国際人の前に文化人

ニュース記事の一覧を斜め読みしていたところ、オーストラリアでの人種差別の記事が。
家を買ったり部屋を借りたりする際にアジア人は差別を受けやすいとの内容でした。
多かれ少なかれ、どの国でもあることでしょうし、日本でも全くないワケではありません。
自分も似たような経験はしていますし。

ただ、日本人はアジア人の中でも別格だったとも思っています。
特に二十年近く前にヨーロッパで三ヵ月滞在した際には、日本人だから助かったような部分もあって。
右寄りのネット民は日本の美談を語りがちなのですけれど、実体験でもそんなことが実際にありました。

まず、ヨーロッパでは日本の工業製品が溢れていますし、テレビCMも実際に多く。
日本では中型以上のバイクのCMが基本的に流せられない様ですが、現地では日本製のバイクのCMもけっこう多かったです。(文化の違いとか国のルールの違いをかなり感じた一面でもありました)
それも、精密で信頼性の高い製品を前面に押し出したCMでした。日本の場合は70年代くらいに大き目なバイクの事故が多発したらしく、CMについても自主規制のようなものが未だ続いている様子です。
あと、偶然だったのかも知れませんが、日本の文化的なテレビ番組も多く。盆栽の手入れの仕方とか大相撲のダイジェストなんてのも放映されていて。(自分の訪れた2000年は日蘭交流400周年だったので、これはたまたまだったのかも知れません)
しかし、盆栽を扱うお店は街の中心街にもあったり、日本以上に日本らしいなぁとか思えたりな場面でもありました。
あと、日本のアニメ番組も多かったです。ポケモンなんて日本でちゃんと観たこと無くて、初めてちゃんと観たのがオランダででした。

ともかく、日本に対しての敬意みたいなのは少なからずあったのかと思います。工業製品に限らず文化面にしても。
じゃぁ、そういったハードウエアやソフトウエア以外に人種としての日本人はどうだったかというと、現地の皆さんと同等な扱いだった感です。
自分は仕事で行ったので、職場の皆さんは自分が日本人だと最初から疑う余地も無かったですし、親切でフレンドリーな接し方でした。
職場の皆さんは似たような世代の方々が多かったですが、基本的に冗談が好きでしたし、職場でノリの良い音楽が流れたりすると歌ったり踊ったりが始まって。
自分はこんなノリが元々好きなので、一緒になって馬鹿をやったりで。

ヨーロッパに滞在した拠点はオランダの現地工場近くでした。オランダの中でもかなり田舎な土地で「フランダースの犬」に登場したような風景がそこら中に残っていて。(あの作品はベルギーなのですけれど、自分の滞在先はベルギーアで僅かな距離で、文化的には近いものがあったようです)
定宿にしていた場所は当時自分がお世話になっていた会社の社長の親族(社長の弟さん)が営むペンションでした。ソコソコな広さで、なかなか快適な部屋でした。
そのペンションの敷地にはちょっとしたレストランもあったり、そのレストランにはグランドピアノが置いてあったり。

滞在初日にペンションのオーナーと挨拶した際が、そのレストランでした。何よりも最初に目に飛び込んだのがピアノ。
何処のメーカーのピアノかな?と覗き込んだところ、YAMAHAでした。
触れてみて良いですか?と聞いてみたところ、勿論ですと。
人差し指一本だけでCのキーを押さえてみると、一音だけでも素敵な響き。お気に入りの短いフレーズを弾いてみても素敵な響き。各鍵盤のタッチも音も完璧です。調律はちゃんとされていました。
そこでショパンの代表的な曲を弾いてみたところ、四小節目辺りでミスタッチ。そのまま終了。
しかし、レストランに居たウエートレスさんが残りのフレーズをハミングしてくれて。

