あの地震から丁度四年

昨日は久し振りに叔母に電話しました。
実家に訪れているそうでして、状況はどんなものかと聴いてみたく。
メッセンジャーではちょっと素っ気ないやり取りになりがちだったのですが、声を聴いたらとても元気そうでした。
もしかしたら、この一年で一番元気な声だったかも知れません。
母の認知症発覚から葬儀終了までは、お互い「どうしようどうしよう」な場面もあったり、最期の一ヶ月は覚悟を決めた叔母が母の看病に付きっ切りで。それも病院では無く実家で。

だいたい、母の認知症を疑った自分でしたが、叔母は当初母を庇っていて。もしかして自分は母も叔母も敵に廻してしまったのかと思いつつも、何か説得力のある根拠を示せないかなぁと。
母は特に親しい身内と喧嘩しがちだったものの、そんな母を叔母はずっと庇い続けていて。
母とのメッセージのスクリーンショットを添付して、やっと納得頂けた様子でした。こりゃ加齢に伴うボケの範囲じゃないですよネと。

そして、昨日は胆振東部地震が四年前に発生した日でもありました。
叔母との電話ではこの話題にならなかったのですが、あの地震では色々とドラマがありました。
これも何かの縁がある日なのかも知れず、想いは捨ててさっさと実家を手放しちゃった方が気楽かとも思えて。
自分も名残惜しい部分はあるのですが、それは身内誰もが一緒で。まして、一番大変な役を果たしているさなか。

数ヵ月前に実家方面の中古住宅の価格を検索したところ、何故か二件の売りしか無く。
地元のBBSを確認したところ、実際に売り物件が極端に少なく、価格も跳ね上がっているそうで。その二件も最安値時代の数倍になっていました。
そんなご時世で手放せられれば、結構納得の行く価格で手放せるかなと安心していたのですが。

叔母の話では、お盆過ぎから売り物件の案件が急に増えたらしく、住宅を扱う会社も忙しかった様子で。
正直「これくらいにしかならないのか」と思いつつ、電話の後にYahoo!の住宅検索をしたところ、相変わらず二件の売りのみ。
そこで、何年かぶりでSUMOという住宅の専門サイトで検索してみたところ、50件以上の売りが。全く母数が異なりましたし、数ヵ月前がどうだったのか謎で。
これだけ母数が揃っていると、妥当な価格も暗算出来ます。
叔母に話を持ってきた不動産屋さんの提示は、十分妥当にも思えました。かなり頑張ってくれていたんだなぁと。

冬が訪れたら引越しもリフォームも楽じゃない凍り付く地域ですし、タイミング的にも早くスッキリした方が良いのかと思えたりでした。
母もこんなに荷物を抱え込む前に、庭も荒れてしまう前に、ミニマムな部屋に引越しておけば良かったのに。
ほんと、後先考えていなかったよなぁと。
だから周りが放っておけなかったとも思えるのですが。

こんな場面で相変わらず運転手役を頑張ってくれている同い年の息子さんにも頭上がりません。仕事も生活も大変だというのに。
叔母も息子さんも重荷の一つをサッサと手放して、少しはお気楽に近付いてほしいです。
今回の電話でも理屈と情のハザマな場面があったりでしたが、理屈ばかりに頼らない部分に人を信じられる優しさを感じたりでした。
四十九日後もちょっとした騒動を残した母、その存在感は半分笑いのネタになりつつあります。

人間臭い感覚が好きって、昭和生まれまでにしか通用しないのかな。損得勘定じゃなくて、自分が納得出来るかで。
平成以降の世代には笑わてしまいそうですが、昭和レトロの片隅に置いて頂けたら。
「仕方ないなぁ」って感覚、誰にでも許せるもんじゃなくて。

再会

先月の母の葬儀で久し振りに再会した奈良の二人のイトコが相変わらず素晴らしかったです。
厳密にいうと二人の叔父になるのですが、この二人兄弟は自分の兄弟と同世代なもので、どうにも叔父さんとは言い難く。
実際は二人を下の名前で自分は呼んでいます。

