千代田線

Twitterのトレンドに地下鉄サリン事件が。
1995年3月20日の事件、28年前の今日の出来事で。
あの日の自分は何処で何をやっていたのかパッと思い出せずで。
松本サリン事件や教祖逮捕の日は職場の小さなテレビ画面を眺めていた記憶が残っているのですが。

当時の自分は研究開発部門に所属していて、お昼休みの後半は広い実験室で同期達と馬鹿話をするのが楽しみで。
そんな日々でしたが、某宗教団体関連の事件は恐ろしく、ちょっと他人事でも無かったので真面目に語り合ったものです。
あの教団本部があった南青山は、自分の居た会社の契約先でもあり、現場時代の同期は幾度か対処したことがあったそうで。
あの様な大きな事件を起す少し前だったと思うのですが、怖い噂は既に広まっていた中での対処は、同期も気が重かったそうです。
無事に戻ってこれるのかな?と。
入信した子供を取り戻したい家族の問題くらいは既に世間を騒がせていましたし。

地下鉄サリン事件の舞台となった幾つかの路線は、自分も学生時代に毎朝利用していました。千代田線のあのルートは自分の通学時間とも重なっていて。霞が関の少し手前の新御茶ノ水までのルートでした。
事件が数年ズレていたら、自分も巻き込まれていたんだろうなぁと。
若しくは自分が何度か留年していたら、同様で。

前例の無い事件を幾つも起した団体、日本の治安レベルが何段階か落ちた感でもあります。
どうして日本で?とも思えてしまい。
学生運動が盛んだった時代は、左系の人が相当暴れていた様でしたが、誰の犯行なのか直ぐに判った事件が多かったと思います。得意げな犯行声明みたいなのがありましたし。
それが、あの団体の場合はしらばっくれていて。
誰が何のためにこんな大きな事件を起したのか、ハッキリするまでの期間は誰もが不安だったでしょう。
メディアでは薄々知れていた様ですが、敵に廻したら危険という風潮になっていて、某テレビ局も団体の圧力に屈し、結果的に被害者も出てしまったり。

たまたまですが、先週は某芸能事務所の闇な部分の対応についても、日本のメディアは弱腰の様です。
海外のメディアであるBBCは、その辺を含めて問題提起していました。
某芸能事務所のタレント達がどれだけ被害に遭ったのか存じませんが、お茶の間で見掛けるタレントの何割かは洗礼を受けてしまったのだか。
自分が若かった頃に売れっ子だったタレントも洗礼を受けたらしいとの噂は当時からありましたが、メディアでそれを観掛ける機会はほとんど無く。
売れ筋タレントを多く抱える芸能事務所の圧力や、それに対する忖度というのは計り知れずです。
ジャンルが異なりますが、某大手広告会社の社会的立場も相当凄そうで。あれだけ問題を起しても、大した扱いされませんし、罰を受けてもビクともせずで。
特に政府が大きなイベントを企画した際は、巨大なお金を預かる元請けになりがちで。民主主義国家の看板はいったいどうなっているのだか。(社会主義とか共産主義に近く)
上記の数々の問題は、ジャーナリズムがまともに機能していない国だからとも思えてしまい。
まぁ他人任せな自分の考えではあります。

話を少し戻して、千代田線での思い出は学生時代に幾つかありました。
自分の出身だった北海道の高校生は地元志向で、都内の大学に進学したのは現役ですと自分くらいで。
親の所得が限られた学生が多かったものの、自宅通学を選ばなかった学生も多かったですし、それでいて北海道から離れたがらない様子で。
ただ、東北や信越方面の国立大に進学した僅かな連中は、ツーリング先の宿として大活躍してくれました。
逆に都内の自分の部屋は、高校時代の友人にとって便利な無料の宿と化していて。

海外旅行の往復の途中とか、論文の発表とか、浪人組の受験の拠点とか、就職試験とか、単なる東京旅行とか。
いったい、何人泊めたのだか思い出せないくらいで。
まぁ持ちつ持たれつの関係でしたし、久し振りに会うのは話題も豊富で。
皆、田舎から出てきたものなので、東京の都会の大きさや人の多さに圧倒されていました。
自分の大学の同期も、ポンコツ車でドライブに誘い出してくれたり、お金は掛けられなかったものの、それなりに楽しんでもらっていた様です。