これが、何だか感動だったんです。
お互い知っていた「別れの曲」でした。「指が忘れてしまいました。ごめんなさい」と簡単な英語でお返し。
たどたどしい片言英語しか使えなかった初日の自分でしたが、音楽というものは、それ以上の何かがあるんだなぁと。
ペンションのオーナーは地域で古くから伝わる音楽の継承者でもあったらしく、それから意気投合する場面も幾度か。
帰国直前には、自分もちゃんと弾けるようになっていて、お世話になった恩返しもやっと出来たかと。
地域の文化的な場所をプライベートで沢山体験させて頂けたりだったもので。
馬に触れさせてもらったり、名所に連れて行って貰ったり、街の中心部の古い教会でパイプオルガンを弾かせてもらったり。こんな経験をさせてもらうなんて想像していませんでした。
お別れの際は、電話越しに涙ポロポロでした。

後から考えると、ピアノを弾けた縁もあったと思うんです。
人種がどうであれ、何らかの文化的な素養があれば、受け入れてくれる部分があったと思えて。
ヨーロッパでは何処の家でもピアノが置いてある。なんてワケでも無く。

自分の育った環境は裕福な家では無かったのですが、子供にピアノを習わせるのが母の夢だったそうです。(数日前に放映された「遥かなる山の呼び声」というドラマでも、裕福でもない家庭で子供がピアノを練習していて)
自分の三人兄弟は小学校の卒業式でピアノの伴奏をそれぞれしてきました。しかし、音楽のプロになったのは誰も居ません。
だいたい、母は習わしておきながらもその道に進めさせるのは否定的で。
安定した職業を望んでいた様子でした。少なくとも自分より二人の兄は音楽の素質もあり、その可能性は十分にあったのに。
何事にも一番出来の悪かった自分は、妙な場面で恩恵を頂いていた感でした。

話が戻るのですが、人種云々の差別があったとしても文化的な経験はそれらを覆す力があるのかと思っています。
「エレファント・マン」という見た目の障害を持った主人公の映画でも、主人公が人知れず聖書を唱える場面で流れが変わりました。(それまでは単なる見世物で、まさか教養があるとは思われていなかった)
高校生時代にショパンのノクターンを聴いてみたいと思っても自宅にはレコードが無く、FM放送で録音した演奏が衝撃的でもありました。

それは自分にとって理想の演奏でした。さりげない完璧な演奏の中に感情も僅かに伺えて。ノクターンらしいノクターンでした。
演奏されていたのはダン・タイ・ソンさん。ベトナムのハノイ出身のピアニストで、1980年にアジア人で初めてショパン国際ピアノコンクールで優勝されていたそうです。
後から知ったうろ覚えですが、ベトナム戦争中は音が漏れないような練習で相当苦労していたとか。(こちらの記事が詳しいです)
そんな酷い環境の中で育った音だなんて、演奏だけでは分からず。

日本人であっても、アジア人の出身地によっては甲乙つけてしまう場面は実際にあります。
ただ、自分の場合はこういった経験があったので、あくまでも本人次第です。
と、道徳的なお説教になってしまいました。

何より、先人が築いた日本の印象に感謝すべきですし、それを台無しにしてしまう様な振る舞いは残念だと思います。
文化面の経験による違いは日常茶飯事で、時として怒られてしまうこともあるのですが、その土地に合っていなかったのなら素直に謝る心構えも大切で。
海外に出る度に、ピアノをちゃんと練習しておくべきだったなぁとか、次回のためにも練習しておかなくちゃとか思いつつ、進歩の足りない自分です。
しかし、この文章を入力しているキーボードの手前には鍵盤楽器も備わっているのですが、かれこれ一ヶ月電源も入れていないなぁ。
ガァ

前田憲男さん

今夜見掛けたニュース記事で、前田憲男さんが他界されたとのこと。
ジャンル問わずの天才ピアニストでした。幸運にも自分は生演奏を経験していました。
(詳しくは過去の投稿によります)

メロディックでドラマティックで軽やかな演奏でした。
楽器をやっている人は、極端に上手い演奏を生で耳にしてしまうと、自分には無理だと思うこともしばしばです。
これはアマチュアでもプロでも同じらしく。
あの三越劇場でも、同じ衝撃が走りました。演奏の上手さと感動と、自分の出来の悪さと。

