YAMAHAのVenova

様々な楽器に手を出し、どれも使いこなせなかった奴ほど、変な楽器に手を出す。
これはけっこう当たっている法則だと思います。
これなら、自分でも出来そうだ。
この感覚です。

一年ほど前から気になっていたYAMAHAのVenovaというリコーダーサイズのサックスっぽいのもソレに近く。


十年ほど前に試しに入手したこの楽器「Xaphoon」もそうでした。


以前から新宿の街中で路上販売されている方がいて、その方は路上演奏もされていて。これが、なかなか上手で。
まぁそんなに高価でないし、試しに自分も入手した過去がありました。
初めてのリード楽器、音は案外あっさり出てくれたものの音程がナカナカ安定せず。
安定して曲を吹こうとするほど、変な力が顔に入ったり胴体にも加わったり。
部屋で吹くには音が大きいし、近くの高速道の下で吹いたらお巡りさんに怒られてしまうし、土手まで行って練習しても何だか楽しくなく。

その後、台湾製の安いアルトサックスを入手したところ、目から鱗というか。
楽に音が出るし、レールの上を走っているような音の安定感。ぜんぜん演奏しやすくて。
この違いは何処から生まれてしまうのか。

でも、Venovaがちと気になるんですよね。
ピアノを長く続けてきた方の悩みの一つは、鍵盤楽器を気軽に持ち運べないことでもあり。
何処かに備え付けの鍵盤楽器が必ずしも自分と相性が良いわけで無く。
ピアノタッチでしか弾けない人にシンセタッチの軽い鍵盤を弾かせると操縦不能な演奏になりがちて。
なので、ギター弾きとかが羨ましかったりで。
コードも出せるしソロも取れるし持ち運びも便利で。
短音しか出せない楽器でも、達人が奏でるとコードまで響いてくるようであったり。

スナフキンみたいにギターを背中に旅に出たり、それより小さな管楽器を鞄に忍ばせて旅に出るなんてロマンチックではありませんか。
大自然の中で、自分だけのステージなんですよ。
なんつって。

サックスを教えている方の動画を確認したところ、VenovaもXaphoonに近い存在なのかなぁと。
でも、気になるんですよね。
少しは拭きやすいのかなぁとか。

柴又音楽祭


二日前の日曜日のことですが、夕刻から柴又音楽祭というイベントが地元の帝釈天さんで開催されていました。
TwitterかFacebookで事前に知っていたイベント、無料というのも手伝い伺ってみることに。

18時からの開演、15分くらい前には現着していました。まだ、リハーサルとか音合わせの最中でした。
舞台は柴又帝釈天の本殿から右に伸びるアーチ形の渡り廊下。その手前に折り畳み椅子の客席。
客席は空きが十分に残っていたので、隅の椅子に腰掛けて。そこへ届く音が意外にもけっこうしっかりした音でした。
エレピで音合わせする女性のアーティストさんは「低音をもう少し上げて」とか。

桑田佳祐さんもそうらしいのですが、コンサートに観客として伺うにしても、照明の配置とか数とかをチェックしてしまうそうなんです。
同業者として仕方ないのかも知れませんが、素敵な本番になるとその演奏に轢きづり込まれるか否かが重要なのかなぁと。

パンフレットでは四名のアーティストが参加とのことでした。本番は四組が順番に演奏される流れでした。
最初は女性の歌い手さん。某公共放送の子供向け教育番組に登場しそうな明るく元気な方でした。
御自身で作詞作曲もされているそう。伴奏はカラオケでしたが、かなりしっかりしたアレンジは曲の盛り上がりも意識していて。
ギター一本のフォーク歌手では演出できない音の厚みというか重なりというか。
次の曲辺りだったかで、アーティストさんは手拍子を求めていました。

この手拍子がイントロの裏拍子から始まりまして。
たまたま隣の椅子に腰掛けれていたお婆ちゃんも手拍子で応援を始めたのですが、これが微妙にズレてきまして。
踏切の遮断機というのは入り口側と出口側にあるのが普通で、あれは何故かチンチン鳴る音が微妙にズレるものです。
お婆ちゃんの手拍子はどうにも表拍に導かれるようで、気付くと慌てて裏拍に戻していて。それの繰り返しで。
歌を聴いているというよりは、目の前のステージで明るく元気に歌うお孫さんくらい若い女性を一生懸命応援している感。
歌ももちろん素敵だったのですが、頑張って応援しているお婆ちゃんがまた素敵だったんです。凄い一体感。

