自分にお土産

高校の修学旅行は奈良と京都。引越前の埼玉の中学校でも伺った地域でしたし、自分の爺さんが奈良で暮らしていたので、幼少期にも訪れていました。
高校時代の自分は古い日本史にほとんど興味なく、同級生達と如何に馬鹿な思い出を作るかばかり考えていて。
煙草の煙が蔓延のホテルの部屋にはウイスキーも持ち込まれ、そこへ理科の教師がやってきてどうなることやらとか。(教師はアルコールでかなり出来上がっていて、逆に介護が必要な状況)
酷い二日酔いの自分は観光バスの一番後ろの席で死んだふり。奈良の大仏さんはそんなワケで拝めず。

帰路の途中で上野に寄りました。自由時間は嘗て暮らしていた埼玉の川越方面へ。
単独行動は許されなかったのですが、こんな個人的な思い出の場所に友人を付き合わせるワケにも行かず。小学校でお世話になった先生や、街でたまたま見掛けた旧友に挨拶したり。
しかし、単独行動はバレていたようで、同じ班だった生徒会長に上手く助けられていたそうです。その生徒会長もかつて暮らしていた東京の某所を訪れていたそうで。
教師からの信頼度は自分と全く異なる生徒会長のH君、自分がそそのかした校則破りの仲間でもあり、いい奴だったなぁと。

集合場所に戻った友人達は、様々なお土産を手にしていました。本州に訪れる機会が少なかった連中はディズニーランドの袋だらけ。
親しかった連中は、ヘンテコなお土産が多かったです。「松茸が安かったからアメ横で買ってきたんだよ」とか。自分は松茸を食べた記憶が無く、匂いを嗅がせて頂きました。
案外、野性的な香りでした。

自分のお土産は、腕時計でした。当時、少しはお洒落に興味もあってホットドッグプレスやポパイでも紹介されていたような腕時計でした。
ポップとレトロがせめぎ合っていたいた時代、ちとレトロ気味なデザインや色合いに惹かれていて。
その後、革バンドが腐って野獣の香りをかもしたり、秒針が落下したりで幾度か修理していた腕時計、ここ二十年くらいは電池も切れたままオブジェです。
革バンドの件は、夏場に頬杖をつくと「何じゃこりゃ」の香りで、原因が分かるまでけっこう嫌な思い。春夏秋冬いつも肌に付けていたので、仕方なかったと思います。

その数年後に東京で学生生活を送っていた自分、渋谷のお洒落なお店のレジで同じ腕時計の女性バージョンを着用しているのに遭遇しました。何か一声掛けたかったものの、綺麗すぎて何も言えず。その革バンドも純正では無くて。
埃をかぶっていた腕時計、検索したところ当時を代表する作品だったそうです。電池交換、久し振りにしてみようかな。

セッション

一昨日の夜にたまたま観た映画がソコソコ面白かったです。
セッション」というタイトルの作品、Jazz系の音楽学校でのストーリーなのですが、ここに登場する講師がともかくスパルタン。
自分は学生時代からJazzを聴いていたし、楽器にも触れてきたので、場面々々のバックボーンとか少しは理解も出来ました。
まぁ、Jazzに詳しく無い人でもソコソコ楽しめる内容だったとは思います。
しかし、アカデミックな世界でも現代のアメリカではここまで「Fuck」という単語を連発するものなのでしょうか。
怒りを表現する言葉の多くにFuckが登場し、まるでFuckの活用形で言語が成立しているようでもあり。バリエーションが多過ぎで、字幕の日本語訳も大変だったと思います。

自分の高校時代の音楽教師もかなりスパルタンだったなぁと思い出しました。
普通科の高校の一科目でしか無かった音楽ですが、高校入学時に生徒が選択できる芸術系科目の中で音楽は何故か人気があり。他には書道や美術も選べられました。
どの科目も偏りが無いように定員は決まっていて、お試し授業の段階で音楽のN先生は「俺の授業は厳しいぞ」と念押しをしていて。
そんなこと言わなくても、噂だけで充分伝わっていました。