話が少し飛びます。
その無料で体験出来てしまった三越劇場でしたが、客席は半分くらい埋まっていた状況でした。
ホールは入り口から別次元で、古い扉や椅子等の内装なのですけれど磨かれていて気品に溢れていて。自分達以外のお客さんはほとんどがシルバー世代でフォーマルにキメていて。
多分、劇場の関係者も「音楽好きな若い子達いっぱい連れてらっしゃい!」なノリだったと思うんです。自分達は小汚い服を着たまだ青臭さ残った若造でした。
自分を誘ってくれた軽音関係者も、それぞれ受け持っている楽器の演奏に感動していました。
どうやったら、あんな演奏が出来るんだろう?と。それも軽々と。

更に話が飛びます。
思い出してみると、大学時代まではコンサートに行ける機会がそれなりにありました。
もう三十年近く前の話なので罪は無いと思いますが、ほぼ全てのコンサートは無料でした。
音楽仲間の伝手で突然誘われるパターンで。大体は「席を埋めたいから助けて!」って話で。
バブル時代だったのでロック以上にクラシックのコンサートも人気があったりでしたが、何かの手違いでチケットが大量に余ってしまうパターンもあったようです。
自分は夜間大学に通っていて、ほとんどのコンサートは夕刻に開演だったので、その度に天秤に載せていました。
今夜の講義は外しても大丈夫か等々。特に語学の講義は出席点がモノを言うと兄からも教わっていて。

マーラーの五番の生演奏は一度くらい聴いてみたかったものの、厳しい英語の講師だったので誘いを断っていて。
誘ってくれた友人は出欠だけ済まして教室を上手く抜け出していて。
しかし、その友人が講師からリーディングを指名されてしまい。
代返とは異なる次元、義理と人情で自分が「はい!」と立ち上がり、英文を読み上げることに。
しかし、この後自分がリーディングで指名されたら、誰か代理をしてくれるのかな?
かなりハラハラする残り時間でした。

ともかく、自分は若いうちに東京に出てきて良かったんだと思います。グレーゾーンな中で、持ちつ持たれつ貴重な機会が多くて。
高校時代から「今だったら許される!」と馬鹿な誘い合いばりでしたし、根性試しというか、大学でも延長線で周りを馬鹿に染めてしまった感で。
しかし、あの頃は面白かったなぁ。(じじい口調)

自分が前田さんの生演奏を経験したのは1990年頃だったかと思います。逆算すると当時の前田さんは五十代半ば。
自分も頑張らねばと思いつつ、素敵な演奏に改めて感謝しております。

ベアー・ハンター

ディアハンターをモジりました。熊ハンターについてです。
全くどうでも良い最近の話題です。

時々伺う最寄りのコンビニでは一ヶ月以上前からクマのプーさん関連のグッズがクジ引きで販売されています。
一等賞はプーさんのぬいぐるみ。サイズは30㎝くらいでしょうか。当初は三頭くらい飾られていた記憶です。(曖昧)
これが二頭になった頃にプーさんの存在を意識し始めました。
いま、どれくらいの確率で購入できるのであろうか?と。
レジの店員さんに聴いたところ、くじ引きは一回七百円くらいだそうです。
ついでに、現在の残りくじの数まで教えて頂けました。19枚くらいとの話でした。
うーん、もう少し様子見してみるかと。。

ちなみに、自分は元々クマのプーさん何てキャラクターも知らなかったんです。
四半世紀以上前の記憶に遡るのですが、山形からイトコの娘さんが上京してきまして、兄夫婦の部屋に泊まりに来ていて。
何でも、高校入学直前の春休みだったそうで。兄から職場に突然電話があり、お前も来いと。
数日後にディズニーランドへ行くらしく、お前もお供せよと。
そんなことを突然言われても、自分には予定がありました。当時はセキュリティー会社の現場で緊急対処員をしていて予定では数日間夜間勤務で。
ただ、この娘さんのことは赤ん坊の頃から存じていましたし、何よりもそのお父さん「和博おじさん」は当時母子家庭だった自分達三人兄弟にとって実の父親以上の存在でした。
和博おじさんにあれだけ世話になっておきながら、自分は何も出来ていなく、それは罪悪感に近く。