次のアーティストさんはエレピのみの演奏でした。
この方もミスタッチが無い演奏で、上手いもんだなぁと。カラオケ無しのピアノ一本でダイナミックな演奏で。
ラストの一曲は「男はつらいよ」のテーマだったのですが、どんなアレンジをされるのかなぁと。
これがまた見事でした。ご本人も一ヶ月くらいアレンジに費やしたとの前置きで。
代理コードとかも使っていたのかも知れません。ともかく、メロディックでドラマティックで。
あれは見事なバラードでした。

三人目のアーティストさんが登場された辺りで、自分は次の予定がありまして。
カーリーヘアーの歌い手さんとピアノの伴奏。ここまでで自分が一番好みな音が始まったものの、その一曲目を聴きながら帝釈天の参道をトボトボ。
背中から生演奏の音がしっかり聴こえてきて、これがまた何だかあの参道に響くドラマのようでした。

最後までちゃんと聴きたかったです。
今回は第一回の音楽祭だったとのこと。自分が去る場面では境内が老若男女で溢れていて、皆さん秋の夜長をしっとり楽しんでいた様子でした。
昼間は雨も降っていた中、それにはやられず半袖で丁度良い気候。折り畳み椅子の下には蚊取り線香もしっかり。
次回は最後までちゃんと聴きたく、また楽しみにしております。

興味無いんだから(安室奈美恵の引退)

歌手の安室奈美恵さんが引退されたそうなのですが、気の毒に思えるほど自分は興味無くて。
存在を否定しているワケではなくて、個人的に何も引っ掛からないので仕方ないのです。
これは本当に、好みの問題でしか無くて。

見た目は可愛いとも思えるのですが、大昔に観た歌番組の発言が軽薄だったりで。
肝心の曲について前途の通りで。小室さんがプロデュースしたアーティストとか曲って、自分には違いの分からないのが多過ぎなんです。
一曲だけ大ヒットして続かなかった一発屋の方が、よほどインパクトあったり時代を象徴しているよなぁとか。
無難な曲作りでばかりでは、顔を整形したようなアイドルと同じで、違いが何だか分からず。
もちろん美人なんでしょうけれど。

90年代頃から披露宴で必ずといってよい程流れてくる曲がありました。
これが何言ってるんだかよく分からない歌詞で。
イントロも英語なのか日本語なのかよく分からず。
どうでも良いので勝手に空耳で解釈していました。

 「神様イェーイ♪」

ゴスペルっぽい解釈をしていました。神様に現代風な嬉しさの表現。
目出度い場面、教会でのブルースブラザーズのようではないですか。
実際、誰が歌っているのかも知りませんでしたし、自分にはどうでも良いことでした。
あえてこの曲を選んだのであろうお嫁さんは流行にきっと敏感なんだろうなぁとか、必ず流れるこの曲を選んだお嫁さんは安全な選択をしたんだろうなぁとか。
「不器用な新郎とバランス取れて、これは良いカップルではないか」と、これまた出鱈目な解釈を自分はしていました。
永遠の愛を感じたパートナーの個性というか「自分らしい選曲」も大切だと思ったりではありました。

数日前、安室奈美恵さんが引退されるとのニュースが多発し、「神様イェーイ♪」は安室さんの曲だったのだとやっと判明しました。
偶然にしても、曲も歌詞も自分にはどうでも良かった一致が、ちと凄いと思えまして。
これは正しく神業かも知れず。

学生時代からの友人夫婦の奥さんとは、馬鹿な会話を時々楽しんでいます。
相手が馬鹿なのではなく、自分から馬鹿な話題を振っているだけなのですが。
奥さんは二人の娘さんを育てており、娘さん達が可愛くて仕方ない日々です。
その奥さん(T嫁)に尋ねてみました。

