猫の恩返し

一人暮らしになってから三十余年、自分は動物を一度も飼ったことが無く。
それ以前の実家で暮らしていた頃は、引越し等で最後まで面倒見切れなかった場面が幾度かあり、人の都合で処分してしまう事が申し訳なく。
特に、一人暮らしですと突然の出張で帰宅出来ない事もあったり。可愛そうなことは出来ないなぁと。
半家飼い半野放しみたいなカタチで猫を育てられたら良いのですけれど、現代では基本的に許されないらしく。

高校一年の頃だったと思うのですが、北海道の冬の肌寒さが厳しくなった夕刻に自宅前で黒猫と遭遇しました。
近所で全く見掛けたことの無い痩せ細った黒猫は、黒い詰襟の学生服を着た自分目掛けて走り寄り、ニャーニャーと鳴きながらひたすら擦り寄り。
このままでは玄関の中まで入ってしまいそうで、ドアを開けられず。
追っ払おうにもしつこく纏わりついてきますし、人馴れしているというよりは何かの救いを求めている様で。

その前年に埼玉から北海道へ引越す際、飼い犬を処分する必要があり、それが自分には堪えていました。助けられなかった責任感があり。
何の役にも立たない捨てられた雑種の馬鹿犬だったのですが、愛嬌だけは誰にも負けず、人懐こく。最後に保健所へ連れられて行く際も、散歩に連れて行って貰えるのかと何も疑わず、尻尾振っていて。
最期まで馬鹿な奴だったと泣けてしまい。

自衛隊の官舎で動物を飼ってはいけないルールでした。自分の家族は五人住まいで、本来は入居出来ない幹部向けの官舎でもあったそうで、せめて迷惑を掛けないようにはしていて。
そんなもので、この黒猫を追い払おうと数十分あれこれ試してみたのですが、全く離れようとせず。
根気負けしまして、仕方なく玄関を通してあげました。

自分も前年に北海道の冬の寒さを初めて経験しています。あの厳寒の外で一晩過ごすことなど出来ないですし、こんな痩せ細った猫を放置したらと考えると。
まだ雪の積もっていない季節ではありましたが、そのうち勝手に何処かへ行ってしまうだろうくらいに思っていて。

家には誰もまだおらず、家族の説得を考えたり。
難しいだろうなぁとは思ったものの、何故かあっさり許された記憶です。家族も、そんなに長居しないだろうと思っていたのか。
とりあえず、近くの公園の砂場から砂を拝借し、風呂場にあったタライをトイレ替わりに床置き。
その上に猫を置き「トイレはここだからな」と教えると、直ぐに覚えてくれて。
案外賢そうな猫でした。

雪が積もる頃にはしっかり家族の一員に。
ほとんど無害の奴で、その点は助かりました。ピアノの上に乗るのが好きらしく、鍵盤の蓋を開けたままだと、夜中にピアノの音が響くくらいで。
猫の名前はシロ。黒猫のシロの命名権は自分にありました。これも珍しいパターンでした。
その年に自分は希望の高校に進学出来ていたので、一時的に立場が良かったのかも知れません。

朝、高校に向かう際は自宅から300mほど離れた大通のバス停までトボトボ歩く日々、シロも自分の後を追ってくることがしばしば。
朝の大通りは車の往来も激しく「危ないからついてくるな!」と追い返そうにも、なかなか言う事を聴いてくれず。だいたいはその間の公園辺りで諦めてくれていました。
そして、帰宅する夕刻にはその公園辺りで自分を待っていることも。初めて会った時のように足元でスリスリ。

特別に可愛がっていたワケでは無いのですが、何故に自分を選んだのかいまでも不明です。
猫は家を選ぶといいますが、自衛隊の官舎はどこも同じような見た目なのが並んでいますし。
期末試験では一夜漬けが基本でした。居間のソファーに寝転びながら、教科書と問題集を開いて。暖房代が勿体無いので古い大きなストーブはかなりの弱火で。
そして、湯たんぽ代わりにシロを抱き抱え。

自分は睡魔に勝てなくなると、そのままソファーで寝てしまっていましたが、シロは長い時間抱き抱えられるのが苦手なのか、自分が起きているうちに離れてしまうのが普通でした。
しかし、熟睡途中で目が覚めると、シロは自分の腕を枕にしていて。
そんな場面がちょっと可愛かったり。
「何やってるんだよ?」と髭を引っ張ると「ニャー」と返してきたり。

その冬は問題無く乗り越えられました。春が来たら、こいつも何処かに行ってしまうんだろうと思っていたら、そうでも無く。
そんな頃に大きな事件が。
シロが鳩を咥えて帰宅してきまして。

鳩を咥えたシロは勝ち誇った表情を体現し、自分に獲物を差し出しました。
「ほら、人間よ。餌捕ってきてやったぞ。お前らなんかに出来ないだろう?」とでも言っている様で。
鳩はイタリアで高級料理だったような記憶ですが、羽も生えたままの鳩は食料というより死骸でしかなく。
「おまえ、何てことするんだよ」と呆れつつ、鳩を取り上げるとまだ暖かく。獲れ立てのようでした。
そして、鳩の足には金属のリングが。