自分は過去にクラシックピアノを習っていたので、少しは楽できるかな?何て思っていたものの、自分にとっても厳しい授業が多かった記憶です。
鉛筆で机を叩き、三連符混じりの曲のリズムを刻まされたり、曲を書かされたり、コード理論の基礎を叩き込まれたり、譜面のフラットやシャープの数で曲の調を当てさせたり。
フラットはファ、シャープはシ」の法則とか、今でも役に立ってはいますが、クラシックの音大でもそこまで教わらないのではないか?と未だ思っていたりです。
実際、音大のピアノ科を卒業した知人とか、ポピュラーのコード譜が全く読めないとかはザラでしたから。
あまりにも実践的な講義、その後に恩恵を感じた生徒はどれだけ居たことやら。

自分は高校時代の短期間だけ、その先生が担当するブラスバンドにも属していました。
この部活は更に内容が厳しく、土日も練習と聴いていたので入部するつもりは無かったのですが、成り行きで一時期参加していて。(綴ると更に話が長くなってしまうので、経緯はそのうち)
まぁ、凄いレッスンでした。先生はチューニングのズレが大嫌いで、測定器のような古いチューナーをよく持ち出していて。(大抵は耳だけでカバー出来ていました)
リズムにも厳しく、打楽器を担当する生徒は毎度ボロカスに叩かれていて。一期上の女性が打楽器の担当でしたが、涙を流している姿は幾度もありました。
ブラスバンドに所属する生徒達の雰囲気も毎度どんよりしてるし、拘束時間も長いし、多感期の重要な時期に「こんなことやってられるか!」で自分は退部しています。
当時の自分は大学進学など考えていなかったですし、最後になるかも知れない学生期間にこんな思い出しか残らないのは非常に馬鹿げていると思えていて。
もっと沢山の経験をしたかったんです。

ただ、学校祭ではピンチヒッターでラッパを吹くような場面もあったりでした。
音楽の授業は高校二年まで続きました。その二学年の春頃に「今年の暮れは市民でベートーベンの第九を歌う機会がある。滅多に無い機会だから興味ある生徒は私のところまで」との先生からのアナウンス。
自分は歌が下手だし、授業でも先生からボロカスに言われていましたが、第九は好きだし本物のオーケストラをバックに(実際はオケが手前ですが)歌える機会など滅多に無いのは気付いていました。
週に一度水曜の夜だけの練習であれば付き合っても良いかな?で同期二人を誘って。
これは良い経験になりました。練習場所であった文化センターに集まるのはほとんどが大人達でしたし、そんなスパルタンな内容でも無く笑いも絶えず。
当時の自分といえば、煙草もお酒もやっていて練習会場には単車で乗り付けて。そんなのが第九をというのは妙だったとも思われます。しかし、どれも経験しておきたかっただけでした。
ズルい確信犯でもあったのですが、あの高校の学生服を着ていれば大体許された様子でしたし。
これを綴っている今もたまたま年末ですが、第九の本番は実に見事にキマり、いまでも大晦日の夜はテレビ放映の第九を一緒になって歌いがちです。

高校三年になると音楽の授業はもう無く、学校祭のクラス発表くらいでしか楽器に触れる場面は無く。
あの先生にはずっと怒られてばかりだったものの、音楽の成績はそれほど悪くなかった記憶です。ペーパー試験の対策をもう少しちゃんとやっていたら、もっと良い成績だったのかも知れませんが、丸暗記系はどうにも苦手で。

夏の学校祭の後は大学受験の勉強にけっこう必死でした。年末まではどうにも空回り気味だったものの、年明けからはラストスパートに火がついて。
希望の大学の合格通知を何とか掴み、久し振りの高校で職員室に報告へ。そこに向かう廊下には大学合格者達の名前が既に貼られていて、自分の名前も。
自分は夜学部の合格でしたが、何故か大学名と学部くらいしか綴られていなくて。(後からそれを指摘したのですが、何か気を遣ってくれたそうです。ただ、地元の新聞の合格者一覧を観たところ夜学部であっても知られた進学校の生徒だけでした)
職員室のドアを開けると、誰よりも先に音楽のN先生がニコニコ笑顔でやってきました。両手を掴み「良くやった良くやった」と。
自分も嬉しかったですが、かなり意外でもありました。生徒のことなんて全く無関心かと思っていたN先生でしたし、こんな笑顔は観たことが無くて。
国立大学の合格発表は少し後でした。第九に一緒に参加したH君は生徒会長もやっていて忙しい立場でもあったのですが、無事に現役で北大に合格していました。
H君はN先生とその後会えたのか分かりませんが、きっともっと喜んでいたんだろうなぁと。