 SUKIYAKI:安室の引退より樹木希林さんの他界の方が衝撃的だった。
 T嫁:希林さん、そんなに好きだったんだ。
 SUKIYAKI:披露宴で必ず流れる安室の曲はイントロから何言ってるんだか分からん。
 T嫁:can you celebrate?
 SUKIYAKI:それかも。「神様イェーイ♪」の空耳だった。
 T嫁:讃美歌みたいネ。
 SUKIYAKI:いや、ゴスペルだ。
 T嫁:ゴスペル好き。

can you celebrate?を翻訳しても、どうにもイカれていました。
バブルの頃に流行ったライダーズジャケットでイエローコーンというブランドがあったのですが、出鱈目な和製英語が刻まれるジャケットはネイティブ達を驚かせたそうです。
それに近い何かを感じたり。東南アジアで時々見かける謎の日本語とこれは一緒です。

その後、T嫁は安室の素晴らしさも説明してくれました。娘さんは現在劇団員で歌や踊りに励まれているそうで。
あんなに激しく踊りながら、しっかり歌えるのって凄いんだよと。
自分はそんな視点で観たことがないというか、聴いたことがないし、これはちょっとした発見でした。

しかし、Youtubeで曲を改めて確認したところ、can you celebrate?よりも日本人の舌には歌いやすいとも思えました。
神様イェーイ♪

Barakan Beatで投稿を採用して頂けた

Barakan Beatという番組が毎週日曜日の18時からInter FMで放映されています。
日本や海外であまり流れない曲を紹介してくれる、なかなか素敵な番組です。解釈の難しい曲が多い中、時々刺さる曲もあり、聴く機会がそれなりにありますし。番組開始以来録音機能の付いたラジオで録り貯めしています。

DJのPeter Barakanさん、三十年前の学生時代から自分はちょっと意識していました。
CBSドキュメントという番組で司会をされていて、海外出身の英語話者ながら日本語がとても丁寧で。イントネーションは癖が残っていたので流暢では無いものの、丁寧を志した姿勢が言葉から伝わってくる感がたまらず。
CBSドキュメントについては、当時からジャズの名手を紹介されていて自分も気になった面がありました。
クラシックでもジャズでもグラミーを取ったWynton Marsalisは万能のテクニシャンなイメージだったものの、練習風景では音を外していたり、マウスピースの選択に悩んでいたり。
当時まだ存命だったMiles Davisの紹介もあったりで。

その後、Peterさんの番組を意識するようになったのは毎朝のInter FMでした。Barakan Morningという番組です。
これがPeterさんのセンス爆発で、会社の車で聴くのが楽しみで。流れる音楽は上記のようなレアなのが多いのですけれど、番組で登場する話題もレアで知的好奇心をそそる内容が多く。
リスナーも、自分と同じ感覚の方が多かったのかと思います。ゲストの方のトークも面白かったり。
ともかく、行きたくないお客さんの仕事が待っている朝でも、あの番組を車で聴けるのは楽しみで。

しかし、毎朝の楽しみだったBarakan Morningが、突然放送終了のアナウンス。
そもそも、視聴者の少なめなInter FMだったと思うのですが、その中でBarakan Morningはかなり人気があったと思うんです。
特に東日本大震災からしばらくは現地の復興を願う話題が多かったです。津波で流されてしまった学校の楽器が多かったので、使用していない楽器を現地にプレゼントしようとか。
原発事故に対する問題意識も番組中で語られていて。諸説ありますが、これが放送終了の決定打になったとの噂でした。
実際、大きな選挙前には「原発の話題に触れないように」との圧力が幾つかの放送局であったらしく。
恐ろしや。

当時自分がお世話になっていた会社は誕生日休暇があり、ひと月以内の消化でお休みした日はマンションの屋上で朝からラジオを聴きながらプランターの世話をしていて。
その時突然、番組終了の話題が登場しまして。


残念とか悲しさもありましたが、朝の楽しみを取り上げないでくれ!という気持ちでした。
番組はTwitterの投稿と同時進行な場面も多く、あのときの嘆きのTweet数は半端なかったです。


ただ、日曜の夜にBarakan Beatという番組が始まるとも。(そのときの放送で伝えてくれたのかは覚えていません)
そんな感じで、Barakan Beatも楽しんでいました。平日早朝の車の中と違い、日曜の18時から2時間の番組というのは他のテレビ放映を優先してしまうことも多かったですが。