初めてこの二人と会った記憶は、自分が幼稚園に入る前。
遠い親戚が亡くなられたそうで、神奈川で暮らす叔父の運転で奈良まで伺った際でした。
この時の二人の記憶がほとんど残っておらず、初めて触れる生の関西弁がちょと不思議だったくらいです。
上のTさんはとても物静かで勤勉な印象、下のKさんはちょっとヤンチャな印象でした。

次の再会はあれから二十年以上後の、奈良のお爺ちゃんの葬儀だった記憶です。
お爺ちゃんの子供がこの二人なので、やはり叔父と呼ぶべきなのですが。
自分からするとお婆ちゃんが早く亡くなり、再婚した女性から生まれた二人がこの叔父さんで。
この時もほとんど会話が出来ませんでした。父親が亡くなったショックもあったのでしょう。
ただ、いきなり立派な大人に変身した二人が不思議にも思えました。二人からしても自分はそうだったのかも知れません。

あの葬儀は当日の早朝に母から電話があり「あなたは来なさい」との命令口調でした。
別に命令されなくても行ったのですが。
現地で送迎役になれるかも知れず、車で向かったものの、この運転が眠い眠い。前日に新潟であった友人の披露宴には冗談半分で単車で行ったのが災いしました。
当時は大手企業の研究開発部門に所属していた自分です。急な休暇でちょっと迷惑を掛けてしまったのですが、各部署から幾つもの弔電が現地で読み上げられて驚いたりでした。
社員に厳しい会社だったものの、こんな場面では上手くやっているんだなぁと。

現地では暇を持て余し気味で、近くの美術館に母を連れて出掛けたり。
他の親族も誘ったのですが、長距離の移動でゆっくりしたかった様子です。
横山大観の繊細な筆遣いがなかなか新鮮な美術館でした。日本画も捨てたもんじゃ無いなぁと。母も珍しく喜んでいて。

その後も身内の冠婚葬祭で幾度か再会出来た二人。
特に兄の披露宴では夫婦漫才的な芸を披露してくれた二人の夫婦にサービス精神感じたり。
やはり、いい人達だったんだなぁと。

先月の葬儀で再会出来た二人は兄の披露宴以来だったので、二十年ぶりくらいでした。
参列者も少ない葬儀でしたので、お通夜の後は色々とお話が出来て。
二人とも仕事等が大変だったとは噂に聴いていました。しかし、助け合う兄弟とのこと。
落ち着いたお兄さんと、場を盛り上げようと冗談連発の弟さん。
この二人はFacebookで母とも繋がっていて、母の大したことない書込みにも毎度「いいね」を押していたんですよネ。
あの参列者の中で酒飲みは自分だけかと思っていたのですが、深夜まで付き合ってくれた二人でした。(途中自分は寝ていましたが)
お互い、五十代になってからやっと話が出来ました。これがまた不思議で。

集まった皆さんがまだ起きている時間の弟さんの話が色々と面白かったです。
自分にとってのお爺ちゃんは孫たちの前でいつも笑顔の優しい紳士で、自分も大好きだったから懐いていました。
しかし普段はとても厳しい人だったと母からは聴いていて。
奈良の二人にとっても、普段は厳しいお父さんだったらしいのですが、お茶目な部分もあったそうで。

細かい部分はお酒も入っていて忘れてしまったのですが、弟さんが若い頃に購入した原付バイク、これを陰で乗り回していたそうです。あのお爺ちゃんが。
ある夜、帰りの遅いお父さんを心配していたら、警察から電話があったそうで。
「お父さんを引取りに来てください」との話。なんでも、息子の原付を無免許で運転し、運悪く捕まってしまったそうです。

帰宅したお父さんはとても気まずい雰囲気の中、普段聴けない気の効いた話題を振ってくれたそうです。笑って許して感というか。
その無理している姿が二人には可笑しかったそうで。
戦前の教育とか戦争を経験した世代の男性は、厳格な方が多かったです。普段から姿勢を正しているというか。
そんな厳しいお父さんが孫の様な二人に救出されて決まりが悪い場面、何だか素敵だなぁと。
原付で無免許運転の老人を捕まえたお巡りさんも、それが大手生命保険会社関連の社長だった知って「なんじゃそりゃ」だったかと。
そんな話、いまだから出来るんだろうなぁと。