駄目元で、上司にスケジュールの変更を伺ってみました。当然、無理だとの回答。
しかし、二日ほど前になって許可を頂けてしまい。
ただ、直前は夜勤と日勤が続く状況で。休む間もない都心の緊急対処員の24時間勤務はかなりしんどく。
そんな生活を一年も続けていたので、自律神経も麻痺し始めていましたし、体内時計みたいなものも滅茶苦茶だったと思います。

24時間勤務を終えた自分は東京駅で兄夫婦と待ち合わせ。山形から新幹線経由でやってきた娘「チアキ」は、もうしっかり女の子してました。
母親似の綺麗さまで受け継いでいるなぁと、一安心。
兄夫婦の家ではまだ一応中学生だったチアキも交えて酒盛り。まぁ当時は緩かった時代ですし、陰で呑むより大人に付き合えって感じで。
その晩はゆっくり寝れました。

翌日のディズニーランドなのですが、溜まっていた疲れが全く抜けず。どのアトラクションも行列で、ちょっとベンチで寝かしてほしいと。
木陰のベンチを選んで、自分は午前中からひと眠り。戻ってきた兄達に起こされたのは夕刻も近かった頃でした。
「お前は何をしに来たんだよ!」と本気で兄に怒られる始末。「一目チアキに会いたかっただけ」とは答えられず、適当に謝った記憶です。
ここまでのところ、結局寝場所に選んだだけでした。

とりあえず、並ばずに済むアトラクションに着いていきました。
プリマハムが提供のカンカンダンスみたいな劇場、これがなかなか面白かったです。やはり、生の演劇というのは素晴らしいなぁと。
その後に観れたのは夜の仮装行列みたいなので。キラキラ華やかな行列とド派手な音楽と。
これだけを観にきた自分は実際馬鹿だったと思います。でも、チアキに会えたからいいんです。

チアキには冗談がほぼ通用せず、怒られてばかりでした。
何処かの家族連れのお父ちゃんが某芸人みたいな顔で「間寛平みたいな面してやがんなぁ」とボソっと漏らすと「そんなこと言っちゃダメ」と。
兄のお嫁さんにはえらくウケていたのですが。。
帰り際にお土産屋さんへ寄ったんです。

SUKIYAKI:おぅチアキ、好きなキャラクター教えてくれ。
チアキ:クマのプーさん。
SUKIYAKI:あの黄色い奴か?
チアキ:そう。

この黄色いクマの何処が良いのか自分は分からずでしたが、ボコボコしていて抱き心地は良さそうでした。
とりあえず、一番でかいぬいぐるみをレジに持って行こうとしたのですが、これは何故か売り物では無かったそうで。
売り物で無いものを売り場に置くのが理解できず、幾らなら売ってくれるのか?と聴いても売り物じゃないと。
自分にだって見栄はあるのです。「幾らでも構わないから買わせろ」とまで言ったところでチアキに止められました。
十万円未満なら痛くも痒くもなく、これはこれで良い思い出になるではないか。と心の中で思っていたのですが。

結局、二番目に大きな黄色い奴を入手。一万円もしなかった記憶です。(十頭くらい買っちまえば良かったと後から後悔したり)
それでも持って帰るのは大変そうだったので、宅急便で送ることに。
山形で待っていたアキコおばちゃんはその荷物に驚いたそうです。でも、嬉しかったとも。

話を戻します。コンビニのクマについてです。
最後の一頭はラストチャンスだとかで、最後のクジを引いた人向けらしいのです。セコい商売です。
こんなのクジじゃないじゃんかよ。
この一週間は、コンビニに伺う度に残りのクジの数を聴いているのですが、ほとんど減っていないそうです。
この段階で買うのは、確率以前にルールを分かっていない人かと。何も考えずにコレ欲しいで。
ともかく、しぶとくレジの横に並ぶ中途半端な大きさのクマよ。
あの時は十万円でも等身大に近いクマを求めようかと思ったが、こんな小さな奴に一万円以上出せるもんか。

識字率

歴史ものの番組をぼんやり見ていたら、江戸時代以前の手書き文章はかなりの達筆で自分はぜんぜん読めないなぁと。
そこでWikiの識字率をちと確かめたり。まぁ達筆と活字ではまた次元が異なるとは思いつつ。