自宅近くにはレース鳩が趣味の方が暮らしていて、けっこうな敷地に立派な家と大きな車。あそこの鳩舎から頂いてきたのかなぁと。
「そんなことしちゃいけないぞ!」と怒っても、シロは勝ち誇った表情のまま。トイレの躾と違って、これは伝わらないだろうなぁと自分も解っていましたが。
仕方なく、小さな庭の土をほじくって埋めることに。

そうこうしているうちに我が家で猫を飼っているという噂が広がってしまい、回覧板で警告されてしまったり。
名指しでは無かったものの、うち以外で猫を飼っていそうな家庭は周りに無く。
家に連れ込んでしまった自分が猫を捨てに行くハメに。
「仕方ない」ばかりが続くことに。

自宅から数百メートル離れると、小さな川を挟んで大きな農場がありました。その小さな川の向こうにシロを放り投げ。
途中に橋など無かった記憶です。何百メートルも迂回しなければ戻ってこれない場所でした。
「いまは夏だし、上手く生き延びてくれよ」と。

しかし、翌朝シロは帰ってきました。
これにはちと驚きました。
自分はさぞや恨まれているだろうなぁとも思いました。
しかし、恨むことも無く毎朝バス停近くまで自分を見送る日々。
何だか、自分が嫌になってしまい。

次に養父がシロを捨てに行くことに。
街の中心部までは数キロの距離があり、その途中の橋の辺りで捨てたそうです。
そのまま数時間パチンコ屋で時間をつぶし、気になって同じルートで帰宅する途中、捨てた橋の同じところでシロはニャーニャー泣いていたそうで。
普段は鬼の様な面もある養父でも、見捨てられなかったそうです。
何というか、家族皆が猫にやられてしまったというか。

その後も結局、家をしばらく離れなかったシロでした。
途中、子供を沢山産んだり。
子猫達も可愛かったです。色んな模様の小さい奴等でした。
親に似たのか人を信じて疑わず。自分が子猫を抱き抱えるとシロは「返せ返せ」と嫌がっていました。
そこまで信頼されていないのかな?
しかし、すぐに許してくれるようになり。

シロがいつでも出入りできるように窓はいつも少しだけ開けていました。
それが良くなかったのか、他の猫が子猫を連れ去ったようなことも(実際はどうだったのか分かりませんが、知らない大きな猫が入り込んでいた場面は幾度か目撃しています)。
シロは子猫の数もしっかり覚えている様で、一匹足りないと自分に訴えてくることも。
自分を睨んでニャーニャー訴えてくるんです。「子供を返せ」と。
「俺じゃねーよ!」と言い返してもやはり伝わらず。
人の間でも誤解というのは付き物ですが、まさか猫に疑われるとは。

ある日、隣の官舎で事件があったらしく。
夜中に庭で土をほじくっていたらしく。
母がお隣さんにその事を聴くと、残念な結果でした。
車の下に子猫達が集まってニャーニャー鳴いていたそうです。ボンネットの下辺りで何かを引っ張り出している様子。
ボンネットを開けたら、回転部分に巻き込まれた子猫が無残な姿だったそうで。
お隣さんは我が家を責めることもなく。
それが逆に申し訳なくもあり。辛い埋葬作業だったと思います。

それからしばらくして、猫達は家から居なくなりました。
まぁ、仕方なかったと思います。

真冬の北海道の野良猫を時々思い出すんですよ。
Webで検索すると、マンホールの上で身体を温めている画像があったり。
地域のボランティアさん達も、何とかしてあげたい様子で。
その気持ちは良く分かります。
なので、現在暮らしている東京の野良達を見掛けると、「お前達、幸せだよなぁ」と思えてしまったり。

妙な夢をみた

今宵は珍しくさっさと寝れたのですが、妙な夢をみて明け方に目を覚ますことに。
かなりぶっ飛んだ夢でした。

場面は高校時代に北海道で暮らしていた自衛隊の官舎。かなり古い小さな建物。
夜中の三時だというのに兄(次男)がパソコンで大きな音を流していて「煩いからやめてくれ!」と。(あの当時パソコンなど高価過ぎて自宅には無かった)
兄は「書道を学習するソフトをやってるところだ」との説明でした。(狭い部屋で三人兄弟、当時の兄は灯りが漏れないよう机の周りにカーテンを垂らして深夜まで静かに受験勉強していたことが多く)
しかし、大きな音は鳴りやまず、自分はいよいよ頭にきてスピーカーの音量を無理矢理下げようと。だいたい、画面は麻雀ゲームではないか。
しかし、ボリュームを下げても音量は自動で元の大きさに戻り、電源ごと引っこ抜いてやろうとしたところで目が覚めました。

何だったんだ、あの夢は?