骨になった母を実家に連れて帰り、葬儀に集ってくれた身内も皆一緒に来てくれて。
葬儀そのものは「人前で泣いちゃいかん」と皆隠しがちだったかと。
ただ、それが片付いた後は実家の狭い居間で、やっと楽な世間話が出来て。これがまた素敵な時間でした。
みんな優しいもんだから、気の遣い合戦でもあり。
ドタバタだった葬儀、時々外で煙草を吸いに行くのは自分だけ。玄関に飾られていたささやかな花と置手紙にやっと気付けたり。それにまた泣けてしまったり。

なので、身内が順番に去ってしまう場面が、また寂しく。
いい大人になったハズの自分なのに涙でお別れの言葉にならず、大手を振ってお見送りすることしか出来ず。それしか芸も無く。
次に会えるのはいつなんだろうか。
「また会えるんだから」と言われたものの。

礼服

先月の葬儀で久し振りに着た礼服について。
二十代の中盤に一生モノとして奮発した礼服。
ブルックスブラザーズのそれは購入当初に大活躍してくれました。
同期の多い会社に居たので、披露宴の機会も多く。
ただ、当時は大人ぶってダブルにしてしまったのは間違いだったと少し後悔。
それを着ると太って見えてしまうそうで。

思い出せない程多くの披露宴に招かれたのですが、祝儀も見栄を張り人並み以上を繰り返していました。
ボーナスの多くは、それで失われたものです。
そして、自分は一度も披露宴など開いておらず、あれはドブに捨てた様なものかなぁとも。
まぁ世の中こんなもんで。

九年前、久し振りに呼ばれた披露宴は幼少期お世話になった叔父さんの娘さんが主人公。
この時点で、あの礼服は既に危うかった感です。
ウエスト周りがかなりキツく、腹筋を意識しないと厳しいズボン。
久し振りに履いた高価な靴はガチガチに固まっていて、結果的にピカピカの靴の方が問題になりました。
二次会の中華街を歩く途中、靴擦れで集団に着いていけなくなりまして。
一緒に歩いていた母より歩調が悪くなり。先頭を進む新婦の母に我が母がスピードダウンを促す始末で。
未だに自分は母から子ども扱いだなぁと、ちょっと悲しくなったりで。

そして、先月の葬儀。
まだ何とか着れるだろうとクリーニングに出した礼服。
これが、もはや絶望的なウエスト周りでした。
ズボンはおろか、上着までお腹がビシビシに締め付けられ。

葬儀の最終日だけ着るのだから何とかなるだろうと。
しかし、これが想像以上にキツく。
何かの合間、実質的な喪主だった叔母に笑い話のつもりでウエストの厳しさを伝えたところ、叔母はすぐさま自分のズボンに指を通し。
「ケースケ君、これダメでしょ!」
ダメと言われても替わりが無く、耐えるのみ。
そして、またしても子供扱いされてしもうた。

そのとき、自分の脳内を横切ったフレーズは「マジックベルト!マジックベルト!」でした。

幼少期、あのアニメの真似をして、母からも怒られたなぁと。
今回は外から締め付けるワケでなく、内側が膨らんだだけでして。

無理なくお金も掛けずにウエストを縮める手段を検索する今宵でした。
次回は無理なく着れる様に身体を整えねば。どちらも一生モノ。

モリモトのピロシキ

千歳の中心街で大昔から営業しているパン屋さんなモリモト。
ここのピロシキが美味しいと、中学時代に同級生のS君から聴いていて。
実際、当時数十円で購入出来たピロシキは美味しく。

進学した高校がモリモトまで徒歩五分程度だったので、お昼休みに買い出しに行くこともしばしば。
しかし、この時間帯に校外へ出るのは禁止。見慣れないオッサンに街中で声を掛けられ。

その日の夕刻、昼休みに街に出た者がこの中に居るようだが手を上げろと担任から。
自分はあのオッサンに氏名まで伝えていたし、そんなに悪い事をしたとは思っておらず、手を挙げ。
そして、自分が誘ったM君も手を挙げ。

