帰国してからの方が危ない


海外でハンドルを握ると現地でしくじるのはウインカーの出し方。
ハンドル周りのレバーはウインカーとワイパーが逆で、ウインカーを出そうとする度にワイパーが動き出し。
数時間で慣れるのですが、気をつけていないと直ぐに戻り。

西海岸では配車ミスにより破格の安さでオープンカーを借りれたのですが、これは晴れ続きの土地で快適でした。
しかし、一方通行で逆走してしまった際は正面衝突しそうな場面があり、互いの急ブレーキで発生したタイヤのゴムの香りがモロに漂ってきました。オープンカーならではでした。
でも、死ぬかと思った。

そして、帰国。
我が祖国。
もう大丈夫だ。

三ヵ月のヨーロッパから戻り、空港近くのパーキングに預けていた愛車をスタートし、大きな幹線道路から自宅へ戻ろうと。
何も考えずにウインカーは右に出せた。上出来だ。
走り出すところで、死ぬかと思った。

「やばい逆走だ」

解説:
駐車場から大きな幹線道路に出る際、多くの場合その国の通行方向しか曲がれません。左側通行の日本なら左で欧米の多くは右です。
帰国直後など緊張感の欠片も残っちゃいません。
写真は1999年に現地で借りたムスタングのコンバーチブル。幸か不幸か予約していた安い車がロサンジェルスの大停電で配車されませんでした。

また一人、逝ってしまった。

高校時代の同級生が他界したとの連絡が本日ありました。
昨日のこと「くも膜下出血」が死因だったそうです。
中学生時代の友人の一人も二十代の終わり頃に「くも膜下出血」で倒れていて、一命はとりとめたものの酷い痛みだったらしく。頭蓋骨を外した傷跡は永遠に残るそうで。何より後遺症のリハビリが何年も続いたと。無茶な仕事っぷりの綺麗な女性でした。

昨日亡くなった同級生(F君)は当時のアルバイト先でも一緒でした。(こんなアルバイトでした。)
人手不足でF君に紹介された総合結婚式場のボーイの仕事でした。
これがお洒落な同世代ばかりで、自分は何かと浮いていて。時々訪れる芸能人さんとかが新鮮で。
何より働いた分の稼ぎにはなり、北海道の体育の授業で必要だったスキーセットとかも余裕で買えました。
気になっていたJazzのCDや、乗りたかった単車も買えたりで。

特に仲が良いわけでも無かったF君は、高校に入るまでは勉強もでき、見た目もハンサムでお洒落でギターも上手で、酒も煙草も女性も単車も車も、誰よりも先に楽しむ男でした。
F君に一度怒られたことがありました。マダムだけの忘年会にて二人でボーイをやっていた場面でした。
見た目からして引っ込み思案そうな女性がカラオケのマイクを渡され、一生懸命歌ってはいるのですが音程もリズムも全くハズしており、おどろおどろしいしい歌声に笑いがこみ上げてしまい。。
F君に「失礼だ」と忠告される前から「笑ってはいけない」と必死にこらえたのですが、どうにも無理でした。

だって、曲名まで「よせばいいのに」でして。。
あまりにもシュールな場面でした。
いつまで経っても、ダメな私ね。。

F君はあっちの世界も一番乗りだったんだなぁ。
痛みが少なければまだ良かったのですが、棺桶に覗ける姿は安らかで、せめてもの救いだったかと。
冥福を祈ります。

届いた写真

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子供の頃、とてもお世話になったおじちゃんとおばちゃん。
当時、片親の自分には理想の夫婦でした。勿論、いまでも。

なのに、こんな自分しか残っていなくて、申し訳ないです。ぜんぜんいい子じゃなかった。
でも、一緒に居れるだけで、いつも嬉しかったんですよ。

また越してしまった

ひょーひょーと生きてます。

本日は43回目の誕生日。
子供の頃の思い出が薄くなりつつありまして、何処かのタイミングで残った断片を繋げておこうと思っていました。
キリの良い本日、残しておこうかと。(今回はちょっと長いです)

一昨年、42歳で他界した兄の年齢をついに自分は越してしまいました。
34歳の若さで他界した和博おじさんの歳を越してしまったときも、ぼんやり考えてしまったんです。
自分、この歳で同じことが出来ていないよなって。

幼少期の自分は母子家庭で育っていました。
三人兄弟三男坊の自分は、二人の兄から良い玩具だったようで、人生ゲームやモノポリーといったスゴロクの類ではいつも負けてばかり。
高校時代、兄にその件を話したことがありました。
兄曰く「勝てなくて当たり前だよ。だって、俺たち二人で勝手にルール変えてたんだから」
なるほど。勝てるワケ無かったのです。