当時の兄は浮かばれない状況でした。
二年前に北海道へ引越すまでは、埼玉県で地元トップの進学校に通っていた兄でした。貧乏な家からそこに入学する例は少なく、地域の皆さんも偉く喜んでくれて。
兄はずっと優秀で真面目で通っていたので、見た目もスマートだったので女性からもモテて。
しかし、北海道の引越し時に道内でトップの高校の編入試験に失敗してしまい。何でも、編入試験の場合は相当優秀じゃないと受け入れてもらえない風潮だったそうですし、学区外の枠も厳しかったようです。
落ちてしまったので、学区内の一番の進学校を再受験しようとしたところ門前払い。「何処かの高校を落ちたような生徒は受け入れられない」との説明で。
仕方なく、地元で一番レベルの低かった高校へ転入することに(あくまでも偏差値が低いだけで悪い奴は少なかった印象です)。
しかし、兄はその高校になかなか馴染めず、学校を休むことが多く。兄の本心としては退学して大検経由で大学受験したかった様です。

自分はというと埼玉の中学生時代は全く平凡な成績でした。兄は中学時代に一学年八クラスある中で学年トップの成績を叩き出したりしていたし、もう一人の兄もかなり優秀でしたし。
北海道に引越した際の自分は中学三年生。それまで続けていた部活も無く、高校受験も控えているので勉強にようやく励みだし。
何だかよく分からないのですが、引越し先のクラスではトップ5以内の成績を残せていました。埼玉と北海道では学力の差が多かれ少なかれあったのかも知れません。
その後、自分は希望の高校に入れました。一応学区内でトップの高校でした。上記の兄が門前払いを喰らった高校です。(入学後に担任に門前払いの件を伝えたところ、「そんな対応するワケ無いだろ!」と怒られました。事務方の勝手な判断だったのかな?)

ここで妙な現象に気付きました。兄は高校三年、自分は高校一年。兄は通学で同じバスに乗ろうとしません。
兄の方が自分より遥かに頭が良いのに、遥か格下の高校に通っているという変な状況が許せなかった様子でした。
もし兄が自分の高校に通っていたなら、恐らく学内でもトップレベルの成績だったと思うのですが、周りは着ている制服で判断しがちで。
きっと屈辱の一年だったと思いますし、兄は受験勉強に必死でした。

自分の方はというと、高校一年の夏までは勉強に励んでいました。無利子の奨学金の権利を獲得するには上位の成績を残す必要があり。
それが何とかなった秋からは深夜までアルバイト漬けでした。高校には勿論通っていたので、毎日眠く。アルバイト帰りの最終バスでは寝過ごしてしまい、そのまま自衛隊の正門にバスが入ってしまうことも。
バスの運転手さんも自衛隊の門番の方も親切だったので、詰襟の制服な自分を降ろすことは無く人の優しさに触れられたりでした。そのバスは自衛隊の中で折り返して同じコースに戻るので。真冬の北海道で幾つもの停留所を歩いて帰らせるのは忍びなかったのかと。
その頃には自分の成績もガタ落ちでした。授業中に寝ている場面も多く。「まぁ赤点さえ取らなければいいや」くらいの覚悟ではありました。

結果的に兄は現役で早稲田の第一文学部に合格。恐らく、あの高校から後にも先にも無いパターンだったと思いますし、兄が東京に出てから高校の校長が挨拶に訪れてきたこともあったそうです。
当時の早稲田の一文は慶応よりも上のレベルで、国内トップ。偏差値だけで比べると東大よりも高かったりでした。そこへ単願で飛び込んだのは弟ながら凄いことだと思えました。
自分としても、あのヘンテコな一年が報われて嬉しくもあり。

ただ、希望の大学に入った兄は全く勉強もせずはっちゃけてしまいました。恋愛から何から、全く別人。まぁあれだけ苦労したんだから、誰もが大目にみてくれていました。
教習所でも、学科試験を舐めて掛かったら一度落ちてしまったそうで。「俺は馬鹿なんだよ!」と開き直る兄が可笑しかったり。
卒業後は一部上場の証券会社に入ったものの、バブル崩壊でかなり痛い思いをしたそうで。顧客の何人かは亡くなられたとも。
その後も金融系の仕事に就いていましたが、最終的にはアルコール依存症で42歳の人生となってしまいました。

兄が亡くなるまでの数年間については、以前にもこちらのBlogに綴りましたがロクな思い出になっていません。
崩れてゆく人そのもので。四人の子供をどうするんだよ?とか、自分は兄の事業の連帯保証人で、このままでは共倒れになりかねないとか。
話を戻すのですが、最初に綴った「妙な夢」の頃の兄は勤勉だったんだよなぁと。その後の兄もどっちも同じ人なのになぁと。
どうにも最期の数年間の残念な印象が濃く、しばらくは思い出したくも無い存在だったりしたのですが、時が解決した部分もあったりでした。
いつも冷たい兄だったのですが、自分が上京し立ての頃に風邪で寝込んでいたら薬とか買ってきてくれたり、お気に入りだったツイードのコートをくれたり。そういった場面を忘れていたなぁと。

亡くなる数年前に言われた「そんなに俺が頼りにならないのかよ!」との兄のセリフも記憶に残っています。当時はその意味も分からずで。
逆に、大人になってからの自分は兄から頼られる場面が幾度かあっても、自分は兄を頼ったことなど一度も無く。というか、自分は誰にも頼らない生き方をしていたので。

妙な夢の途中で目を覚ますことは時々あるのですが、起きた後にも覚えている内容は珍しく。
そういえば、そろそろ兄の命日だったかな?とパソコンで検索したところ、来月だったらしく。
兄は東日本大震災も新型コロナウイルスも知らないんだよなぁ。
雲の上から見守っていてくれているのか謎ですが、まだ呼ばないでネ。