部屋に泊まった友人とのお別れは朝の千代田線になる場面が多く。
自分は夜間大学の学生で、昼は別の大学で働いていたので、朝一緒に部屋を出る流れでした。
当時の朝の千代田線は相当な混雑ぶりでした。大きな旅行鞄を抱えての乗車は慣れないと上手く行かなかったかと。それが東京での最後のイベントでもあったかと。
その辺は自分が上手く案内していて。始発の電車を少し待てば、何とかなりまして。

しかし、自分はお別れの場が下手でもあって。
あの満員電車で涙ぐんでしまったことも。
みんないい奴ばかりでした。

あの地震から丁度四年

昨日は久し振りに叔母に電話しました。
実家に訪れているそうでして、状況はどんなものかと聴いてみたく。
メッセンジャーではちょっと素っ気ないやり取りになりがちだったのですが、声を聴いたらとても元気そうでした。
もしかしたら、この一年で一番元気な声だったかも知れません。
母の認知症発覚から葬儀終了までは、お互い「どうしようどうしよう」な場面もあったり、最期の一ヶ月は覚悟を決めた叔母が母の看病に付きっ切りで。それも病院では無く実家で。

だいたい、母の認知症を疑った自分でしたが、叔母は当初母を庇っていて。もしかして自分は母も叔母も敵に廻してしまったのかと思いつつも、何か説得力のある根拠を示せないかなぁと。
母は特に親しい身内と喧嘩しがちだったものの、そんな母を叔母はずっと庇い続けていて。
母とのメッセージのスクリーンショットを添付して、やっと納得頂けた様子でした。こりゃ加齢に伴うボケの範囲じゃないですよネと。

そして、昨日は胆振東部地震が四年前に発生した日でもありました。
叔母との電話ではこの話題にならなかったのですが、あの地震では色々とドラマがありました。
これも何かの縁がある日なのかも知れず、想いは捨ててさっさと実家を手放しちゃった方が気楽かとも思えて。
自分も名残惜しい部分はあるのですが、それは身内誰もが一緒で。まして、一番大変な役を果たしているさなか。

数ヵ月前に実家方面の中古住宅の価格を検索したところ、何故か二件の売りしか無く。
地元のBBSを確認したところ、実際に売り物件が極端に少なく、価格も跳ね上がっているそうで。その二件も最安値時代の数倍になっていました。
そんなご時世で手放せられれば、結構納得の行く価格で手放せるかなと安心していたのですが。

叔母の話では、お盆過ぎから売り物件の案件が急に増えたらしく、住宅を扱う会社も忙しかった様子で。
正直「これくらいにしかならないのか」と思いつつ、電話の後にYahoo!の住宅検索をしたところ、相変わらず二件の売りのみ。
そこで、何年かぶりでSUMOという住宅の専門サイトで検索してみたところ、50件以上の売りが。全く母数が異なりましたし、数ヵ月前がどうだったのか謎で。
これだけ母数が揃っていると、妥当な価格も暗算出来ます。
叔母に話を持ってきた不動産屋さんの提示は、十分妥当にも思えました。かなり頑張ってくれていたんだなぁと。

冬が訪れたら引越しもリフォームも楽じゃない凍り付く地域ですし、タイミング的にも早くスッキリした方が良いのかと思えたりでした。
母もこんなに荷物を抱え込む前に、庭も荒れてしまう前に、ミニマムな部屋に引越しておけば良かったのに。
ほんと、後先考えていなかったよなぁと。
だから周りが放っておけなかったとも思えるのですが。

こんな場面で相変わらず運転手役を頑張ってくれている同い年の息子さんにも頭上がりません。仕事も生活も大変だというのに。
叔母も息子さんも重荷の一つをサッサと手放して、少しはお気楽に近付いてほしいです。
今回の電話でも理屈と情のハザマな場面があったりでしたが、理屈ばかりに頼らない部分に人を信じられる優しさを感じたりでした。
四十九日後もちょっとした騒動を残した母、その存在感は半分笑いのネタになりつつあります。

人間臭い感覚が好きって、昭和生まれまでにしか通用しないのかな。損得勘定じゃなくて、自分が納得出来るかで。
平成以降の世代には笑わてしまいそうですが、昭和レトロの片隅に置いて頂けたら。
「仕方ないなぁ」って感覚、誰にでも許せるもんじゃなくて。