黒板の前に立たされた自分は「どうして外に出た?」に対して素直に「モリモトのピロシキを食べたかったからです」と。
すぐさま担任から厚い書物で頭をぶっ叩かれ。
自分が誘ったM君まで叩かれそうになり「こいつは自分の誘いに乗っただけだから!」と庇ったものの、既に手遅れ。

M君にはその後に謝りました。「俺のせいで」と。
でも、M君は笑って許してくれて。
校則で禁止されていたアルバイトや単車の仲間でもあったので、こんな痛みはへっちゃらで、それよりも庇ってくれたのが嬉しかったそうで。

あの高校の教師は、何かあった時の問題を避けるやる気のないオッサンとかお年寄りばかりだったのは一年次から気付いていました。
サラリーマンでもやっていた方が、よほど似合っていそうな残念な教師というか。

先月の上旬に20年ぶりの帰省となった千歳。
三日目の朝は中心街のホテルからモリモトに寄り、プリンを三つとピロシキを四つ入手し、バスでちょっと離れた実家まで。
腸に末期癌を抱えた母は食べられるモノも限られていました。プリンだったら何とかなるかもと。

実家に到着し、看病していた叔母と母とピロシキとプリンの談義になりました。
母は御粥か素麺くらいしか消化出来ず、揚げ物のピロシキなど口にしたら、痛みを伴う後も大変で。
母はそれを食べたがっていましたが、止められることに。
「私、何か悪いものでも食べちゃったのかしら?」と母は漏らすのですが、消化器系の末期癌だということをすっかり忘れている様子。
自分も食べさせてあげたかったです。しかしそれをしてしまうと介護する叔母にも面倒を掛けてしまい。

朝食をまだ頂いていなかった自分がピロシキを二つ頂くことに。美味しく幸せな表情でピロシキを頂き。
母はそんな自分を嬉しそうな笑顔で見つめていました。
うらめしそうに観られていたワケではなく、幸せそうにでした。

これは自分の幼少期に経験した場面と同じ母の笑顔でした。

自分が小学二年生くらいの頃、クリスマスに近い時期だったか突然母から一緒に街に出ようと誘われて。
行き先はちょっと洒落た雰囲気の喫茶店で。
そこで、自分はクリームソーダを頂き。母は一番安いコーヒーを注文していて。
滅多に味わえないクリームソーダを頂く自分、母は嬉しそうに眺めていて。
母は最後に「お兄ちゃん達には内緒だからネ」と。

兄達にはその件をずっと黙っていました。
育ち盛りの三人を連れて行くには寂しい懐の母だったでしょうし、兄達からいつも酷い扱いを受けていた自分が、ちょっと気の毒だったのかも知れません。(三男坊の兄弟での扱いは世間でそんなものと今でも思っています)
ともかく、ピロシキを美味しく頂く自分を見つめる母は、あの時と同じでした。

そんな場面を思い出し、またしても涙が抑え切れずな自分は残ったピロシキを二つぶら下げて逃走。
叔母の話では、母はその後にプリンを美味しそうに頂いてくれたそうです。
幸い、それでお腹を下すこともなかったそうです。

母の通夜の場面、葬儀を担当していた営業さんが気を効かせてくれました。
集まった親族に、モリモトのピロシキを振舞ってくれて。
葬儀の打合せの途中、ピロシキの話題を耳でしっかり掴んでいてくれたらしく。
集まった親族一同で美味しく頂きました。

全く罪なモリモトのピロシキです。
美味しいプリンを自分は口にしなかったものの、もしかしてあれは当時のクリームソーダな自分だったのかもなぁと。
(読み返さずに一気に綴った本文なので、誤字脱字お許しを)

BGM

葬儀中は喪主だったこともあり、感情に流されている暇は無かったですし、人前で涙など見せたくなかったのですが、抑えきれない場面は幾度かありました。

特に告別式での最後の場面。
棺を花で飾り、蓋をして顔の扉を閉じる場面。
会場で流れていた曲がまたいけませんでした。
優しいメロディが涙腺崩壊を招いてしまい。

火葬場での待ち時間、あのBGMについて自分は文句をつけていました。あの場であんな曲はかなわん。
叔母の話ではドラマ「仁」で使われていた曲だったそうです。
あのドラマは観ていないのですが、気になった作品でした。
題材が面白そうでしたし、漫画の方の作者さんとはちょっとした縁があり。