昨夜は、十五時半という中途半端な時刻に番組へ電子メールを送っていました。震災時の通信手段についてです。
投稿が番組開始の二時間半前だったので、採用される見込みは薄いだろうなぁと思いつつ。
実際、二時間の番組が残り十分という辺りで「やはり採用されなかったか」と少し落ち込みつつ。
それが、番組の残り五分辺りで紹介して頂けて。自分の実名がラジオから突然流れてぶっ飛びました。
生番組の終わりの辺り、他の曲の紹介も残っていた中でしたので、投稿を読み上げるのはちょっと大変な様子でした。自分の文章は読みにくい発音も多かったようで。
投稿した本文は以下でした。

『今回お伝えしたいのは震災による通信手段の被害の違いについてです。私の実家は今回の地震で震源地から近い千歳市でした。
東日本大震災での東京は停電が無かったお陰で(原発事故による計画停電は別)、固定電話や携帯電話関連は使用可能でした。しかし多数のアクセスで音声通話は機能しなく、個人的にはTwitter頼りでした。

今回の北海道の大地震では北海道全体が停電で、携帯は短時間しか使えませんでした。
初日はバッテリーが切れた携帯から使えなくなり、当然充電出来ず。二日目は携帯の基地局がバッテリー切れで、充電出来ていた携帯も通信出来ず。
固定電話がどうだったかと申しますと、インターネットの接続に適した高速回線が普及した結果、停電で使えなくなる固定電話だらけでした。

停電地域の広さや期間によって、ずいぶんと状況が変わるものだなぁと溜息でした。
特に携帯のバッテリーが弱り気味の方ほど、モバイルバッテリーの常備を強く推奨します。

今回の大地震は午前三時の発生で救われた部分もあったかなぁと思っています。多くの方はご自宅でお休み中だったでしょうし、東日本大震災のような帰宅難民は発生せず。
また、もう少し後の時間でしたら阪神大震災のような炊事による火災が多発したかも知れず。
もう一つ救われたのが、あの凍てつく真冬でなかったことです。

ともかく、早めの復旧と余震の収束を祈っています。』

録音分を確認していませんが、原発の下りは飛ばされてしまったかな。まぁこれは仕方なく。
Peterさんは、日本で生まれたYMOが海外進出する際にも頑張ってくれたらしく、これだけでも相当な実績の持ち主。
今後も番組を楽しみにしています。

群馬の女は毛深いの?

80年代にLive Aidという番組がありました。
We are the world的な流れだったのか、全世界の代表的なミュージシャンの平和を願う演奏。バトンリレーのような番組でした。
その中で日本の代表が忌野清志郎。
その演奏がぶっ飛んでいました。

平和主義者のハズですが、社会風刺な面もけっこうあって。
この演奏は後者でした。
はたらく人々」という曲です。

3:45辺りの歌詞は「群馬の女は毛深いぜ!」。
何か過去に群馬で嫌な思い出でもあったのでしょうか?(歌詞の中に高井戸も登場しているので、何らかの経験はあったのかも)
アラビアン音階なフレーズ、当時リアルタイムで観てしまい「何じゃこりゃ?」でした。
今見ても、やはり不思議です。
そして意外なエンディング。

歌詞の序盤に登場した通り、80年代は「月曜からずっと土曜の昼まで」働くのが普通だったんだよなぁと思い出したり。
当時の歌番組で忌野清志郎が登場すると、これが全く「お茶の間に媚びうる」のとは逆な嫌なパフォーマンスばかり。
当時は本心が分からず、こんな奴が友達に居たら嫌だよなぁと。まぁ、世の中の汚れた事実を表現してはいるのですけれど。
名に恥じず、正しく忌々しい。狙い通りのキャラクター。
早くして他界してしまいましたが、311の後も生きていたらなぁと。

竹中敏洋さんの思い出

高校を卒業するまでの四年間暮らした北海道の千歳には支笏湖という観光地があり、冬場にはそこで氷凍祭りというイベントが開催されていました。
氷点下の中、氷で作られた像が並ぶ神秘的なイベントでした。自分がこの像を観れたのはずっと後のことで。
というのも、真冬の移動手段は車しか無く、中高生だった自分はバスを使って遠く寒い場所に行くまでも無いかと。夏であれば自転車か単車で行けたのですけれど。
それに、その氷の像というのが著作権関連で揉めていたという噂も面倒臭く。像は雪から作るのでなく、氷点下の中で水を撒いて凍った産物らしく。その製法と表現方法を確立した芸術家の断りも無く実施していたそうで。
当時、アート系に興味ある地元の知人に聴いても、氷凍祭りは興味の対象外だったようです。