再会

先月の母の葬儀で久し振りに再会した奈良の二人のイトコが相変わらず素晴らしかったです。
厳密にいうと二人の叔父になるのですが、この二人兄弟は自分の兄弟と同世代なもので、どうにも叔父さんとは言い難く。
実際は二人を下の名前で自分は呼んでいます。

初めてこの二人と会った記憶は、自分が幼稚園に入る前。
遠い親戚が亡くなられたそうで、神奈川で暮らす叔父の運転で奈良まで伺った際でした。
この時の二人の記憶がほとんど残っておらず、初めて触れる生の関西弁がちょと不思議だったくらいです。
上のTさんはとても物静かで勤勉な印象、下のKさんはちょっとヤンチャな印象でした。

次の再会はあれから二十年以上後の、奈良のお爺ちゃんの葬儀だった記憶です。
お爺ちゃんの子供がこの二人なので、やはり叔父と呼ぶべきなのですが。
自分からするとお婆ちゃんが早く亡くなり、再婚した女性から生まれた二人がこの叔父さんで。
この時もほとんど会話が出来ませんでした。父親が亡くなったショックもあったのでしょう。
ただ、いきなり立派な大人に変身した二人が不思議にも思えました。二人からしても自分はそうだったのかも知れません。

あの葬儀は当日の早朝に母から電話があり「あなたは来なさい」との命令口調でした。
別に命令されなくても行ったのですが。
現地で送迎役になれるかも知れず、車で向かったものの、この運転が眠い眠い。前日に新潟であった友人の披露宴には冗談半分で単車で行ったのが災いしました。
当時は大手企業の研究開発部門に所属していた自分です。急な休暇でちょっと迷惑を掛けてしまったのですが、各部署から幾つもの弔電が現地で読み上げられて驚いたりでした。
社員に厳しい会社だったものの、こんな場面では上手くやっているんだなぁと。

現地では暇を持て余し気味で、近くの美術館に母を連れて出掛けたり。
他の親族も誘ったのですが、長距離の移動でゆっくりしたかった様子です。
横山大観の繊細な筆遣いがなかなか新鮮な美術館でした。日本画も捨てたもんじゃ無いなぁと。母も珍しく喜んでいて。

その後も身内の冠婚葬祭で幾度か再会出来た二人。
特に兄の披露宴では夫婦漫才的な芸を披露してくれた二人の夫婦にサービス精神感じたり。
やはり、いい人達だったんだなぁと。

先月の葬儀で再会出来た二人は兄の披露宴以来だったので、二十年ぶりくらいでした。
参列者も少ない葬儀でしたので、お通夜の後は色々とお話が出来て。
二人とも仕事等が大変だったとは噂に聴いていました。しかし、助け合う兄弟とのこと。
落ち着いたお兄さんと、場を盛り上げようと冗談連発の弟さん。
この二人はFacebookで母とも繋がっていて、母の大したことない書込みにも毎度「いいね」を押していたんですよネ。
あの参列者の中で酒飲みは自分だけかと思っていたのですが、深夜まで付き合ってくれた二人でした。(途中自分は寝ていましたが)
お互い、五十代になってからやっと話が出来ました。これがまた不思議で。

集まった皆さんがまだ起きている時間の弟さんの話が色々と面白かったです。
自分にとってのお爺ちゃんは孫たちの前でいつも笑顔の優しい紳士で、自分も大好きだったから懐いていました。
しかし普段はとても厳しい人だったと母からは聴いていて。
奈良の二人にとっても、普段は厳しいお父さんだったらしいのですが、お茶目な部分もあったそうで。

細かい部分はお酒も入っていて忘れてしまったのですが、弟さんが若い頃に購入した原付バイク、これを陰で乗り回していたそうです。あのお爺ちゃんが。
ある夜、帰りの遅いお父さんを心配していたら、警察から電話があったそうで。
「お父さんを引取りに来てください」との話。なんでも、息子の原付を無免許で運転し、運悪く捕まってしまったそうです。

