪の場面で「無いよりマシ」といった具合で。(探偵ナイトスクープでも笑いのネタにされたとかで)
まぁ、「無い方がマシ」ではないので、極限状態で少しは役に立つのかも知れません。
で、その取説らしきものをWebで入手したのですが、これが酷い。(自分が購入したモノとほとんど同形状の製品)
番号が振られる各機能はそれぞれ間違っていて、「栓抜き」らしき説明は「できません。抜き」。
如何に使えないか、物語っているようでもあり..。
このシュールな一週間で、一番笑いを取れました。
ガァ
今回の地震で、浦安が大変らしいという噂をしばらく前から聞いていました。
浦安といえば、都心部からも十分に近く、通勤も便利なベッドタウンなイメージでした。
本日、知人に見せて頂いたメールの添付写真が、説明抜きに深刻な状況を伝えてくれました。
プライバシーも含まれるのでこちらでは公開できませんが、マンホールが大人の身長を超えた高さに伸びた写真でした。
現時点で参考になる検索結果の写真→Googleで”浦安 地震 マンホール”をキーワードに検索した画像
地盤が沈下したのか、マンホールが伸びたのか謎ですが、ニュースであまり取り上げられていないのが不思議なくらいです。
都心部から近いそこでの生活は、現在大変な状況かと思えます。
本日は、自宅周辺のガソリンスタンドを数軒周りましたが、何処も品切れでした。
自分の単車は冬場でも燃費がリッターで40km以上、タンクも6リッターくらい入るので、近場をちょこちょこ走る分には、まだ問題無さそうです。
昨年何となく購入した単車でしたが、最近装備したキャリアやケースも含めて、とても役立っているこの頃です。
明日も、自宅待機予定です。
さて、何をしようかな。
ガァ
【地震初日:金曜】
地震が発生したとき、自分は八王子方面へ仕事で訪れていました。
地震の発生時刻(15時前)は仕事の区切りが悪かったため、一時間以上そのまま仕事を続けていました。
お客さんの事務所で震源地等の情報を確認し、東京は大した影響が無いくらいに思っていました。
高速道路の閉鎖は予期したものの「下道で帰ればいいや」と。
とりあえずスタンドでガソリンを満タンにして。
結果的に帰宅できたのは日付が変わった時刻。
幹線道路の渋滞は酷く、似たような方向に伸びる道を迂回しながら、どうにか都心部まで戻れました。
しかし、都心部の渋滞は深夜でも更に酷い状況(30分以上全く前進しない)で、途中で車を乗り捨てて帰宅しました。
飯田橋から九段下にかけての道は、交差点まで全部車で埋まっていました。
まぁ、自宅まで2kmの距離だったので、徒歩で何ら問題ありませんでした。
自宅の状況を確認したら、居間は壁から落下したCDが散乱。弦楽器は全て倒れ。
台所は割れたガラスとオリーブオイルの湖。
軽く片付けて、職場へはスクーターで向かいました。(昨年購入しておいて良かったスクーターです)
帰宅できない同僚の皆さんと職場で再開し、少しホッとしました。
職場は寝床と化していたので、自分は自宅へまた戻りました。
自宅の布団で寝れる幸せ。
【地震二日目:土曜】
翌朝は捨ててきた会社の車を拾いに、一ツ橋中学校へ向かいました。
路上で、何年も乗っていなかった自転車のチューブに空気を入れていたところ、お向かいさんが一ツ橋中学まで車で送ってくれまして、助かりました。
会社の車は、駐車違反の切符を切られていなかったです。
会社では、昨夜のうちに帰社出来なかった同僚も戻っていました。
更に一安心でした。
その後、地元の牛丼屋さんへ寄って、いつもの店員さん達と再会。
SUKIYAKI: 寂しいんで、傍で食べていいですか?
おばちゃん: はいはい、いらっしゃい(ニコニコ笑顔)
SUKIYAKI: あの地震の翌日に営業してるって、根性ありますよ
おばちゃん: 鍋のつゆが、どんどんこぼれちゃって、大変だったのよ
SUKIYAKI: 火傷大丈夫ですか?
おばちゃん: うちは大丈夫。でも、揚げ物屋さんはしばらく開けられないと思うよ
SUKIYAKI: とにかく、無理しないでくださいね
それから地震の三日目までは、食料や燃料の補充に努めました。
【地震四日目:月曜】
地震二日目から三日目までは幸い週末だったので、私生活の充填にあてられました。
四日目の月曜日は職場へ。
私服にスニーカーで出社が可能だと、昨夜のうちに連絡があり、助かりました。
訪問予定だったお客さんへの連絡が、主な仕事となりました。
明日、明後日は自宅待機の休業とのことでした。
ライフラインに関わるお客さんへのサポートは、出来る範囲で。
【地震五日目:火曜】
きょうは、自宅待機が基本でした。
が、近くのキャンプ用品店で寝袋を十個購入し、職場へ届けました。
復旧まで長期化しそうなのはほぼ見えてきましたし、少しは安心して職場に向かいたいからでした。
中途半端な数しか確保できなかったら、使う側も後ろめたいでしょうし。
【いま思うこと】
後だしジャンケンでしょうが、大きな地震が多いこの国で、原発は無い方が幸せだったかもと思っています。
建てるにしても、本土から離れた海上とか、最悪の場面で一般人に最低限の被害で済むような場所にしてほしかったです。
結果的に東北の震源地は地震、津波、原発事故の三重苦です。
逃げ道だって限られていたでしょうに。
地震直後の混乱時、通信手段はiPhoneとTwitterとエネループが最強でした。
これが無かったら、誰とも連絡取れませんでした。
明日は衣類の確保を考えています。
ともかく、呑気に前向きに参りましょう。
ガァ