自分にお土産

高校の修学旅行は奈良と京都。引越前の埼玉の中学校でも伺った地域でしたし、自分の爺さんが奈良で暮らしていたので、幼少期にも訪れていました。
高校時代の自分は古い日本史にほとんど興味なく、同級生達と如何に馬鹿な思い出を作るかばかり考えていて。
煙草の煙が蔓延のホテルの部屋にはウイスキーも持ち込まれ、そこへ理科の教師がやってきてどうなることやらとか。(教師はアルコールでかなり出来上がっていて、逆に介護が必要な状況)
酷い二日酔いの自分は観光バスの一番後ろの席で死んだふり。奈良の大仏さんはそんなワケで拝めず。

帰路の途中で上野に寄りました。自由時間は嘗て暮らしていた埼玉の川越方面へ。
単独行動は許されなかったのですが、こんな個人的な思い出の場所に友人を付き合わせるワケにも行かず。小学校でお世話になった先生や、街でたまたま見掛けた旧友に挨拶したり。
しかし、単独行動はバレていたようで、同じ班だった生徒会長に上手く助けられていたそうです。その生徒会長もかつて暮らしていた東京の某所を訪れていたそうで。
教師からの信頼度は自分と全く異なる生徒会長のH君、自分がそそのかした校則破りの仲間でもあり、いい奴だったなぁと。

集合場所に戻った友人達は、様々なお土産を手にしていました。本州に訪れる機会が少なかった連中はディズニーランドの袋だらけ。
親しかった連中は、ヘンテコなお土産が多かったです。「松茸が安かったからアメ横で買ってきたんだよ」とか。自分は松茸を食べた記憶が無く、匂いを嗅がせて頂きました。
案外、野性的な香りでした。

自分のお土産は、腕時計でした。当時、少しはお洒落に興味もあってホットドッグプレスやポパイでも紹介されていたような腕時計でした。
ポップとレトロがせめぎ合っていたいた時代、ちとレトロ気味なデザインや色合いに惹かれていて。
その後、革バンドが腐って野獣の香りをかもしたり、秒針が落下したりで幾度か修理していた腕時計、ここ二十年くらいは電池も切れたままオブジェです。
革バンドの件は、夏場に頬杖をつくと「何じゃこりゃ」の香りで、原因が分かるまでけっこう嫌な思い。春夏秋冬いつも肌に付けていたので、仕方なかったと思います。

その数年後に東京で学生生活を送っていた自分、渋谷のお洒落なお店のレジで同じ腕時計の女性バージョンを着用しているのに遭遇しました。何か一声掛けたかったものの、綺麗すぎて何も言えず。その革バンドも純正では無くて。
埃をかぶっていた腕時計、検索したところ当時を代表する作品だったそうです。電池交換、久し振りにしてみようかな。

セッション

一昨日の夜にたまたま観た映画がソコソコ面白かったです。
セッション」というタイトルの作品、Jazz系の音楽学校でのストーリーなのですが、ここに登場する講師がともかくスパルタン。
自分は学生時代からJazzを聴いていたし、楽器にも触れてきたので、場面々々のバックボーンとか少しは理解も出来ました。
まぁ、Jazzに詳しく無い人でもソコソコ楽しめる内容だったとは思います。
しかし、アカデミックな世界でも現代のアメリカではここまで「Fuck」という単語を連発するものなのでしょうか。
怒りを表現する言葉の多くにFuckが登場し、まるでFuckの活用形で言語が成立しているようでもあり。バリエーションが多過ぎで、字幕の日本語訳も大変だったと思います。

自分の高校時代の音楽教師もかなりスパルタンだったなぁと思い出しました。
普通科の高校の一科目でしか無かった音楽ですが、高校入学時に生徒が選択できる芸術系科目の中で音楽は何故か人気があり。他には書道や美術も選べられました。
どの科目も偏りが無いように定員は決まっていて、お試し授業の段階で音楽のN先生は「俺の授業は厳しいぞ」と念押しをしていて。
そんなこと言わなくても、噂だけで充分伝わっていました。

自分は過去にクラシックピアノを習っていたので、少しは楽できるかな?何て思っていたものの、自分にとっても厳しい授業が多かった記憶です。
鉛筆で机を叩き、三連符混じりの曲のリズムを刻まされたり、曲を書かされたり、コード理論の基礎を叩き込まれたり、譜面のフラットやシャープの数で曲の調を当てさせたり。
フラットはファ、シャープはシ」の法則とか、今でも役に立ってはいますが、クラシックの音大でもそこまで教わらないのではないか?と未だ思っていたりです。
実際、音大のピアノ科を卒業した知人とか、ポピュラーのコード譜が全く読めないとかはザラでしたから。
あまりにも実践的な講義、その後に恩恵を感じた生徒はどれだけ居たことやら。

自分は高校時代の短期間だけ、その先生が担当するブラスバンドにも属していました。
この部活は更に内容が厳しく、土日も練習と聴いていたので入部するつもりは無かったのですが、成り行きで一時期参加していて。(綴ると更に話が長くなってしまうので、経緯はそのうち)
まぁ、凄いレッスンでした。先生はチューニングのズレが大嫌いで、測定器のような古いチューナーをよく持ち出していて。(大抵は耳だけでカバー出来ていました)
リズムにも厳しく、打楽器を担当する生徒は毎度ボロカスに叩かれていて。一期上の女性が打楽器の担当でしたが、涙を流している姿は幾度もありました。
ブラスバンドに所属する生徒達の雰囲気も毎度どんよりしてるし、拘束時間も長いし、多感期の重要な時期に「こんなことやってられるか!」で自分は退部しています。
当時の自分は大学進学など考えていなかったですし、最後になるかも知れない学生期間にこんな思い出しか残らないのは非常に馬鹿げていると思えていて。
もっと沢山の経験をしたかったんです。