帰宅したお父さんはとても気まずい雰囲気の中、普段聴けない気の効いた話題を振ってくれたそうです。笑って許して感というか。
その無理している姿が二人には可笑しかったそうで。
戦前の教育とか戦争を経験した世代の男性は、厳格な方が多かったです。普段から姿勢を正しているというか。
そんな厳しいお父さんが孫の様な二人に救出されて決まりが悪い場面、何だか素敵だなぁと。
原付で無免許運転の老人を捕まえたお巡りさんも、それが大手生命保険会社関連の社長だった知って「なんじゃそりゃ」だったかと。
そんな話、いまだから出来るんだろうなぁと。

骨になった母を実家に連れて帰り、葬儀に集ってくれた身内も皆一緒に来てくれて。
葬儀そのものは「人前で泣いちゃいかん」と皆隠しがちだったかと。
ただ、それが片付いた後は実家の狭い居間で、やっと楽な世間話が出来て。これがまた素敵な時間でした。
みんな優しいもんだから、気の遣い合戦でもあり。
ドタバタだった葬儀、時々外で煙草を吸いに行くのは自分だけ。玄関に飾られていたささやかな花と置手紙にやっと気付けたり。それにまた泣けてしまったり。

なので、身内が順番に去ってしまう場面が、また寂しく。
いい大人になったハズの自分なのに涙でお別れの言葉にならず、大手を振ってお見送りすることしか出来ず。それしか芸も無く。
次に会えるのはいつなんだろうか。
「また会えるんだから」と言われたものの。

礼服

先月の葬儀で久し振りに着た礼服について。
二十代の中盤に一生モノとして奮発した礼服。
ブルックスブラザーズのそれは購入当初に大活躍してくれました。
同期の多い会社に居たので、披露宴の機会も多く。
ただ、当時は大人ぶってダブルにしてしまったのは間違いだったと少し後悔。
それを着ると太って見えてしまうそうで。

思い出せない程多くの披露宴に招かれたのですが、祝儀も見栄を張り人並み以上を繰り返していました。
ボーナスの多くは、それで失われたものです。
そして、自分は一度も披露宴など開いておらず、あれはドブに捨てた様なものかなぁとも。
まぁ世の中こんなもんで。

九年前、久し振りに呼ばれた披露宴は幼少期お世話になった叔父さんの娘さんが主人公。
この時点で、あの礼服は既に危うかった感です。
ウエスト周りがかなりキツく、腹筋を意識しないと厳しいズボン。
久し振りに履いた高価な靴はガチガチに固まっていて、結果的にピカピカの靴の方が問題になりました。
二次会の中華街を歩く途中、靴擦れで集団に着いていけなくなりまして。
一緒に歩いていた母より歩調が悪くなり。先頭を進む新婦の母に我が母がスピードダウンを促す始末で。
未だに自分は母から子ども扱いだなぁと、ちょっと悲しくなったりで。

そして、先月の葬儀。
まだ何とか着れるだろうとクリーニングに出した礼服。
これが、もはや絶望的なウエスト周りでした。
ズボンはおろか、上着までお腹がビシビシに締め付けられ。

葬儀の最終日だけ着るのだから何とかなるだろうと。
しかし、これが想像以上にキツく。
何かの合間、実質的な喪主だった叔母に笑い話のつもりでウエストの厳しさを伝えたところ、叔母はすぐさま自分のズボンに指を通し。
「ケースケ君、これダメでしょ!」
ダメと言われても替わりが無く、耐えるのみ。
そして、またしても子供扱いされてしもうた。

そのとき、自分の脳内を横切ったフレーズは「マジックベルト!マジックベルト!」でした。

幼少期、あのアニメの真似をして、母からも怒られたなぁと。
今回は外から締め付けるワケでなく、内側が膨らんだだけでして。

無理なくお金も掛けずにウエストを縮める手段を検索する今宵でした。
次回は無理なく着れる様に身体を整えねば。どちらも一生モノ。

モリモトのピロシキ

千歳の中心街で大昔から営業しているパン屋さんなモリモト。
ここのピロシキが美味しいと、中学時代に同級生のS君から聴いていて。
実際、当時数十円で購入出来たピロシキは美味しく。

進学した高校がモリモトまで徒歩五分程度だったので、お昼休みに買い出しに行くこともしばしば。
しかし、この時間帯に校外へ出るのは禁止。見慣れないオッサンに街中で声を掛けられ。