日本は昔から識字率が高いと何となく知っていました。
ただ、それも明治以降の教育で最低限広まった部分でもあるようで。
そこで話が飛びます。

自分は元々漢字の書き取りが苦手です。未だにその傾向は残っていますし、特にパソコンを使うようになってからは酷い状況です。
鍵盤楽器も触れていなければ指が曲を忘れてしまう様に、計算もペンを持たねば出来なくなってしまう様に、漢字も似たようなものかと。使っていれば指が勝手に動くもので。
中学三年の春に母の再婚と引越しを伴い北海道へ渡った際は、かなり困った場面に遭遇していました。
数学や理科は何故か得意だった自分、転校後の最初の試験は数学で。
回答自体はスラスラ出来たのですが、新しい自分の苗字が答案用紙に綴れず。

これは非常に困りました。
答案用紙の回答を見直しているうちに新しい苗字が漢字で綴れるかなぁと一周見直しても、やはり閃かず(ひらめかず)。
恥ずかしい状況で答案用紙を引っ繰り返し、提出した記憶です。
どうやってその場を片付けたのかは自分もハッキリ覚えておらず。
名前欄を空白にしたのかなぁと思っているのですが。まさか平仮名では出さなかったとも思えるし。

だいたい、転入生の最初の試験など先生も同級生も気にしていたとは思うんです。
ただ、職員室には自分からお詫びに行った記憶が僅かに残っています。
ちと忘れかけていた思い出でした。

閃き

閃き(ひらめき)についてです。今回はかなりつまらない文章です。
社会人になって最初の仕事で自分は七年ほど会社の寮で暮らしていました。

140人も収容出来る新築の寮には同期や同僚が何人も暮らしていて、夜になると誰かしらビールを片手に部屋に遊びに。(逆のパターンもあり)
3つ隣の部屋に居たM君とは特に夜の付き合いが多かったです。九州出身のM君はまさしく九州男児な豪快な男でしたが、勉強家な一面も持っていました。
運動系が全く興味なく飲み食いばかりのM君の趣味というと読書とパソコン。パソコンについては何故か良く分かりませんが当時のAppleの新製品をよく購入していて。
他にも読書の趣味では「この本を読んでみろよ」と司馬遼太郎の「街道をゆく」を紹介されたり「竜馬がゆく」を紹介されたり。
竜馬がゆくについては八冊あり、二巻目辺りでハマってしまった自分は全巻揃えることに。他にも、エロ本とか色々借りました。

結果的に政治経済にも強かったM君でしたが、お金の管理が不得意というかギャンブラー的な投資をしていたようで、常に借金を抱えていて。
自分も貸したお金がなかなか返ってこなかったことがあったり。最終的にM君は自己破産で会社を追われ、夜逃げしています。
セキュリティー系の会社だったので、サラ金の借り入れは懲罰対象だったのですけれど、実際はバレても多めにみてもらえることが多かったです。
しかし、サラ金も雪だるまになると会社の電話の回線がパンクします。取り立ての電話が頻繁に鳴り、その部署の業務が停止に近い状況に追い込まれたりで。
M君の職場もその状況に陥ったようで、追放された流れでした。

M君の失踪時は色々と伝手を頼りに探す日々でした。以前の同僚であったり、同じ大学の出身者であったり。
同じ大学の出身者が同期に居たのですけれど、自分はぜんぜん面識が無くて。初めて会話したのがM君の行方の件で。
その同期も行方を知らなかったのですが、M君は大学時代にも投資で破産していたそうです。自分達の世代の卒業間近は丁度バブルが弾けた頃でもありました。
何と、今回は二度目の破産。卒業間近のM君は一時期行方不明になり、借金は個人事業主だった親御さんが肩代わりしたとか。
そんな話は全然知りませんでした。

自分は親しい相手ほど都合の悪かった過去を語りがちでした。M君はどうにも色々と隠し事が多かったのかなぁと。
ぜんぜん知らない相手だったら、単なるどうしようもない奴なのでしょうけれど、色々と教えてもらったり楽しかった思い出も自分には多く。
ともかく、数週間かけて居所を探していました。
ご実家の宮崎県に電話した際は、M君のお袋さんの愚痴を二時間以上ひたすら聴かされたりも。