しかし、公平なレフリーでもあった和博おじさんが居たときだけは、自分もゲームをソコソコ楽しめた記憶です。
和博おじさんは母の弟で、自分の幼少期はまだ大学生でした。
テキ屋のアルバイトで入手した軽自動車で、年に数回大和(神奈川)から川越(埼玉)の我が家まで遊びに来てくれていたんです。

ドライブに連れて行ってくれたり、公園に連れて行ってくれたり。
自分の一番古い記憶は、上福岡駅近くの公園で和博おじさんに遊んでもらったジャングルジムから始まっています。
ジャングルジムの上から「ほら、ケースケ、こっちへ来い!」と手を伸ばしている姿です。
怖くて泣きじゃくっていた自分は、その手にしがみつきました。
「幼稚園から帰ってくるまで、家で待ってて」と約束したのに、もう居なかったとき、母を散々責めて、近くの国道まで泣きながら走ったことも。

その後も、江ノ島や油壺の海水浴場へ幾度も連れて行ってもらっています。
和博おじさんは自分が小学二年生のときに、あきこおばさんというとても奇麗な女性と結婚しています。
その年の夏休みは、あきこおばさんの実家である長井(山形)まで連れて行ってもらえて。

長井の実家は、広い田んぼに囲まれ、夜は宙を舞う蛍が幻想的でした。
少し離れた場所にあった川を和博おじさんが「水陸両用車!」とか言って渡ろうとしたとき、浅瀬の途中で車が動かなくなり、大人達が丸太を持ち寄って救出した場面とか、イベントに満ちあふれていました。

しかし、帰りの関越道で自分は怒られてしまっています。
往路の車の中で「山形のお爺ちゃんのこと、ハゲとか言うなよ」と教えられていたことを、最後の晩ご飯の席で皆にバラしてしまい、「お前らなんて、もう何処にも連れて行ってやんない」と。
男の約束を破って怒られた自分は、後部シートの両隣の兄から「バカバカ」と責められる始末。助け舟を出してくれたのは、あきこおばさんだけでした。
その関越道で、今度は最高速をチャレンジした古い車は、ボンネットから煙を上げ、立ち往生。
とても素敵な夏休みでした。

勿論、その後も色々なところへ、自分達は連れて行ってもらっています。

自分が中学三年に上がる頃、和博おじさんの二度目のガンが発覚しました。
一度目は早期発見で助かったのですが、二度目はもう手遅れだったようです。
自分の家族は母の再婚予定者の方が北海道へ転勤となるタイミングでした。
籍を入れて、一緒に北海道へ引っ越しが決まった頃だったか。

北海道での自分は「夏休みに大和の病院へお見舞いにいきたい」と現地で看病していた母に懇願していました。
しかし、和博おじさん曰く「希望の高校に受かってからだ」との伝言。
人生で一番勉強した数ヶ月となりました。
その頃の我が家は、長男が大学受験に失敗し、一浪の身分。次男は高校の転入試験に失敗し、地元で一番ランクの低い高校へ(それまで川越高校という、かなり優秀な高校に通っていたのに)。
家の中の雰囲気は、そんなこんなでドンヨリしていました。

当時、地元でランクが一番高かった高校の合格通知を握りしめた自分は、春の近い夜行列車で大和へ走りました。
病室の和博おじさんは、若かった頃のように痩せて、いい男に戻ったようでもありました。一時の中年太りは見る影も無く。(ヤツレという表現にはまだ若すぎて..)
 SUKIYAKI:おじさん、合格したよ。
 おじさん:でかした!

涙がこみ上げてきてしまい、自分はトイレに逃げ込んでしまいました。
和博おじさんに褒められたのは、生まれて初めてだったから。
調子に乗ってドジ踏んでは、いつも怒られてばかりだったから。

真っ赤な目がどうにも戻らぬ状態で、仕方なしにもう一度病室へ戻りました。

自分たちの幼少期、和博おじさんは大学の寮で麻雀に託した場面が幾度かあったそうです。
子供達三人へのお小遣いを稼ぐためだったそうですが、そんなとき程ボロ負けで、同級生達に状況を説明しては組み立て済みのプラモデルを餞別に頂いたそうです。確かに、当時の自宅にはプラモデルが溢れていました。
川越からの帰りの16号(国道)、八王子の長い上り坂は助走を付けないとギアの壊れた軽自動車では厳しかったそうで、途中の赤信号に引っかからないように覚悟を決めていたとか。

長男の北大合格も報告出来た頃、高校入学を控えていた自分は北海道へ戻ることへ。
 おじさん:示しがついた。

4月1日に和博おじさんは他界してしまいました。
強い鎮痛剤で、最期は幻覚をみていたそうです。
亡くなる数日前、和博おじさんは病室の誰も座っていない長椅子を指差し
 おじさん:そこの三人の子供達に、ジュースでも出してあげて
 看病にきていた母:うちの子達は、いま北海道よ
 おじさん:何処の子だったかな?そこの三人まだ小さすぎるよ..