その日の夕刻、昼休みに街に出た者がこの中に居るようだが手を上げろと担任から。
自分はあのオッサンに氏名まで伝えていたし、そんなに悪い事をしたとは思っておらず、手を挙げ。
そして、自分が誘ったM君も手を挙げ。

黒板の前に立たされた自分は「どうして外に出た?」に対して素直に「モリモトのピロシキを食べたかったからです」と。
すぐさま担任から厚い書物で頭をぶっ叩かれ。
自分が誘ったM君まで叩かれそうになり「こいつは自分の誘いに乗っただけだから!」と庇ったものの、既に手遅れ。

M君にはその後に謝りました。「俺のせいで」と。
でも、M君は笑って許してくれて。
校則で禁止されていたアルバイトや単車の仲間でもあったので、こんな痛みはへっちゃらで、それよりも庇ってくれたのが嬉しかったそうで。

あの高校の教師は、何かあった時の問題を避けるやる気のないオッサンとかお年寄りばかりだったのは一年次から気付いていました。
サラリーマンでもやっていた方が、よほど似合っていそうな残念な教師というか。

先月の上旬に20年ぶりの帰省となった千歳。
三日目の朝は中心街のホテルからモリモトに寄り、プリンを三つとピロシキを四つ入手し、バスでちょっと離れた実家まで。
腸に末期癌を抱えた母は食べられるモノも限られていました。プリンだったら何とかなるかもと。

実家に到着し、看病していた叔母と母とピロシキとプリンの談義になりました。
母は御粥か素麺くらいしか消化出来ず、揚げ物のピロシキなど口にしたら、痛みを伴う後も大変で。
母はそれを食べたがっていましたが、止められることに。
「私、何か悪いものでも食べちゃったのかしら?」と母は漏らすのですが、消化器系の末期癌だということをすっかり忘れている様子。
自分も食べさせてあげたかったです。しかしそれをしてしまうと介護する叔母にも面倒を掛けてしまい。

朝食をまだ頂いていなかった自分がピロシキを二つ頂くことに。美味しく幸せな表情でピロシキを頂き。
母はそんな自分を嬉しそうな笑顔で見つめていました。
うらめしそうに観られていたワケではなく、幸せそうにでした。

これは自分の幼少期に経験した場面と同じ母の笑顔でした。

自分が小学二年生くらいの頃、クリスマスに近い時期だったか突然母から一緒に街に出ようと誘われて。
行き先はちょっと洒落た雰囲気の喫茶店で。
そこで、自分はクリームソーダを頂き。母は一番安いコーヒーを注文していて。
滅多に味わえないクリームソーダを頂く自分、母は嬉しそうに眺めていて。
母は最後に「お兄ちゃん達には内緒だからネ」と。

兄達にはその件をずっと黙っていました。
育ち盛りの三人を連れて行くには寂しい懐の母だったでしょうし、兄達からいつも酷い扱いを受けていた自分が、ちょっと気の毒だったのかも知れません。(三男坊の兄弟での扱いは世間でそんなものと今でも思っています)
ともかく、ピロシキを美味しく頂く自分を見つめる母は、あの時と同じでした。

そんな場面を思い出し、またしても涙が抑え切れずな自分は残ったピロシキを二つぶら下げて逃走。
叔母の話では、母はその後にプリンを美味しそうに頂いてくれたそうです。
幸い、それでお腹を下すこともなかったそうです。

母の通夜の場面、葬儀を担当していた営業さんが気を効かせてくれました。
集まった親族に、モリモトのピロシキを振舞ってくれて。
葬儀の打合せの途中、ピロシキの話題を耳でしっかり掴んでいてくれたらしく。
集まった親族一同で美味しく頂きました。

全く罪なモリモトのピロシキです。
美味しいプリンを自分は口にしなかったものの、もしかしてあれは当時のクリームソーダな自分だったのかもなぁと。
(読み返さずに一気に綴った本文なので、誤字脱字お許しを)

BGM

葬儀中は喪主だったこともあり、感情に流されている暇は無かったですし、人前で涙など見せたくなかったのですが、抑えきれない場面は幾度かありました。

特に告別式での最後の場面。
棺を花で飾り、蓋をして顔の扉を閉じる場面。
会場で流れていた曲がまたいけませんでした。
優しいメロディが涙腺崩壊を招いてしまい。

火葬場での待ち時間、あのBGMについて自分は文句をつけていました。あの場であんな曲はかなわん。
叔母の話ではドラマ「仁」で使われていた曲だったそうです。
あのドラマは観ていないのですが、気になった作品でした。
題材が面白そうでしたし、漫画の方の作者さんとはちょっとした縁があり。