M君はソコソコ資産のある家で育ったらしく、中学時代から私立の学校に通っていたそうです。成績は優秀だったそうで。
九州大学を目指していたそうですが、結果は二浪で都内の中堅の私立に入学していて。お袋さんはM君の将来のために溜めていたお金を一度目の破産で使い切ったそうで。
お袋さんは二度目の事態で、もう勘当の準備があると。何処かで野垂れ死ねば良いんだと。
そうは言っても実の息子で手塩に掛けた長男で、心裏腹な部分もきっとあるに違いないだろうと。

なかなか見つからないM君のことを思い出す日々でした。
M君の話題で面白かったのは「どんな奴でも一度くらいは閃くタイミングがあるんだ。それで勉強のツボが分かったりするんだ。それが無い奴は馬鹿」でした。
確かにその通りでした。自分も高校受験や大学受験の勉強でチマチマ時間を掛けても効率悪かった期間があって。ある時突然何かに閃いてバラバラだった点が線で繋がって。
まぁ自分の場合は受験までの数ヵ月程度の苦戦でしかありませんでした。しかし、世の中にはガリベンなのに全く出来ない奴というのが実際に居ました。
丁寧にノートを取ったり、辞書にマーカーを塗ったり。余程出来る奴かと思ったら成績が全然悪く「嘘だろ?」と驚かされたり。
自分と言えば、教科書に落書きとか重要箇所のチェックを入れる程度。ガリベン君は特に興味や趣味が無く、ひたすら勉強するのみ。
友達も居なく、何が楽しくて生きているのかなぁと思える輩で。修学旅行では好きなグループを組む必要があったのですが、誰にも受け入れられず気の毒だから自分のグループに入れてあげたり。
大体は親が資産家で、塾に通ったり家庭教師まで着けていて。それでもあの効率の悪さ。
何らかの必死さが足りなかったのかなぁとか思っていたのですが、M君の言う閃きがあったかどうかの違いなのかなと。
学生時代の自分はお金が無かったものの、趣味と自由はあったので許される範囲で好き勝手やらせてもらっていました。あの歳だったから許されたことも多くて。あの歳だったから楽しかったことも。
空回りの勉強だけのガリベン君がいま何処でどうしているのか分かりませんが、どんな思い出が残っているのであろうか。

自分はつまらない人と付き合うのも苦手で、そんな繋がりと無駄な時間を過ごすのは勿体なくて。結果的に同期の一部からは「付き合いの悪い奴」というレッテルを貼られていました。
まぁ、その方が自分には都合よかったです。一々説明する手間も省けて。だいたいは無駄なお酒の誘いばかりでしたし。お酒は嫌いではないけれど、一緒に居る連中が重要で。
あと、身内でアル中になるのが多かったので、自分は控えるように意識もしていました。これは未だにそうです。(なので、その後も付き合いの悪い奴なレッテルに変わりなし)
そんな自分がM君のことを探し回っているのは同期も意外だったようです。人嫌い程度に思われていたのかも知れず。
普段付き合いの良かったM君は、結局自分以外の誰からも見放された状況でした。どうにも薄っぺらい付き合いだったのかな。

ある日、M君の滞在先の連絡がありました。職場の先輩の家に転がり込んでいるそうで。慌てて系列会社の職場に電話してみました。
確かに自宅に転がり込んでいるそうでした。一週間以上滞在しているそうですが、食事と酒と小遣いを求められてばかりで困っていると。
人の好い先輩だったそうですが、やはり一週間も居候されては扱いに困る様です。まして金に困った奴を平日日中に家に置いておくなんて、何されてしまうか分かりません。
「週末にMを実家に送り届けるので、うちの寮までの切符を渡してほしい」。

M君の実家にも電話しました。ともかく引き取ってほしい旨伝えました。東京に奴が居ても周りに迷惑が掛かるだけだからと。
世話になった先輩へのお礼のお金と、片道切符だけ送ってほしいと。羽田のゲートまでは自分が送り届けるから、宮崎のゲートで待っていてほしいと。
そうしないと奴はまた逃げ出すからと。この電話でもお袋さんから二時間以上愚痴を聴いたのですが、最後は折れてくれました。
奴に現金を渡すとパチンコの玉に消えるか本人が何処かに消えるかで。