そういえば、自分は一度だけ嘘をついていたなぁと。
ブラスバンドを辞める際「こんなに拘束がきついと、受験勉強もやってられない」と。実際はそれからアルバイト三昧だったのですが。
途中はどうであれ最後にツジツマは合ったから、まぁいいか。

N先生については授業のある昼間からお酒臭かったり、大人としては問題あったのかも知れません。第九の裏方で頑張られていた市の職員の方も、その辺で苦労が多かったとも聴いていて。
市の文化センターは当時建てられたばかりで、大ホールに置かれたピアノが存在感ありました。高級ピアノの代名詞でもあるスタインウェイ。それも奥行きの長いコンサートピアノです。
当時でも千五百万円はしたらしく相当無茶な買い物だったそうです。誰がそれを押したかというと、そのN先生だったそうで。
自分は第九の練習日は早めに会場に入り、そのスタインウェイを勝手に弾かせてもらっていました。実際、あの鍵盤のタッチは素晴らしかったですし、音の響きも完璧でした。
いま買おうとしたら幾らになるのか分かりません。しかし、千歳市所有の立派な財産になっていそうです。

映画の話からかなり逸れてしまいました。
本気で音楽の演奏をマスターしようとしたら、あれくらいのスパルタンさが必要なのかなぁとも少し思っていたりです。
実際、アマチュアのロックバンドでもスタジオ録音を初めて経験した友人は僅かなミスタッチに相当気を配ったそうで、コテンパンに矯正を強いられたそうで。
プロの演奏家であっても、メンバーの中にジャコ・パストリアスのような天才肌が居ると緊張感も半端なかったとか。伝記等を読むと、僅かなリズムのズレも容赦しなかったそうで。
音楽は、なかなか大変な世界だと思います。

国際人の前に文化人

ニュース記事の一覧を斜め読みしていたところ、オーストラリアでの人種差別の記事が。
家を買ったり部屋を借りたりする際にアジア人は差別を受けやすいとの内容でした。
多かれ少なかれ、どの国でもあることでしょうし、日本でも全くないワケではありません。
自分も似たような経験はしていますし。

ただ、日本人はアジア人の中でも別格だったとも思っています。
特に二十年近く前にヨーロッパで三ヵ月滞在した際には、日本人だから助かったような部分もあって。
右寄りのネット民は日本の美談を語りがちなのですけれど、実体験でもそんなことが実際にありました。

まず、ヨーロッパでは日本の工業製品が溢れていますし、テレビCMも実際に多く。
日本では中型以上のバイクのCMが基本的に流せられない様ですが、現地では日本製のバイクのCMもけっこう多かったです。(文化の違いとか国のルールの違いをかなり感じた一面でもありました)
それも、精密で信頼性の高い製品を前面に押し出したCMでした。日本の場合は70年代くらいに大き目なバイクの事故が多発したらしく、CMについても自主規制のようなものが未だ続いている様子です。
あと、偶然だったのかも知れませんが、日本の文化的なテレビ番組も多く。盆栽の手入れの仕方とか大相撲のダイジェストなんてのも放映されていて。(自分の訪れた2000年は日蘭交流400周年だったので、これはたまたまだったのかも知れません)
しかし、盆栽を扱うお店は街の中心街にもあったり、日本以上に日本らしいなぁとか思えたりな場面でもありました。
あと、日本のアニメ番組も多かったです。ポケモンなんて日本でちゃんと観たこと無くて、初めてちゃんと観たのがオランダででした。