ただ、学校祭ではピンチヒッターでラッパを吹くような場面もあったりでした。
音楽の授業は高校二年まで続きました。その二学年の春頃に「今年の暮れは市民でベートーベンの第九を歌う機会がある。滅多に無い機会だから興味ある生徒は私のところまで」との先生からのアナウンス。
自分は歌が下手だし、授業でも先生からボロカスに言われていましたが、第九は好きだし本物のオーケストラをバックに(実際はオケが手前ですが)歌える機会など滅多に無いのは気付いていました。
週に一度水曜の夜だけの練習であれば付き合っても良いかな?で同期二人を誘って。
これは良い経験になりました。練習場所であった文化センターに集まるのはほとんどが大人達でしたし、そんなスパルタンな内容でも無く笑いも絶えず。
当時の自分といえば、煙草もお酒もやっていて練習会場には単車で乗り付けて。そんなのが第九をというのは妙だったとも思われます。しかし、どれも経験しておきたかっただけでした。
ズルい確信犯でもあったのですが、あの高校の学生服を着ていれば大体許された様子でしたし。
これを綴っている今もたまたま年末ですが、第九の本番は実に見事にキマり、いまでも大晦日の夜はテレビ放映の第九を一緒になって歌いがちです。

高校三年になると音楽の授業はもう無く、学校祭のクラス発表くらいでしか楽器に触れる場面は無く。
あの先生にはずっと怒られてばかりだったものの、音楽の成績はそれほど悪くなかった記憶です。ペーパー試験の対策をもう少しちゃんとやっていたら、もっと良い成績だったのかも知れませんが、丸暗記系はどうにも苦手で。

夏の学校祭の後は大学受験の勉強にけっこう必死でした。年末まではどうにも空回り気味だったものの、年明けからはラストスパートに火がついて。
希望の大学の合格通知を何とか掴み、久し振りの高校で職員室に報告へ。そこに向かう廊下には大学合格者達の名前が既に貼られていて、自分の名前も。
自分は夜学部の合格でしたが、何故か大学名と学部くらいしか綴られていなくて。(後からそれを指摘したのですが、何か気を遣ってくれたそうです。ただ、地元の新聞の合格者一覧を観たところ夜学部であっても知られた進学校の生徒だけでした)
職員室のドアを開けると、誰よりも先に音楽のN先生がニコニコ笑顔でやってきました。両手を掴み「良くやった良くやった」と。
自分も嬉しかったですが、かなり意外でもありました。生徒のことなんて全く無関心かと思っていたN先生でしたし、こんな笑顔は観たことが無くて。
国立大学の合格発表は少し後でした。第九に一緒に参加したH君は生徒会長もやっていて忙しい立場でもあったのですが、無事に現役で北大に合格していました。
H君はN先生とその後会えたのか分かりませんが、きっともっと喜んでいたんだろうなぁと。

そういえば、自分は一度だけ嘘をついていたなぁと。
ブラスバンドを辞める際「こんなに拘束がきついと、受験勉強もやってられない」と。実際はそれからアルバイト三昧だったのですが。
途中はどうであれ最後にツジツマは合ったから、まぁいいか。

N先生については授業のある昼間からお酒臭かったり、大人としては問題あったのかも知れません。第九の裏方で頑張られていた市の職員の方も、その辺で苦労が多かったとも聴いていて。
市の文化センターは当時建てられたばかりで、大ホールに置かれたピアノが存在感ありました。高級ピアノの代名詞でもあるスタインウェイ。それも奥行きの長いコンサートピアノです。
当時でも千五百万円はしたらしく相当無茶な買い物だったそうです。誰がそれを押したかというと、そのN先生だったそうで。
自分は第九の練習日は早めに会場に入り、そのスタインウェイを勝手に弾かせてもらっていました。実際、あの鍵盤のタッチは素晴らしかったですし、音の響きも完璧でした。
いま買おうとしたら幾らになるのか分かりません。しかし、千歳市所有の立派な財産になっていそうです。

映画の話からかなり逸れてしまいました。
本気で音楽の演奏をマスターしようとしたら、あれくらいのスパルタンさが必要なのかなぁとも少し思っていたりです。
実際、アマチュアのロックバンドでもスタジオ録音を初めて経験した友人は僅かなミスタッチに相当気を配ったそうで、コテンパンに矯正を強いられたそうで。
プロの演奏家であっても、メンバーの中にジャコ・パストリアスのような天才肌が居ると緊張感も半端なかったとか。伝記等を読むと、僅かなリズムのズレも容赦しなかったそうで。
音楽は、なかなか大変な世界だと思います。

国際人の前に文化人

ニュース記事の一覧を斜め読みしていたところ、オーストラリアでの人種差別の記事が。
家を買ったり部屋を借りたりする際にアジア人は差別を受けやすいとの内容でした。
多かれ少なかれ、どの国でもあることでしょうし、日本でも全くないワケではありません。
自分も似たような経験はしていますし。