M君は約束の時間に自分の寮の玄関に来てくれました。奴が時間を守るのは初めてだったかも知れず。だいたい、いつも自分は奴を朝起こす係みたいなものでしたし。
言いたいことは山ほどありました。
 SUKIYAKI:よく来てくれた。
 M:すまん。
 SUKIYAKI:羽田に行くぞ。

羽田までの首都高は会話が少なかったかも知れず。
行方不明中、奴は日光の華厳の滝まで行っていたそう。しかし、飛び込む勇気も無く、ぽっくり逝けたらなぁと考えていたそうで。
奴が夜逃げした噂は知れ渡っていたし、よくもまぁ一週間以上そんなお前を泊めてくれた人が居たもんだと笑ったり。だいたい、M君の足の臭さは自分が一番良く知っていて。
奴が言うには仕事も探していたそうなのですが、一旦リセットしないことには上手く行くと思えず。
宮崎に帰る手配は俺が勝手にしたことだし、それで上手く行かなくても俺以外恨むなよと。

羽田の出発ゲートで、固い握手をして最後のお別れ。
お袋さんにちゃんと謝れよ。
奴には珍しく「ありがとう」と。

まだ抱えているだろう多額の借金については、その後またお袋さんが片付けてくれたらしく。宮崎の到着ゲートで待っていたお袋さんからは再会早々その場で思い切り引っ叩かれたとか。
その後、大晦日にM君から電話があったりしました。お袋さんに尻叩かれて電話したと。
何だかやはり憎めない奴なんだよなぁ。

ドアサイド

高校時代の同級生H君は一風変わっていたからか、周りから馬鹿にされてしまう場面が多かった記憶です。
だいたい、理系科目が全く不得意なのに何故に理系に来たのか。当然ながらH君の成績もパッとせず。
ただ、自分にとっては何故か親近感のわく男でした。
お互い乗り物や音楽が好みだったのもあるのですが、不器用な点が一致していたのかも知れず。

しかし、高校卒業時にH君は何故か地元のソコソコの大学に複数合格していて。
地元の私立大の理系は授業料が高い割にレベルは低く、自分は全く魅力を感じていなかったのですが、H君は文系の大学しか受験しておらず。
(数年後の大学卒業時、H君は国家公務員の二種や会計関連の公務員試験に合格していて、文系脳は強かった様子)

自分は都内の私立の夜間大学に進み、昼間は働きつつ、過密なスケジュールを何とかやり繰りしつつ、せめて夏ぐらいは地元に帰ろうと。
自分は実家に何の連絡もせず突然帰省するようなドラ息子だったとも思えます。
自分は実家と仲が悪く、友人達との再会が楽しみなだけの帰省でした。
そんな自分でしたので、実家に帰っても喧嘩になってしまう場面が多く。
まぁ、招かざる客の一人だったかも知れません。

大学時代のH君は自動車部に所属していたらしく、地元の空港で荷物を扱うアルバイトに励みつつ稼いだお金は車の改造と燃料代に消えていた様子。
自分が帰省すると、アルバイトを終えたH君はドライブに誘いに来る場面が多く。
帰省していた同級生達や浪人生達と一緒に名所を巡っては、馬鹿な事ばかり楽しんでいました。今なら許されるだろうという人様に迷惑掛けない範囲の確信犯。
しかし、アルバイトに励み過ぎのH君は深夜の運転で居眠りしてしまう場面が多く、タイヤが縁石にぶつかり跳ね返された場面も幾度か。
なので、H君の運転中はなるべく会話が途切れないようにしていました。

東京で暮らしていた自分の部屋には、受験で訪れる友人や旅行で立ち寄る友人が何人も居ました。
北海道の友人達の現状報告も聴けたりして。
 浪人生:Hの奴、また車潰したらしいぜ。支笏湖に向かう何てことない直線でレビンを引っ繰り返したんだってさ。
 SUKIYAKI:大丈夫だったの?
 浪人生:それがさ、一緒に乗ってた奴から聴いたんだけど、Hの一言がおかしくてさ。
 SSUKIYAKI:何て?
 浪人生:またやっちまった。。