自分が小学生だった頃に連載されていた漫画「ドロファイター」は好きな作品で、自動車レースを題材にした内容としては現実的で。
漫画「六三四の剣」についても気になる展開でしたが、高校受験を控えた頃から自分は漫画とゲームから足を洗ってしまい。

社会人になって数年目の頃、自分は某社の研究開発部門に所属していました。
セキュリティ系の会社だったものの、創業者の一声で浄水器も販売していました。
その浄水器、評判は悪く無かったものの全数交換が必要になり。本社系の若手が全国の支社に応援作業へ。
自分は23区内の幾つかの支社へ応援に伺い、交換作業のお手伝い。モノを売る作業では無いので、作業内容自体は楽なものでした。

訪問先の中には著名人さんも居ました。
その中の一人があの作者さんでした。リスト上の名前を観て「まさか御本人?」と。
ご自宅には珍しいネオクラシックな車が。
御本人にはお会い出来なかったのですが、応対してくれた方へ聴いてみたところ間違いなかったそうです。

ドラマ「仁」がどんな展開だったのか、Wikiで調べてみたところ中谷美紀さんも出演されていたそうです。
この方もちょっとだけ縁がありました。
都心の下町で暮らしていた頃、自宅二軒隣りの「ちゃんこ屋」さんで映画のロケがあり、中谷美紀がいらっしゃっていました。自分は全然知らない女優さんでしたが。
そういえば、あのお店で町の新年会があった時の写真が、母の遺品整理中に見付かったなぁと。
A4サイズくらいに引き伸ばされた印画紙でした。2007年のBlog記事に載せていた写真は小さめだし、何処から拾ってきたのだか。
煙草を美味しそうに頂いている写真。母は煙草についてあまり文句は言ってこなかったなぁと。
せっかくなのでその大きな写真は居間のカウンターに載せたまま実家を離れていました。

ちゃんこ屋さんのお孫さんがまだ小さかった頃、お向かいのお爺ちゃんの出棺に歩道でお見送りした場面、隣りに居た小さな女の子が「お兄ちゃん手繋ごう」と。
小さな手を握りしめつつ、こんな小さな子でもお別れの寂しさ伝わっているんだなぁと。

音楽とドラマと作者と役者とちゃんこ屋さんと。妙な繋がりがあった様です。

葬儀での諸々

偶然にしても、葬儀の前後では不思議な場面が幾つかありました。

母が他界した直後にナースさん(介護士さん?)が早朝の実家へ急行した際、信号待ちの遠くに虹が掛かっていたそうです。
その虹は写真に残されて叔母にも届いたそうで。
叔母も、母が眠る居間に窓から光が入ったと眺めていたそうで。

帰省二日目の午後は空港まで親戚の出迎えが二度ありました。
同い年のイトコの車で空港へ向かったのですが、どの駐車場を利用するかもイトコに検索して頂いていて。C駐車場の評判が良かったそうで、そこを利用することに。
しかし、いざ車を降りてみると空港まで結構な距離。そもそも歩いて空港まで行く正式な通路も無く。駐車場から歩道へは獣道の様な足跡を渡るしかなく。
炎天下、二人してやっと空港の建物に辿り着いたものの、そこから国内線の到着ゲートまでがまた結構な距離。
二人して苦笑い。

飛行機の到着時刻には間に合いました。
次は、ゲートから出てくる奈良の二人を自分が見つけられるか。
同い年のイトコは先程助けを求めてきた謎のお婆ちゃんに親切な対応中。
預けた荷物がグルグル周る回転寿司の様なレーンの周りに、二人が居ないのか自分は注視していたのですが、ふと横を見たら懐かしの二人が。
「北の大地へようこそ!」。

LCCの利用では無かったので、預けること無く手荷物で全て収まっていたそうです。
駐車場まで結構歩くのですが、お許しを。
ショートカットなルートを探りつつ、結果的に遠回りだったかも知れず。
空港の建物内を四人で歩きつつ、窓から外を確認すると状況は大いに変っていました。
どんでもない雨が降っていた様子です。水溜まりが酷く。
まだ降っているのか?