ただ、日本人はアジア人の中でも別格だったとも思っています。
特に二十年近く前にヨーロッパで三ヵ月滞在した際には、日本人だから助かったような部分もあって。
右寄りのネット民は日本の美談を語りがちなのですけれど、実体験でもそんなことが実際にありました。

まず、ヨーロッパでは日本の工業製品が溢れていますし、テレビCMも実際に多く。
日本では中型以上のバイクのCMが基本的に流せられない様ですが、現地では日本製のバイクのCMもけっこう多かったです。(文化の違いとか国のルールの違いをかなり感じた一面でもありました)
それも、精密で信頼性の高い製品を前面に押し出したCMでした。日本の場合は70年代くらいに大き目なバイクの事故が多発したらしく、CMについても自主規制のようなものが未だ続いている様子です。
あと、偶然だったのかも知れませんが、日本の文化的なテレビ番組も多く。盆栽の手入れの仕方とか大相撲のダイジェストなんてのも放映されていて。(自分の訪れた2000年は日蘭交流400周年だったので、これはたまたまだったのかも知れません)
しかし、盆栽を扱うお店は街の中心街にもあったり、日本以上に日本らしいなぁとか思えたりな場面でもありました。
あと、日本のアニメ番組も多かったです。ポケモンなんて日本でちゃんと観たこと無くて、初めてちゃんと観たのがオランダででした。

ともかく、日本に対しての敬意みたいなのは少なからずあったのかと思います。工業製品に限らず文化面にしても。
じゃぁ、そういったハードウエアやソフトウエア以外に人種としての日本人はどうだったかというと、現地の皆さんと同等な扱いだった感です。
自分は仕事で行ったので、職場の皆さんは自分が日本人だと最初から疑う余地も無かったですし、親切でフレンドリーな接し方でした。
職場の皆さんは似たような世代の方々が多かったですが、基本的に冗談が好きでしたし、職場でノリの良い音楽が流れたりすると歌ったり踊ったりが始まって。
自分はこんなノリが元々好きなので、一緒になって馬鹿をやったりで。

ヨーロッパに滞在した拠点はオランダの現地工場近くでした。オランダの中でもかなり田舎な土地で「フランダースの犬」に登場したような風景がそこら中に残っていて。(あの作品はベルギーなのですけれど、自分の滞在先はベルギーアで僅かな距離で、文化的には近いものがあったようです)
定宿にしていた場所は当時自分がお世話になっていた会社の社長の親族(社長の弟さん)が営むペンションでした。ソコソコな広さで、なかなか快適な部屋でした。
そのペンションの敷地にはちょっとしたレストランもあったり、そのレストランにはグランドピアノが置いてあったり。

滞在初日にペンションのオーナーと挨拶した際が、そのレストランでした。何よりも最初に目に飛び込んだのがピアノ。
何処のメーカーのピアノかな?と覗き込んだところ、YAMAHAでした。
触れてみて良いですか?と聞いてみたところ、勿論ですと。
人差し指一本だけでCのキーを押さえてみると、一音だけでも素敵な響き。お気に入りの短いフレーズを弾いてみても素敵な響き。各鍵盤のタッチも音も完璧です。調律はちゃんとされていました。
そこでショパンの代表的な曲を弾いてみたところ、四小節目辺りでミスタッチ。そのまま終了。
しかし、レストランに居たウエートレスさんが残りのフレーズをハミングしてくれて。

これが、何だか感動だったんです。
お互い知っていた「別れの曲」でした。「指が忘れてしまいました。ごめんなさい」と簡単な英語でお返し。
たどたどしい片言英語しか使えなかった初日の自分でしたが、音楽というものは、それ以上の何かがあるんだなぁと。
ペンションのオーナーは地域で古くから伝わる音楽の継承者でもあったらしく、それから意気投合する場面も幾度か。
帰国直前には、自分もちゃんと弾けるようになっていて、お世話になった恩返しもやっと出来たかと。
地域の文化的な場所をプライベートで沢山体験させて頂けたりだったもので。
馬に触れさせてもらったり、名所に連れて行って貰ったり、街の中心部の古い教会でパイプオルガンを弾かせてもらったり。こんな経験をさせてもらうなんて想像していませんでした。
お別れの際は、電話越しに涙ポロポロでした。

後から考えると、ピアノを弾けた縁もあったと思うんです。
人種がどうであれ、何らかの文化的な素養があれば、受け入れてくれる部分があったと思えて。
ヨーロッパでは何処の家でもピアノが置いてある。なんてワケでも無く。

自分の育った環境は裕福な家では無かったのですが、子供にピアノを習わせるのが母の夢だったそうです。(数日前に放映された「遥かなる山の呼び声」というドラマでも、裕福でもない家庭で子供がピアノを練習していて)
自分の三人兄弟は小学校の卒業式でピアノの伴奏をそれぞれしてきました。しかし、音楽のプロになったのは誰も居ません。
だいたい、母は習わしておきながらもその道に進めさせるのは否定的で。
安定した職業を望んでいた様子でした。少なくとも自分より二人の兄は音楽の素質もあり、その可能性は十分にあったのに。
何事にも一番出来の悪かった自分は、妙な場面で恩恵を頂いていた感でした。