ともかく、日本に対しての敬意みたいなのは少なからずあったのかと思います。工業製品に限らず文化面にしても。
じゃぁ、そういったハードウエアやソフトウエア以外に人種としての日本人はどうだったかというと、現地の皆さんと同等な扱いだった感です。
自分は仕事で行ったので、職場の皆さんは自分が日本人だと最初から疑う余地も無かったですし、親切でフレンドリーな接し方でした。
職場の皆さんは似たような世代の方々が多かったですが、基本的に冗談が好きでしたし、職場でノリの良い音楽が流れたりすると歌ったり踊ったりが始まって。
自分はこんなノリが元々好きなので、一緒になって馬鹿をやったりで。

ヨーロッパに滞在した拠点はオランダの現地工場近くでした。オランダの中でもかなり田舎な土地で「フランダースの犬」に登場したような風景がそこら中に残っていて。(あの作品はベルギーなのですけれど、自分の滞在先はベルギーアで僅かな距離で、文化的には近いものがあったようです)
定宿にしていた場所は当時自分がお世話になっていた会社の社長の親族(社長の弟さん)が営むペンションでした。ソコソコな広さで、なかなか快適な部屋でした。
そのペンションの敷地にはちょっとしたレストランもあったり、そのレストランにはグランドピアノが置いてあったり。

滞在初日にペンションのオーナーと挨拶した際が、そのレストランでした。何よりも最初に目に飛び込んだのがピアノ。
何処のメーカーのピアノかな?と覗き込んだところ、YAMAHAでした。
触れてみて良いですか?と聞いてみたところ、勿論ですと。
人差し指一本だけでCのキーを押さえてみると、一音だけでも素敵な響き。お気に入りの短いフレーズを弾いてみても素敵な響き。各鍵盤のタッチも音も完璧です。調律はちゃんとされていました。
そこでショパンの代表的な曲を弾いてみたところ、四小節目辺りでミスタッチ。そのまま終了。
しかし、レストランに居たウエートレスさんが残りのフレーズをハミングしてくれて。

これが、何だか感動だったんです。
お互い知っていた「別れの曲」でした。「指が忘れてしまいました。ごめんなさい」と簡単な英語でお返し。
たどたどしい片言英語しか使えなかった初日の自分でしたが、音楽というものは、それ以上の何かがあるんだなぁと。
ペンションのオーナーは地域で古くから伝わる音楽の継承者でもあったらしく、それから意気投合する場面も幾度か。
帰国直前には、自分もちゃんと弾けるようになっていて、お世話になった恩返しもやっと出来たかと。
地域の文化的な場所をプライベートで沢山体験させて頂けたりだったもので。
馬に触れさせてもらったり、名所に連れて行って貰ったり、街の中心部の古い教会でパイプオルガンを弾かせてもらったり。こんな経験をさせてもらうなんて想像していませんでした。
お別れの際は、電話越しに涙ポロポロでした。

後から考えると、ピアノを弾けた縁もあったと思うんです。
人種がどうであれ、何らかの文化的な素養があれば、受け入れてくれる部分があったと思えて。
ヨーロッパでは何処の家でもピアノが置いてある。なんてワケでも無く。

自分の育った環境は裕福な家では無かったのですが、子供にピアノを習わせるのが母の夢だったそうです。(数日前に放映された「遥かなる山の呼び声」というドラマでも、裕福でもない家庭で子供がピアノを練習していて)
自分の三人兄弟は小学校の卒業式でピアノの伴奏をそれぞれしてきました。しかし、音楽のプロになったのは誰も居ません。
だいたい、母は習わしておきながらもその道に進めさせるのは否定的で。
安定した職業を望んでいた様子でした。少なくとも自分より二人の兄は音楽の素質もあり、その可能性は十分にあったのに。
何事にも一番出来の悪かった自分は、妙な場面で恩恵を頂いていた感でした。