自分が小学生だった頃に連載されていた漫画「ドロファイター」は好きな作品で、自動車レースを題材にした内容としては現実的で。
漫画「六三四の剣」についても気になる展開でしたが、高校受験を控えた頃から自分は漫画とゲームから足を洗ってしまい。

社会人になって数年目の頃、自分は某社の研究開発部門に所属していました。
セキュリティ系の会社だったものの、創業者の一声で浄水器も販売していました。
その浄水器、評判は悪く無かったものの全数交換が必要になり。本社系の若手が全国の支社に応援作業へ。
自分は23区内の幾つかの支社へ応援に伺い、交換作業のお手伝い。モノを売る作業では無いので、作業内容自体は楽なものでした。

訪問先の中には著名人さんも居ました。
その中の一人があの作者さんでした。リスト上の名前を観て「まさか御本人?」と。
ご自宅には珍しいネオクラシックな車が。
御本人にはお会い出来なかったのですが、応対してくれた方へ聴いてみたところ間違いなかったそうです。

ドラマ「仁」がどんな展開だったのか、Wikiで調べてみたところ中谷美紀さんも出演されていたそうです。
この方もちょっとだけ縁がありました。
都心の下町で暮らしていた頃、自宅二軒隣りの「ちゃんこ屋」さんで映画のロケがあり、中谷美紀がいらっしゃっていました。自分は全然知らない女優さんでしたが。
そういえば、あのお店で町の新年会があった時の写真が、母の遺品整理中に見付かったなぁと。
A4サイズくらいに引き伸ばされた印画紙でした。2007年のBlog記事に載せていた写真は小さめだし、何処から拾ってきたのだか。
煙草を美味しそうに頂いている写真。母は煙草についてあまり文句は言ってこなかったなぁと。
せっかくなのでその大きな写真は居間のカウンターに載せたまま実家を離れていました。

ちゃんこ屋さんのお孫さんがまだ小さかった頃、お向かいのお爺ちゃんの出棺に歩道でお見送りした場面、隣りに居た小さな女の子が「お兄ちゃん手繋ごう」と。
小さな手を握りしめつつ、こんな小さな子でもお別れの寂しさ伝わっているんだなぁと。

音楽とドラマと作者と役者とちゃんこ屋さんと。妙な繋がりがあった様です。

葬儀での諸々

偶然にしても、葬儀の前後では不思議な場面が幾つかありました。

母が他界した直後にナースさん(介護士さん?)が早朝の実家へ急行した際、信号待ちの遠くに虹が掛かっていたそうです。
その虹は写真に残されて叔母にも届いたそうで。
叔母も、母が眠る居間に窓から光が入ったと眺めていたそうで。

帰省二日目の午後は空港まで親戚の出迎えが二度ありました。
同い年のイトコの車で空港へ向かったのですが、どの駐車場を利用するかもイトコに検索して頂いていて。C駐車場の評判が良かったそうで、そこを利用することに。
しかし、いざ車を降りてみると空港まで結構な距離。そもそも歩いて空港まで行く正式な通路も無く。駐車場から歩道へは獣道の様な足跡を渡るしかなく。
炎天下、二人してやっと空港の建物に辿り着いたものの、そこから国内線の到着ゲートまでがまた結構な距離。
二人して苦笑い。

飛行機の到着時刻には間に合いました。
次は、ゲートから出てくる奈良の二人を自分が見つけられるか。
同い年のイトコは先程助けを求めてきた謎のお婆ちゃんに親切な対応中。
預けた荷物がグルグル周る回転寿司の様なレーンの周りに、二人が居ないのか自分は注視していたのですが、ふと横を見たら懐かしの二人が。
「北の大地へようこそ!」。

LCCの利用では無かったので、預けること無く手荷物で全て収まっていたそうです。
駐車場まで結構歩くのですが、お許しを。
ショートカットなルートを探りつつ、結果的に遠回りだったかも知れず。
空港の建物内を四人で歩きつつ、窓から外を確認すると状況は大いに変っていました。
どんでもない雨が降っていた様子です。水溜まりが酷く。
まだ降っているのか?