話が戻るのですが、人種云々の差別があったとしても文化的な経験はそれらを覆す力があるのかと思っています。
「エレファント・マン」という見た目の障害を持った主人公の映画でも、主人公が人知れず聖書を唱える場面で流れが変わりました。(それまでは単なる見世物で、まさか教養があるとは思われていなかった)
高校生時代にショパンのノクターンを聴いてみたいと思っても自宅にはレコードが無く、FM放送で録音した演奏が衝撃的でもありました。

それは自分にとって理想の演奏でした。さりげない完璧な演奏の中に感情も僅かに伺えて。ノクターンらしいノクターンでした。
演奏されていたのはダン・タイ・ソンさん。ベトナムのハノイ出身のピアニストで、1980年にアジア人で初めてショパン国際ピアノコンクールで優勝されていたそうです。
後から知ったうろ覚えですが、ベトナム戦争中は音が漏れないような練習で相当苦労していたとか。(こちらの記事が詳しいです)
そんな酷い環境の中で育った音だなんて、演奏だけでは分からず。

日本人であっても、アジア人の出身地によっては甲乙つけてしまう場面は実際にあります。
ただ、自分の場合はこういった経験があったので、あくまでも本人次第です。
と、道徳的なお説教になってしまいました。

何より、先人が築いた日本の印象に感謝すべきですし、それを台無しにしてしまう様な振る舞いは残念だと思います。
文化面の経験による違いは日常茶飯事で、時として怒られてしまうこともあるのですが、その土地に合っていなかったのなら素直に謝る心構えも大切で。
海外に出る度に、ピアノをちゃんと練習しておくべきだったなぁとか、次回のためにも練習しておかなくちゃとか思いつつ、進歩の足りない自分です。
しかし、この文章を入力しているキーボードの手前には鍵盤楽器も備わっているのですが、かれこれ一ヶ月電源も入れていないなぁ。
ガァ

前田憲男さん

今夜見掛けたニュース記事で、前田憲男さんが他界されたとのこと。
ジャンル問わずの天才ピアニストでした。幸運にも自分は生演奏を経験していました。
(詳しくは過去の投稿によります)

メロディックでドラマティックで軽やかな演奏でした。
楽器をやっている人は、極端に上手い演奏を生で耳にしてしまうと、自分には無理だと思うこともしばしばです。
これはアマチュアでもプロでも同じらしく。
あの三越劇場でも、同じ衝撃が走りました。演奏の上手さと感動と、自分の出来の悪さと。

話が少し飛びます。
その無料で体験出来てしまった三越劇場でしたが、客席は半分くらい埋まっていた状況でした。
ホールは入り口から別次元で、古い扉や椅子等の内装なのですけれど磨かれていて気品に溢れていて。自分達以外のお客さんはほとんどがシルバー世代でフォーマルにキメていて。
多分、劇場の関係者も「音楽好きな若い子達いっぱい連れてらっしゃい!」なノリだったと思うんです。自分達は小汚い服を着たまだ青臭さ残った若造でした。
自分を誘ってくれた軽音関係者も、それぞれ受け持っている楽器の演奏に感動していました。
どうやったら、あんな演奏が出来るんだろう?と。それも軽々と。

更に話が飛びます。
思い出してみると、大学時代まではコンサートに行ける機会がそれなりにありました。
もう三十年近く前の話なので罪は無いと思いますが、ほぼ全てのコンサートは無料でした。
音楽仲間の伝手で突然誘われるパターンで。大体は「席を埋めたいから助けて!」って話で。
バブル時代だったのでロック以上にクラシックのコンサートも人気があったりでしたが、何かの手違いでチケットが大量に余ってしまうパターンもあったようです。
自分は夜間大学に通っていて、ほとんどのコンサートは夕刻に開演だったので、その度に天秤に載せていました。
今夜の講義は外しても大丈夫か等々。特に語学の講義は出席点がモノを言うと兄からも教わっていて。

マーラーの五番の生演奏は一度くらい聴いてみたかったものの、厳しい英語の講師だったので誘いを断っていて。
誘ってくれた友人は出欠だけ済まして教室を上手く抜け出していて。
しかし、その友人が講師からリーディングを指名されてしまい。
代返とは異なる次元、義理と人情で自分が「はい!」と立ち上がり、英文を読み上げることに。
しかし、この後自分がリーディングで指名されたら、誰か代理をしてくれるのかな?
かなりハラハラする残り時間でした。

ともかく、自分は若いうちに東京に出てきて良かったんだと思います。グレーゾーンな中で、持ちつ持たれつ貴重な機会が多くて。
高校時代から「今だったら許される!」と馬鹿な誘い合いばりでしたし、根性試しというか、大学でも延長線で周りを馬鹿に染めてしまった感で。
しかし、あの頃は面白かったなぁ。(じじい口調)

自分が前田さんの生演奏を経験したのは1990年頃だったかと思います。逆算すると当時の前田さんは五十代半ば。
自分も頑張らねばと思いつつ、素敵な演奏に改めて感謝しております。