話が戻るのですが、人種云々の差別があったとしても文化的な経験はそれらを覆す力があるのかと思っています。
「エレファント・マン」という見た目の障害を持った主人公の映画でも、主人公が人知れず聖書を唱える場面で流れが変わりました。(それまでは単なる見世物で、まさか教養があるとは思われていなかった)
高校生時代にショパンのノクターンを聴いてみたいと思っても自宅にはレコードが無く、FM放送で録音した演奏が衝撃的でもありました。

それは自分にとって理想の演奏でした。さりげない完璧な演奏の中に感情も僅かに伺えて。ノクターンらしいノクターンでした。
演奏されていたのはダン・タイ・ソンさん。ベトナムのハノイ出身のピアニストで、1980年にアジア人で初めてショパン国際ピアノコンクールで優勝されていたそうです。
後から知ったうろ覚えですが、ベトナム戦争中は音が漏れないような練習で相当苦労していたとか。(こちらの記事が詳しいです)
そんな酷い環境の中で育った音だなんて、演奏だけでは分からず。

日本人であっても、アジア人の出身地によっては甲乙つけてしまう場面は実際にあります。
ただ、自分の場合はこういった経験があったので、あくまでも本人次第です。
と、道徳的なお説教になってしまいました。

何より、先人が築いた日本の印象に感謝すべきですし、それを台無しにしてしまう様な振る舞いは残念だと思います。
文化面の経験による違いは日常茶飯事で、時として怒られてしまうこともあるのですが、その土地に合っていなかったのなら素直に謝る心構えも大切で。
海外に出る度に、ピアノをちゃんと練習しておくべきだったなぁとか、次回のためにも練習しておかなくちゃとか思いつつ、進歩の足りない自分です。
しかし、この文章を入力しているキーボードの手前には鍵盤楽器も備わっているのですが、かれこれ一ヶ月電源も入れていないなぁ。
ガァ

前田憲男さん

今夜見掛けたニュース記事で、前田憲男さんが他界されたとのこと。
ジャンル問わずの天才ピアニストでした。幸運にも自分は生演奏を経験していました。
(詳しくは過去の投稿によります)

メロディックでドラマティックで軽やかな演奏でした。
楽器をやっている人は、極端に上手い演奏を生で耳にしてしまうと、自分には無理だと思うこともしばしばです。
これはアマチュアでもプロでも同じらしく。
あの三越劇場でも、同じ衝撃が走りました。演奏の上手さと感動と、自分の出来の悪さと。

話が少し飛びます。
その無料で体験出来てしまった三越劇場でしたが、客席は半分くらい埋まっていた状況でした。
ホールは入り口から別次元で、古い扉や椅子等の内装なのですけれど磨かれていて気品に溢れていて。自分達以外のお客さんはほとんどがシルバー世代でフォーマルにキメていて。
多分、劇場の関係者も「音楽好きな若い子達いっぱい連れてらっしゃい!」なノリだったと思うんです。自分達は小汚い服を着たまだ青臭さ残った若造でした。
自分を誘ってくれた軽音関係者も、それぞれ受け持っている楽器の演奏に感動していました。
どうやったら、あんな演奏が出来るんだろう?と。それも軽々と。

更に話が飛びます。
思い出してみると、大学時代まではコンサートに行ける機会がそれなりにありました。
もう三十年近く前の話なので罪は無いと思いますが、ほぼ全てのコンサートは無料でした。
音楽仲間の伝手で突然誘われるパターンで。大体は「席を埋めたいから助けて!」って話で。
バブル時代だったのでロック以上にクラシックのコンサートも人気があったりでしたが、何かの手違いでチケットが大量に余ってしまうパターンもあったようです。
自分は夜間大学に通っていて、ほとんどのコンサートは夕刻に開演だったので、その度に天秤に載せていました。
今夜の講義は外しても大丈夫か等々。特に語学の講義は出席点がモノを言うと兄からも教わっていて。

マーラーの五番の生演奏は一度くらい聴いてみたかったものの、厳しい英語の講師だったので誘いを断っていて。
誘ってくれた友人は出欠だけ済まして教室を上手く抜け出していて。
しかし、その友人が講師からリーディングを指名されてしまい。
代返とは異なる次元、義理と人情で自分が「はい!」と立ち上がり、英文を読み上げることに。
しかし、この後自分がリーディングで指名されたら、誰か代理をしてくれるのかな?
かなりハラハラする残り時間でした。