屋内の終点から地上に出ると、雨はやんでいました。
ここからも更に歩きます。
不安定な天候、これから大雨にあたる危険性は十分にありました。
イトコは駐車場まで一人で行って、車をここまで持ってくるとの意見も。
大雨喰らっても構わないので、四人で行こうとなりました。
水溜まりを避けつつ、どうにか車に戻り。

良かった良かったと四人で笑顔。実家までの道中がどんな天候だったのか記憶から飛んでいます。とりあえず雨はしのげていて。
実家に着いたら母の出棺を手伝ってほしい旨を伝えました。喜んで引き受けて頂けました。

実家へ到着後、またしてもドタバタ。玄関に居た制服姿の宅配屋さんらしき男性にちょっと横へ移動してもらう様お願いしたり。(これが大失態)
棺を玄関から入れるには、あの長方形を斜めにしないと居間まで入れず。棺の中に母が収まった状態では居間の窓から送り出す以外に無く。
その窓の外は雑草が元気に伸びていたり、足元も悪かったり。その辺は事前に軽く自分も片付けていました。
葬儀屋さんと身内の男手で、巨大なリムジンの様な白い霊柩車に母の棺は収まりました。
途中で煙草をイップクさせてほしい旨叔母に伝えたところ、尻を一発引っ叩かれました。
素晴らしいリアクション。

実家を離れるリムジンの後席には、これまで散々世話になった叔母と自分。
向かいの歩道には御近所さんらしきオバチャン達が見送り。ありがたや。
葬儀の会場は中心街の反対側にあり、そのルートを走行中にまたしても大雨。
なんじゃこりゃ?

後席の叔母とは、さっきも大雨にあたらずに済んだ旨伝えたのですが、叔母の方もさっきの大雨を心配していたそうで。
後ろに続く息子さん(イトコ)の車でも、いま同じ話題出していそうですと。
ともかく、良かった良かったと。
あまりにもタイミングが良過ぎて、お天道様も見守っていてくれたのかな。
叔母とは大笑いしながら、昔自分が暮らしていた道中の景色をを説明しつつ。

二度目の空港もイトコの運転で。
今度は完璧な駐車場でした。ここなら大雨でも問題無く。そして、一時間近く早く到着してしまい。
何かホッとしてしまったのか、イトコは車内にお財布を忘れてしまった様子。
気になるでしょうし、それを取りに戻る時間も十分にあり。

イトコとは昨夜の近況報告の続きとなりました。
イトコが長く続けていた介護の仕事は自分になど務まらない過酷さ。母を介護していた叔母も身内にも見せられない過酷な現実があったと。
久し振りに帰省した実家、母は介護ベッドの上。自分も何か手伝いたかったものの、余計なお世話になるのは自分でも解っていて。
接種した解熱剤が効きすぎて、冷えた両手を握るくらいしか自分に出来ませんでした。
自分の幼少期は母の手も脚もいつも温かくて、布団に潜り込んでは温めてもらっていたのに。

大阪から訪れる親子は四半世紀以上ぶりの再会。自分はちゃんと見つけられるのか?
ゲートから登場した二人、直ぐに分かりました。
「テツヤおじさん?」。あっけに取られていたのか、リアクション無く。でも間違いなく。
「ケースケですよ!」。少し安堵した表情。

「北の大地へようこそ!」だいたい、自分も二十年帰らなかった大地なのですが、お迎えはこれに限る。
「さっきの雨は何だったんだ?」と会場へ向かう前席でニンマリ。

出棺のドタバタで玄関にて邪魔者扱いしてしまった男性は、ずっとお世話になっていたあの便利屋さんだったそうです。
二月の大雪では母を救助して頂いたり。またしても酷い事をしてしまった。(後日、メールでお詫びしました)

全ての式が終わり会場で普段着に着替えした身内八人が向かう実家。車は二台に分乗。母は既に骨。
江別からやってきた叔父の車の助手席に自分。中心街経由の実家までのルートは自分が何となく覚えていたので、先導することに。
中心街を離れた途中で、運転席の叔父がニンマリ。イトコの車が追い抜いて行きました。
この先のルートはイトコの方があてになる。