和博おじさんは、どうやら当時の自分たちをそこに想ていたようでした。

煙草もバイクもお酒も、自分は和博おじさんに教わっています。
もう少し長生きしてくれたら、素敵な女性の口説き方も教われたかもしれなく。
ガァ

林檎殺人事件

樹木希林さん、自分の大好きな女優の一人です。
ドラマ「ムー」系に出演されていた頃は、まだ三十代だったんですネ。(何気にバックバンドの連中がノリノリです)
いまの自分より、ぜんぜん若かったんだ。

早くから悟りみたいな何かがあったのかなぁって、思うこの頃です。
味のある、等身大の生き方って素敵です。
ガァ

地震からのこと

【地震初日:金曜】
地震が発生したとき、自分は八王子方面へ仕事で訪れていました。
地震の発生時刻(15時前)は仕事の区切りが悪かったため、一時間以上そのまま仕事を続けていました。
お客さんの事務所で震源地等の情報を確認し、東京は大した影響が無いくらいに思っていました。
高速道路の閉鎖は予期したものの「下道で帰ればいいや」と。
とりあえずスタンドでガソリンを満タンにして。

結果的に帰宅できたのは日付が変わった時刻。
幹線道路の渋滞は酷く、似たような方向に伸びる道を迂回しながら、どうにか都心部まで戻れました。
しかし、都心部の渋滞は深夜でも更に酷い状況(30分以上全く前進しない)で、途中で車を乗り捨てて帰宅しました。
飯田橋から九段下にかけての道は、交差点まで全部車で埋まっていました。
まぁ、自宅まで2kmの距離だったので、徒歩で何ら問題ありませんでした。

自宅の状況を確認したら、居間は壁から落下したCDが散乱。弦楽器は全て倒れ。
台所は割れたガラスとオリーブオイルの湖。
軽く片付けて、職場へはスクーターで向かいました。(昨年購入しておいて良かったスクーターです)

帰宅できない同僚の皆さんと職場で再開し、少しホッとしました。
職場は寝床と化していたので、自分は自宅へまた戻りました。
自宅の布団で寝れる幸せ。

【地震二日目:土曜】
翌朝は捨ててきた会社の車を拾いに、一ツ橋中学校へ向かいました。
路上で、何年も乗っていなかった自転車のチューブに空気を入れていたところ、お向かいさんが一ツ橋中学まで車で送ってくれまして、助かりました。

会社の車は、駐車違反の切符を切られていなかったです。
会社では、昨夜のうちに帰社出来なかった同僚も戻っていました。
更に一安心でした。

その後、地元の牛丼屋さんへ寄って、いつもの店員さん達と再会。
 SUKIYAKI: 寂しいんで、傍で食べていいですか?
 おばちゃん: はいはい、いらっしゃい(ニコニコ笑顔)
 SUKIYAKI: あの地震の翌日に営業してるって、根性ありますよ
 おばちゃん: 鍋のつゆが、どんどんこぼれちゃって、大変だったのよ
 SUKIYAKI: 火傷大丈夫ですか?
 おばちゃん: うちは大丈夫。でも、揚げ物屋さんはしばらく開けられないと思うよ
 SUKIYAKI: とにかく、無理しないでくださいね

それから地震の三日目までは、食料や燃料の補充に努めました。

【地震四日目:月曜】
地震二日目から三日目までは幸い週末だったので、私生活の充填にあてられました。
四日目の月曜日は職場へ。
私服にスニーカーで出社が可能だと、昨夜のうちに連絡があり、助かりました。
訪問予定だったお客さんへの連絡が、主な仕事となりました。
明日、明後日は自宅待機の休業とのことでした。
ライフラインに関わるお客さんへのサポートは、出来る範囲で。

【地震五日目:火曜】
きょうは、自宅待機が基本でした。
が、近くのキャンプ用品店で寝袋を十個購入し、職場へ届けました。
復旧まで長期化しそうなのはほぼ見えてきましたし、少しは安心して職場に向かいたいからでした。
中途半端な数しか確保できなかったら、使う側も後ろめたいでしょうし。

【いま思うこと】
後だしジャンケンでしょうが、大きな地震が多いこの国で、原発は無い方が幸せだったかもと思っています。
建てるにしても、本土から離れた海上とか、最悪の場面で一般人に最低限の被害で済むような場所にしてほしかったです。
結果的に東北の震源地は地震、津波、原発事故の三重苦です。
逃げ道だって限られていたでしょうに。

地震直後の混乱時、通信手段はiPhoneとTwitterとエネループが最強でした。
これが無かったら、誰とも連絡取れませんでした。

明日は衣類の確保を考えています。
ともかく、呑気に前向きに参りましょう。
ガァ