ともかく、自分は若いうちに東京に出てきて良かったんだと思います。グレーゾーンな中で、持ちつ持たれつ貴重な機会が多くて。
高校時代から「今だったら許される!」と馬鹿な誘い合いばりでしたし、根性試しというか、大学でも延長線で周りを馬鹿に染めてしまった感で。
しかし、あの頃は面白かったなぁ。(じじい口調)

自分が前田さんの生演奏を経験したのは1990年頃だったかと思います。逆算すると当時の前田さんは五十代半ば。
自分も頑張らねばと思いつつ、素敵な演奏に改めて感謝しております。

ベアー・ハンター

ディアハンターをモジりました。熊ハンターについてです。
全くどうでも良い最近の話題です。

時々伺う最寄りのコンビニでは一ヶ月以上前からクマのプーさん関連のグッズがクジ引きで販売されています。
一等賞はプーさんのぬいぐるみ。サイズは30㎝くらいでしょうか。当初は三頭くらい飾られていた記憶です。(曖昧)
これが二頭になった頃にプーさんの存在を意識し始めました。
いま、どれくらいの確率で購入できるのであろうか?と。
レジの店員さんに聴いたところ、くじ引きは一回七百円くらいだそうです。
ついでに、現在の残りくじの数まで教えて頂けました。19枚くらいとの話でした。
うーん、もう少し様子見してみるかと。。

ちなみに、自分は元々クマのプーさん何てキャラクターも知らなかったんです。
四半世紀以上前の記憶に遡るのですが、山形からイトコの娘さんが上京してきまして、兄夫婦の部屋に泊まりに来ていて。
何でも、高校入学直前の春休みだったそうで。兄から職場に突然電話があり、お前も来いと。
数日後にディズニーランドへ行くらしく、お前もお供せよと。
そんなことを突然言われても、自分には予定がありました。当時はセキュリティー会社の現場で緊急対処員をしていて予定では数日間夜間勤務で。
ただ、この娘さんのことは赤ん坊の頃から存じていましたし、何よりもそのお父さん「和博おじさん」は当時母子家庭だった自分達三人兄弟にとって実の父親以上の存在でした。
和博おじさんにあれだけ世話になっておきながら、自分は何も出来ていなく、それは罪悪感に近く。

駄目元で、上司にスケジュールの変更を伺ってみました。当然、無理だとの回答。
しかし、二日ほど前になって許可を頂けてしまい。
ただ、直前は夜勤と日勤が続く状況で。休む間もない都心の緊急対処員の24時間勤務はかなりしんどく。
そんな生活を一年も続けていたので、自律神経も麻痺し始めていましたし、体内時計みたいなものも滅茶苦茶だったと思います。

24時間勤務を終えた自分は東京駅で兄夫婦と待ち合わせ。山形から新幹線経由でやってきた娘「チアキ」は、もうしっかり女の子してました。
母親似の綺麗さまで受け継いでいるなぁと、一安心。
兄夫婦の家ではまだ一応中学生だったチアキも交えて酒盛り。まぁ当時は緩かった時代ですし、陰で呑むより大人に付き合えって感じで。
その晩はゆっくり寝れました。

翌日のディズニーランドなのですが、溜まっていた疲れが全く抜けず。どのアトラクションも行列で、ちょっとベンチで寝かしてほしいと。
木陰のベンチを選んで、自分は午前中からひと眠り。戻ってきた兄達に起こされたのは夕刻も近かった頃でした。
「お前は何をしに来たんだよ!」と本気で兄に怒られる始末。「一目チアキに会いたかっただけ」とは答えられず、適当に謝った記憶です。
ここまでのところ、結局寝場所に選んだだけでした。

とりあえず、並ばずに済むアトラクションに着いていきました。
プリマハムが提供のカンカンダンスみたいな劇場、これがなかなか面白かったです。やはり、生の演劇というのは素晴らしいなぁと。
その後に観れたのは夜の仮装行列みたいなので。キラキラ華やかな行列とド派手な音楽と。
これだけを観にきた自分は実際馬鹿だったと思います。でも、チアキに会えたからいいんです。