社会人になって数年経った頃、夏の終わりくらいに北海道へ帰省した機会がありました。
流れ者な町であった千歳に残っている友人は少なく、親の車を借りて近場の観光を楽しむ程度でした。
当時、自分の母は油絵に凝っていて、地域の文化活動にも関わっていたそうです。自分の出身校の先生とも繋がりがあったらしく、その中には自分の尊敬していた国語の平田先生も含まれていて。

この平田先生というのがナカナカの変わり者で。国語の試験で記述式の回答があると、滅多に×を付けられない性格で。
文章に対する解釈は一通りでなく、模範的回答以外の解釈にも理解を示してしまうというか否定は出来ない方でした。その度に考え込んでしまうそうで。
こういった先生は高校よりも大学の方が似合うのかと思いつつ、頭ごなしに否定しない姿勢に見習うべき点は多かったです。立場や権力で生徒を押し込める教師が普通で。
あと、先生の趣味がまた面白かったんです。オーディオマニアで、高価な機材を入手しては奥さんに怒られてしまうこともしばしばだったそうで。当時はまだCDが市場に出回り出したばかりの時代でした。
そんな中、録音の良いCDを自分は先生から沢山お借りしていて。アルバイトで稼いだお金をJazzのCDに注ぎ込んでいた自分もお返しにCDを貸したりで。教師と生徒の関係としては不適切だったかも知れませんが、自分の全く興味なかったジャンルやアーティストに触れられる機会を頂けて。こんな曲や表現方法もあるんだなぁと。
国語という限られた科目に置くには勿体ない先生でした。「表現と解釈」といった、もっと漠然としたテーマの方が似合っていたかと。これは文化や人種や言語を越えたコミュニケーション方法でもあって。

話を戻さねば。
その平田先生と繋がりのある芸術家が市民ホール(千歳市民文化センター)で個展を開くらしく、暇を持て余していた自分は母の勧めで個展に行くことに。母の造った大作も市民ホールの階段に飾られているそうで。
何の期待もしていなかった個展ですが、これが面白かったんです。印画紙を応用した作品は他に観たことが無く、独特な世界観。イマジネーション膨らむ作品群。
作者の方はその場には居なく、作者の奥さんがギャラリーを受け持っていて。
その奥さんと少しお話をさせてもらったところ、作者とのトークベントが後日あると。
あの作品の雰囲気は冨田勲の月の光に近いなぁと、地元のレコード屋さんでCDを入手し後日の夜も同じ場所へ。
(この記事を綴っている理由も、昨夜観た夜叉ヶ池で冨田勲さんの作品が使われていた故です)

作者のトークイベントも楽しかったです。参加者がとても少なかった中、プロのパーカッションプレイヤーの方と物の叩き合い的なセッションもあったりで。
作者は竹中敏洋さんという方で、元々は千歳で中学校の教師をしていたものの、作品制作の世界に没頭したかったらしく、周りの反対を押し切って芸術家の道に進んだらしく。
しかし、その世界で認められるチャンスは何年も訪れず、極貧生活が続いたそうで。教師時代に「先生先生」と持ち上げてきた方々からも冷たい視線を受けるばかり。
ご自身が嘗て製作した作品の一つだけを頼りにしばらく生きていたそうです。イベントではその作品を持参されていました。例えの難しい作品は表面のゴツゴツした少し伸びたタケノコのようなモニュメントというか。
全てを失った中、その作品を腕に抱えて真冬の夜汽車に揺られたこともあったと。
その中に自慢話は含まれておらず、いまは人里離れた場所で作品造りと。

頂いたパンフレットを観たところ、例の氷凍祭りで争っていたらしい芸術家でした。
個展の中で目に付いた作品の中に「偽善者」(記憶が曖昧なのですが、そんなタイトル)というのがあって、それが特に印象的でした。真っ黒の背景の中に細い白い線で描かれた弧。垂れ下がった真ん中には首が吊るされた細い人のシルエット。
静かなる抗議な作品だったようです。あの盗作に対する抗議だったのかなぁと。
どうにも気になる竹中さん、東京に戻る前日にご自宅へ車で伺ってみました。何のアポも無く向かった夕方、会えなくても仕方なく。
大きな地図を観ながら走ったルートは、高校時代に幾度かバスで経験した風景でした。盤尻というエリアはその先に市民スキー場があり、学生はナイター券を安く入手出来たので友人達と伺っていて。
しかし、冬の雪景色とは一味違っていました。夏の終わり頃の枯れはじめた土地というか。枯れてはいないものの、夏の始まりの勢いある緑とは別の衰える緑。