まぁ、全員無事だったからもありますが、大笑いでした。
奴は既に三台つぶしていた記憶です。どんどんボロい車に変身していました。
見た目は大衆車でしたが、お金の掛からない範囲で色々とラリー仕様にしていたらしく。
当時はバブル時代の真っ盛りで、H君のやっていることは真逆。軽い車体にパワフルな2000㏄のエンジンを積んでいるとはいえ、古臭いカローラに魅力を感じる乙女は居ないだろうになぁと。

大学卒業の年まで四輪の免許を所有していなかった自分は、とりあえず二輪の運転にだけは高校時代から慣れていて、帰省時にH君から「運転してみるか?」と聞かれたことも。
深夜に対向車のないど田舎の直線、街灯だけは明るく。試しに運転席へ。
発進は出来たもののこれが真っ直ぐ進まず、ハンドルを切り返しの繰り返しは蛇行運転でしかなく。ギアーチェンジも上手く決まらず、百メートルくらいで諦めることに。
んな「一速で回すな!」とか言われてもなぁ。ともかく、四輪は真っ直ぐ走らせるのも大変なんだなぁと。

余談ですが、そんな経験もあって数年後の教習所では実技が心配でした。最初はオートマでの実技。これが全く問題無く運転出来て。
H君のあの車はいったい何だったのか?
どうにもラリー仕様の車は簡単に曲がれる特性らしく、逆に直進させるのが大変らしく。そんなもんのハンドルを握らせたH君は危機管理がなっていないよなぁと。

話は戻ります。ともかく、帰省時の自分は養父と喧嘩ばかりで。
実家で険悪なムードの夜ほど、H君はドライブに誘ってくれて助かってはいました。自分の愚痴も沢山聴いてもらえて。
大学時代の帰省は長くても一週間くらい。東京に戻って学費と生活費を稼がなくてはならなかったですし、そんなに長いお休みも職場で頂けず。

H君は東京に戻る自分を空港まで送ってくれたことも。
その車の中で妙な会話がありました。
 H君:空港で荷物預ける時「ドアサイドで」って頼むと東京で最初に荷物が届くから使ってみろよ。
 SUKIYAKI:でもお金お金掛かるんじゃないの?
 H君:本来は高いシートのお客さん専用なんだけど、大丈夫。
 SUIYAKI:そんなに急いでいないし、無理言う必要も無いよ。
 H君:いいから一度使ってみろって。

自分の乗る便まで尋ねられて、ぶっきらぼうな奴にしては何でそんなどうでも良いことに拘ったんだろうなぁと東京へ。
羽田のベルトコンベアでは確かに先頭辺りで「ドアサイド」の札の付いた荷物が登場しました。世の中にはこんなサービスがあるんだなぁと。
でも、朝一の飛行機に乗った自分は午前中の到着でしたし、午後からの予定も無く滅多に使わない空港で少しくらい待たされるのも悪くなかったのに。
空港の雰囲気も好きでしたし。

自宅へ戻った自分はお土産の紙袋以外、帰省に使った鞄はそのまま床に放置。
トラピストのバタークッキーは見た目が悪いものの、これは意外に美味しくサッサとみんなに配らなければ。

東京の現実は厳しく、また今日もやらかしたな日々に戻り。数日経った頃、必要に迫られ鞄の中身を片付け。
小汚い鞄の中身を床に放り出すと、鞄の小さなポケットが膨らんでいて。
チャックもボタンも無いこのポケット、荷物預ける前に空っぽにしたハズなのに。何入れたっけ?

ポケットから出てきたのは、旅客機のシートに必ず備わるゲロ袋。飛行機で酔ってしまった人がゲロを吐くための袋で、正式名称は知らず。
「なんじゃこりゃ?」とそのままゴミ箱へ投げ捨てる寸前、袋には殴り書きが。

『イーヅカ、元気でな!また来いよ!』

声を出して泣いてしまった。
お前って奴は..