チアキには冗談がほぼ通用せず、怒られてばかりでした。
何処かの家族連れのお父ちゃんが某芸人みたいな顔で「間寛平みたいな面してやがんなぁ」とボソっと漏らすと「そんなこと言っちゃダメ」と。
兄のお嫁さんにはえらくウケていたのですが。。
帰り際にお土産屋さんへ寄ったんです。

SUKIYAKI:おぅチアキ、好きなキャラクター教えてくれ。
チアキ:クマのプーさん。
SUKIYAKI:あの黄色い奴か?
チアキ:そう。

この黄色いクマの何処が良いのか自分は分からずでしたが、ボコボコしていて抱き心地は良さそうでした。
とりあえず、一番でかいぬいぐるみをレジに持って行こうとしたのですが、これは何故か売り物では無かったそうで。
売り物で無いものを売り場に置くのが理解できず、幾らなら売ってくれるのか?と聴いても売り物じゃないと。
自分にだって見栄はあるのです。「幾らでも構わないから買わせろ」とまで言ったところでチアキに止められました。
十万円未満なら痛くも痒くもなく、これはこれで良い思い出になるではないか。と心の中で思っていたのですが。

結局、二番目に大きな黄色い奴を入手。一万円もしなかった記憶です。(十頭くらい買っちまえば良かったと後から後悔したり)
それでも持って帰るのは大変そうだったので、宅急便で送ることに。
山形で待っていたアキコおばちゃんはその荷物に驚いたそうです。でも、嬉しかったとも。

話を戻します。コンビニのクマについてです。
最後の一頭はラストチャンスだとかで、最後のクジを引いた人向けらしいのです。セコい商売です。
こんなのクジじゃないじゃんかよ。
この一週間は、コンビニに伺う度に残りのクジの数を聴いているのですが、ほとんど減っていないそうです。
この段階で買うのは、確率以前にルールを分かっていない人かと。何も考えずにコレ欲しいで。
ともかく、しぶとくレジの横に並ぶ中途半端な大きさのクマよ。
あの時は十万円でも等身大に近いクマを求めようかと思ったが、こんな小さな奴に一万円以上出せるもんか。

識字率

歴史ものの番組をぼんやり見ていたら、江戸時代以前の手書き文章はかなりの達筆で自分はぜんぜん読めないなぁと。
そこでWikiの識字率をちと確かめたり。まぁ達筆と活字ではまた次元が異なるとは思いつつ。

日本は昔から識字率が高いと何となく知っていました。
ただ、それも明治以降の教育で最低限広まった部分でもあるようで。
そこで話が飛びます。

自分は元々漢字の書き取りが苦手です。未だにその傾向は残っていますし、特にパソコンを使うようになってからは酷い状況です。
鍵盤楽器も触れていなければ指が曲を忘れてしまう様に、計算もペンを持たねば出来なくなってしまう様に、漢字も似たようなものかと。使っていれば指が勝手に動くもので。
中学三年の春に母の再婚と引越しを伴い北海道へ渡った際は、かなり困った場面に遭遇していました。
数学や理科は何故か得意だった自分、転校後の最初の試験は数学で。
回答自体はスラスラ出来たのですが、新しい自分の苗字が答案用紙に綴れず。

これは非常に困りました。
答案用紙の回答を見直しているうちに新しい苗字が漢字で綴れるかなぁと一周見直しても、やはり閃かず(ひらめかず)。
恥ずかしい状況で答案用紙を引っ繰り返し、提出した記憶です。
どうやってその場を片付けたのかは自分もハッキリ覚えておらず。
名前欄を空白にしたのかなぁと思っているのですが。まさか平仮名では出さなかったとも思えるし。

だいたい、転入生の最初の試験など先生も同級生も気にしていたとは思うんです。
ただ、職員室には自分からお詫びに行った記憶が僅かに残っています。
ちと忘れかけていた思い出でした。