民家が少ないエリアだったので、竹中さんのご自宅はすぐに見つかりました。通り過ぎた道を引き返し、手作りっぽい木製のご自宅へ。(木造というより木製でした)
玄関をノックしてみると、先日の奥さんが。居間に案内されて竹中さんと世間話。そのままアトリエへ。アトリエといっても屋外でした。ご自宅の裏には川が流れていて。
冬になると、ポンプで川から引いた水を撒き、作品作りに没頭すると。
ポンプや照明に必要な電源周りの工作や電線の引き回しもご自身でやられたそうです。この時代にこんな人が生きているのが斬新でした。元々は何も無かったらしき場所なハズ。
真冬の北海道でこんな人里離れた場所、一歩間違えたら簡単に死ねてしまいます。ゼロからここまで続けてこれたことに見習うべき何かが大きく。幾度の冬をここで越してきたのだか。
どんな話をしたのかほとんど覚えていないのですが、この会話だけは覚えています。

 SUKIYAKI:時々変な夢を想てしまうんですよ。空を飛んでいる夢なんですけれど、地上に戻りたいと必死に泳いだり電線を捕まえようとかするんですけれど、酷い時なんて宇宙の彼方で一人っきりで、
 竹中さん:そのままそこに居ればいいじゃないか。

自分は人付き合いが下手な面を自覚していて、一人で居たい時はもちろんあります。それでも人里が恋しくなる部分もある勝手な奴で。
何でそんな会話になったのか自分でも不思議でありましたが、ここで二人いることも不思議でしたし、竹中さんの生きざまへの質問だったのかなぁと。

その次のお正月だったか、ご丁寧な年賀状が竹中さんから届きました。
自分のこと、覚えていてくれたのが嬉しく。謎の妙な東京の若造でしかなかったハズなのに。
大切に残していた年賀状だったものの、自分の引越しの機会でしか目に掛かる場面が無く。いまはこの部屋の何処にあるのか。

竹中さんとお会いした数年後に自分は一時的に北海道へ戻っていました。
当時は養父が単身赴任で、冬に向かう季節の北海道で一人暮らしだった母をドライブに幾度か連れまわしたり。
共通の話題が乏しい母に「そいえば、竹中さんどうしてる?」と。「アメリカで個展開催に向かう飛行機に乗るところで吐血したそうよ」と。
そういえば、竹中さんはお酒好きだったなぁと思い出しました。
そのうちまた挨拶に伺いたいなぁと思いつつ、その機会も無く北海道をまた離れた自分。

時々、竹中さんのことは検索していたんです。
2002年に亡くなられたことも後から知りました。
そして、専業主婦向けの昼のドラマでもあった「ダンプかあちゃん」の題材になったご夫婦が、あの竹中夫妻だったこともずっと後に知りました。
乞食のような妙な男が気になった若い女性、その男は全く売れない実直な芸術家。勝手に転がり込んできた女は作品の裸体になる覚悟も、ダンプカーの運転で男の生活を支える覚悟もあり。幾度もドラマの題材になった二人。
そんな話、ご本人達からは一切聞いておらず。
普通の老人なら、自慢の一つくらいするだろうに。
だから、ますます忘れられず。(五十年近く前のドラマも丁寧な作り)

三年前の引越し後、所有していたCDを久し振りに整理しました。とりあえず、アーティスト別に並び替えて。引越し前までは部屋の至る所に散乱していたCD達だったので、大きな進歩です。
整理中、同じアルバムが幾つも見付かったり。冨田勲の「月の光」も二枚同じのがありました。多分、過去に三枚購入していたのだと思います。そのうちの一枚は竹中さんへ。
いつ購入したのだか思い出せない一枚と、冨田勲さんが亡くなられた頃に「そういえばあのアルバムは手元に残っていなかった」と勘違いして購入した一枚。そんな手元の二枚らしく。
久し振りに自宅のステレオで聴いてみたところ、やはり素晴らしいアルバムでした。
幻想的に響きつつ、何処かに刻まれる残音。