ベアー・ハンター

ディアハンターをモジりました。熊ハンターについてです。
全くどうでも良い最近の話題です。

時々伺う最寄りのコンビニでは一ヶ月以上前からクマのプーさん関連のグッズがクジ引きで販売されています。
一等賞はプーさんのぬいぐるみ。サイズは30㎝くらいでしょうか。当初は三頭くらい飾られていた記憶です。(曖昧)
これが二頭になった頃にプーさんの存在を意識し始めました。
いま、どれくらいの確率で購入できるのであろうか?と。
レジの店員さんに聴いたところ、くじ引きは一回七百円くらいだそうです。
ついでに、現在の残りくじの数まで教えて頂けました。19枚くらいとの話でした。
うーん、もう少し様子見してみるかと。。

ちなみに、自分は元々クマのプーさん何てキャラクターも知らなかったんです。
四半世紀以上前の記憶に遡るのですが、山形からイトコの娘さんが上京してきまして、兄夫婦の部屋に泊まりに来ていて。
何でも、高校入学直前の春休みだったそうで。兄から職場に突然電話があり、お前も来いと。
数日後にディズニーランドへ行くらしく、お前もお供せよと。
そんなことを突然言われても、自分には予定がありました。当時はセキュリティー会社の現場で緊急対処員をしていて予定では数日間夜間勤務で。
ただ、この娘さんのことは赤ん坊の頃から存じていましたし、何よりもそのお父さん「和博おじさん」は当時母子家庭だった自分達三人兄弟にとって実の父親以上の存在でした。
和博おじさんにあれだけ世話になっておきながら、自分は何も出来ていなく、それは罪悪感に近く。

駄目元で、上司にスケジュールの変更を伺ってみました。当然、無理だとの回答。
しかし、二日ほど前になって許可を頂けてしまい。
ただ、直前は夜勤と日勤が続く状況で。休む間もない都心の緊急対処員の24時間勤務はかなりしんどく。
そんな生活を一年も続けていたので、自律神経も麻痺し始めていましたし、体内時計みたいなものも滅茶苦茶だったと思います。

24時間勤務を終えた自分は東京駅で兄夫婦と待ち合わせ。山形から新幹線経由でやってきた娘「チアキ」は、もうしっかり女の子してました。
母親似の綺麗さまで受け継いでいるなぁと、一安心。
兄夫婦の家ではまだ一応中学生だったチアキも交えて酒盛り。まぁ当時は緩かった時代ですし、陰で呑むより大人に付き合えって感じで。
その晩はゆっくり寝れました。

翌日のディズニーランドなのですが、溜まっていた疲れが全く抜けず。どのアトラクションも行列で、ちょっとベンチで寝かしてほしいと。
木陰のベンチを選んで、自分は午前中からひと眠り。戻ってきた兄達に起こされたのは夕刻も近かった頃でした。
「お前は何をしに来たんだよ!」と本気で兄に怒られる始末。「一目チアキに会いたかっただけ」とは答えられず、適当に謝った記憶です。
ここまでのところ、結局寝場所に選んだだけでした。

とりあえず、並ばずに済むアトラクションに着いていきました。
プリマハムが提供のカンカンダンスみたいな劇場、これがなかなか面白かったです。やはり、生の演劇というのは素晴らしいなぁと。
その後に観れたのは夜の仮装行列みたいなので。キラキラ華やかな行列とド派手な音楽と。
これだけを観にきた自分は実際馬鹿だったと思います。でも、チアキに会えたからいいんです。

チアキには冗談がほぼ通用せず、怒られてばかりでした。
何処かの家族連れのお父ちゃんが某芸人みたいな顔で「間寛平みたいな面してやがんなぁ」とボソっと漏らすと「そんなこと言っちゃダメ」と。
兄のお嫁さんにはえらくウケていたのですが。。
帰り際にお土産屋さんへ寄ったんです。

SUKIYAKI:おぅチアキ、好きなキャラクター教えてくれ。
チアキ:クマのプーさん。
SUKIYAKI:あの黄色い奴か?
チアキ:そう。

この黄色いクマの何処が良いのか自分は分からずでしたが、ボコボコしていて抱き心地は良さそうでした。
とりあえず、一番でかいぬいぐるみをレジに持って行こうとしたのですが、これは何故か売り物では無かったそうで。
売り物で無いものを売り場に置くのが理解できず、幾らなら売ってくれるのか?と聴いても売り物じゃないと。
自分にだって見栄はあるのです。「幾らでも構わないから買わせろ」とまで言ったところでチアキに止められました。
十万円未満なら痛くも痒くもなく、これはこれで良い思い出になるではないか。と心の中で思っていたのですが。

結局、二番目に大きな黄色い奴を入手。一万円もしなかった記憶です。(十頭くらい買っちまえば良かったと後から後悔したり)
それでも持って帰るのは大変そうだったので、宅急便で送ることに。
山形で待っていたアキコおばちゃんはその荷物に驚いたそうです。でも、嬉しかったとも。

話を戻します。コンビニのクマについてです。
最後の一頭はラストチャンスだとかで、最後のクジを引いた人向けらしいのです。セコい商売です。
こんなのクジじゃないじゃんかよ。
この一週間は、コンビニに伺う度に残りのクジの数を聴いているのですが、ほとんど減っていないそうです。
この段階で買うのは、確率以前にルールを分かっていない人かと。何も考えずにコレ欲しいで。
ともかく、しぶとくレジの横に並ぶ中途半端な大きさのクマよ。
あの時は十万円でも等身大に近いクマを求めようかと思ったが、こんな小さな奴に一万円以上出せるもんか。