追記:
雨にあたらなかった件、全く逆パターンだったら、ほとんど「祟り」みたいなものだったんだろうなぁと。

欠けてる部分とか

母の葬儀以降、色々と考え込んでしまった数日間でした。
そして答えがちょっと見えてきました。

現在も育児中な同世代の身内や友人の話がキッカケでした。
子供が可愛くて仕方なく、心配で仕方なく、それ以外の困難は何でも受け入れられる。
偶然そうだったのではなく、親として当然の愛情らしく。
どうして子供の為にそこまで犠牲になれるのか。

自分は結婚もしなかったし、子供も居ないので、その感覚が解らなかった様です。ずっと解らないままなのかも知れません。
自分は母に対して酷い対応ばかりしてきたので、母はそれを許してくれるものなのか懺悔な数日でもあったのですが、母はそもそもそんなこと恨んでいないだろうと思えまして。
友人からも指摘されました。たとえ子供が極悪人だったとしても許してくれると。

自分は養父の傲慢な対応が苦手で、高校を卒業したら実家を離れるつもりでした。
自分が東京へ上京した後の養父は益々傲慢で、大学時代は二度も縁を切られそうになり。
養父側についていた母も自分のことを見放していた様子で、養父と同罪くらいに思っていました。
実際は板挟みに近い母だったとも思えますが。

大学の卒業間近に、自分は全て水に流すことにしたのですが、養父についても母についても自分は冷めた目で見続けていて。ずっと。
その後、大手企業に入社した自分はそれなりの収入がありましたし、恥かしくない名刺を出せたので、過去などどうでも良い感覚になれました。過去の問題は貧しさ故でもあったので。

披露宴等の機会で母が東京へ短期間訪れた際は、色々な場所を徒歩で案内したものでした。築地や上野等々。
急だった奈良の葬儀でも、せっかく車で来たのだからと近くの美術館まで日本画を観に行ったり。

あと、最初の会社を八年で辞めて実家へ帰省した際は、母が更年期障害でかなり荒れていまして。自分は胃と十二指腸に穴を開けていて、それを慢性化させたくなかったので一年間何もせず実家でゆっくりと決め込んでいたものの、逆に母の荒れ具合が酷く。
この時も気分転換で色々な場所へドライブに母を連れ出したりでした。
母は何処へ行っても難癖ばかりつけていたものの、その後に再会した際はやたらと嬉しそうにあのドライブを語っていて。素直じゃないよなぁと。
このときの帰省は秋に始まり、春が訪れる頃に単身赴任から解かれた養父が戻ってきたので、自分は実家を出ることに。厳しい冬の除雪役で少しは役に立ったかと。

既に幾度か綴っていますが、その後に母は養父と離婚し、二人の兄から縁を切られています。
離婚は養父の一方的な問題に思っていますが、兄に縁を切られてしまったのは母の干渉が大き過ぎたからと思っています。所謂嫁姑問題で。
母と上手くやってゆくには、ある程度の距離を取らないとトラブルになることが実際に多かったです。
距離感だけは意識していた自分でした。
そうしないと、自分まで母と縁を切りかねなく。
だから、結果的に母には酷い対応が多かったのかも知れません。

二番目の兄は14年前に他界し、一番上の兄は三週間前から入院中。結果的に三男の自分が喪主となった今回の葬儀でした。
兄弟全員が無事だったらどうなっていたんだろうと、それもまた考えてしまったり。
それでも自分しか参列しない葬儀だったとしたら、そっちの方が残念だったかもなぁと。
これで良かったんだと、いまは思っています。

母のPCからは溜め込んでいた写真を頂いてきました。
数年前からピアノに飾っていた大きな写真も見つけたり。
9年前の横浜でイトコの披露宴の夜に撮った一枚です。誰が撮ったのか謎ですが、母は引き伸ばして飾っていました。
なかなか嬉しそうな顔していました。
これは自分も何処かに飾っておこうかと。プリントアウト何て何年ぶりだか。