西城秀樹さんの思い出

昨夜、西城秀樹さんが亡くなられたそうです。
十年以上前に脳梗塞で倒れられたと聴いていて、その後テレビでお見掛けする姿が少なかった気がしますが、自分自身が高校時代からテレビをあまり見なくなっているので、出演の機会自体はそれなりにあったのかも知れません。
最後に生放送でお見掛けしたのは某国営放送の「のど自慢」だった記憶です。これすら十年くらい前だったかもしれません。
このとき、素人が歌った「傷だらけのローラ」はかなり上手だったものの、審査員の西城さんは「もっとオーバーアクション」をとの指導をされていた記憶です。

西城さんのデビューというか存在を知ったのは自分が小学校に上がるくらいの頃だった記憶です。当時の西城さんの歌というか演技というかは派手過ぎて自分にはついていけなかった感です。
ただ、ドラマ「寺内貫太郎一家」は楽しみで、夕方の再放送を笑いながら見たものでした。

小学校の高学年の頃に流行ったYMCAは、体育の授業か何かでも踊らされた記憶があります。老若男女誰でも知っていた歌、誰でも謳えて一緒に踊れて。そんな時代はここまでだったかなぁと後から思い出したりしています。
この時代になるとニューミュージック系の方々が続々と登場し始めて、自分もそちらの方が気になっていました。世良公則さんや原田真二さん等です。あとは、担任の先生も好きだった「さだまさし」さん等のフォーク系も。

その頃くらいに観た映画がずっと気になっていました。日曜の夕方頃に放映されていた作品は途中から観たのですが、一文無しの身寄りの無いらしきお婆ちゃんが可哀そうで、冷たい対応の家族達と大喧嘩した青年(西城秀樹)が「こんなところ一緒に出て行こう!」とお婆ちゃんを連れて旅立つ結末でした。
しかし、痛快だったのは、大きな土地を処分したお婆ちゃんは数億円資産を持つ大金持ちだったというオチで。
どうやら、お婆ちゃんはお金目当てでは無い信頼できる人を探していた様子でした。隠し持っていた資産を最後の最後で打ち明けられた青年はビックリし、ニコニコのお婆ちゃんはそれさえも楽しんでいるようで。

かなりうろ覚えですが、ラストはこんな会話だったような。
 お婆ちゃん:あなたお金預けたいの(Vサインしながら)
 青年:二万円?
 お婆ちゃん:もっともっと
 青年:二十万?
 お婆ちゃん:もっともっと
 青年:え?

今日、西城さんの訃報でその謎の作品が何だったのか検索したところ、すぐに分かりました。「おれの行く道」という作品で、リンク先であらすじも判明しました。あの冷たかった家族も当初は財産目当てでお婆ちゃんの奪い合い的な展開だった様子です。
また、主演は田中絹代さんだったそうで、昭和の大スターではありましたが既に高齢でほぼ最後の主演作となったそうです。そんな大事な作品に出演した西城さんですが、西城さん自身が登場する映画というのは実はかなり少なかったらしく(それも手伝って探しやすかったです)。
また、この作品はVHSビデオでは販売されていた模様ですが、その後DVD化はされていないらしく。もう観れる機会は無いのかなぁとか、出来れば追悼で放映してほしいなぁとか。素敵なB級映画だと思っていて。
余談ですが、日曜の夕方に日本テレビで時々放映されていた映画は名も知らぬB級なのばかりでしたが、タイミング良く見れる機会があると、どれも心にジーンと響くのが多かった記憶です。「初めての旅」という作品も途中からだったので、もう一度観てみたい一作です。輸入スポーツカーを盗んで旅した二人の青年の顛末でした。

今夜のニュースで西城秀樹さんの訃報も扱われました。デビュー当時から全盛期の元気に踊って歌う姿。自信満々元気モリモリ。そして身体を壊してからのリハビリ場面やバラエティー番組でのトーク等。この身体を壊してからのトークというのが声を出すだけでやっとな状況で。何処かに無理な力を入れないと発声出来ないような頑張り方でした。
それでも一時よりは随分マシになったそうなんです。芸能人によっては衰えた姿を隠してしまう方も実際居ると思うのですが、西城さんは障がいが残っても頑張っている自分をさらけ出す覚悟があったそうです。

西城さんの本当のカッコ良さを、今日になって知ったようでもあります。
ご冥福お祈りします。