屋内の終点から地上に出ると、雨はやんでいました。
ここからも更に歩きます。
不安定な天候、これから大雨にあたる危険性は十分にありました。
イトコは駐車場まで一人で行って、車をここまで持ってくるとの意見も。
大雨喰らっても構わないので、四人で行こうとなりました。
水溜まりを避けつつ、どうにか車に戻り。

良かった良かったと四人で笑顔。実家までの道中がどんな天候だったのか記憶から飛んでいます。とりあえず雨はしのげていて。
実家に着いたら母の出棺を手伝ってほしい旨を伝えました。喜んで引き受けて頂けました。

実家へ到着後、またしてもドタバタ。玄関に居た制服姿の宅配屋さんらしき男性にちょっと横へ移動してもらう様お願いしたり。(これが大失態)
棺を玄関から入れるには、あの長方形を斜めにしないと居間まで入れず。棺の中に母が収まった状態では居間の窓から送り出す以外に無く。
その窓の外は雑草が元気に伸びていたり、足元も悪かったり。その辺は事前に軽く自分も片付けていました。
葬儀屋さんと身内の男手で、巨大なリムジンの様な白い霊柩車に母の棺は収まりました。
途中で煙草をイップクさせてほしい旨叔母に伝えたところ、尻を一発引っ叩かれました。
素晴らしいリアクション。

実家を離れるリムジンの後席には、これまで散々世話になった叔母と自分。
向かいの歩道には御近所さんらしきオバチャン達が見送り。ありがたや。
葬儀の会場は中心街の反対側にあり、そのルートを走行中にまたしても大雨。
なんじゃこりゃ?

後席の叔母とは、さっきも大雨にあたらずに済んだ旨伝えたのですが、叔母の方もさっきの大雨を心配していたそうで。
後ろに続く息子さん(イトコ)の車でも、いま同じ話題出していそうですと。
ともかく、良かった良かったと。
あまりにもタイミングが良過ぎて、お天道様も見守っていてくれたのかな。
叔母とは大笑いしながら、昔自分が暮らしていた道中の景色をを説明しつつ。

二度目の空港もイトコの運転で。
今度は完璧な駐車場でした。ここなら大雨でも問題無く。そして、一時間近く早く到着してしまい。
何かホッとしてしまったのか、イトコは車内にお財布を忘れてしまった様子。
気になるでしょうし、それを取りに戻る時間も十分にあり。

イトコとは昨夜の近況報告の続きとなりました。
イトコが長く続けていた介護の仕事は自分になど務まらない過酷さ。母を介護していた叔母も身内にも見せられない過酷な現実があったと。
久し振りに帰省した実家、母は介護ベッドの上。自分も何か手伝いたかったものの、余計なお世話になるのは自分でも解っていて。
接種した解熱剤が効きすぎて、冷えた両手を握るくらいしか自分に出来ませんでした。
自分の幼少期は母の手も脚もいつも温かくて、布団に潜り込んでは温めてもらっていたのに。

大阪から訪れる親子は四半世紀以上ぶりの再会。自分はちゃんと見つけられるのか?
ゲートから登場した二人、直ぐに分かりました。
「テツヤおじさん?」。あっけに取られていたのか、リアクション無く。でも間違いなく。
「ケースケですよ!」。少し安堵した表情。

「北の大地へようこそ!」だいたい、自分も二十年帰らなかった大地なのですが、お迎えはこれに限る。
「さっきの雨は何だったんだ?」と会場へ向かう前席でニンマリ。

出棺のドタバタで玄関にて邪魔者扱いしてしまった男性は、ずっとお世話になっていたあの便利屋さんだったそうです。
二月の大雪では母を救助して頂いたり。またしても酷い事をしてしまった。(後日、メールでお詫びしました)

全ての式が終わり会場で普段着に着替えした身内八人が向かう実家。車は二台に分乗。母は既に骨。
江別からやってきた叔父の車の助手席に自分。中心街経由の実家までのルートは自分が何となく覚えていたので、先導することに。
中心街を離れた途中で、運転席の叔父がニンマリ。イトコの車が追い抜いて行きました。
この先のルートはイトコの方があてになる。

追記:
雨にあたらなかった件、全く逆パターンだったら、ほとんど「祟り」みたいなものだったんだろうなぁと。