閃き

閃き(ひらめき)についてです。今回はかなりつまらない文章です。
社会人になって最初の仕事で自分は七年ほど会社の寮で暮らしていました。

140人も収容出来る新築の寮には同期や同僚が何人も暮らしていて、夜になると誰かしらビールを片手に部屋に遊びに。(逆のパターンもあり)
3つ隣の部屋に居たM君とは特に夜の付き合いが多かったです。九州出身のM君はまさしく九州男児な豪快な男でしたが、勉強家な一面も持っていました。
運動系が全く興味なく飲み食いばかりのM君の趣味というと読書とパソコン。パソコンについては何故か良く分かりませんが当時のAppleの新製品をよく購入していて。
他にも読書の趣味では「この本を読んでみろよ」と司馬遼太郎の「街道をゆく」を紹介されたり「竜馬がゆく」を紹介されたり。
竜馬がゆくについては八冊あり、二巻目辺りでハマってしまった自分は全巻揃えることに。他にも、エロ本とか色々借りました。

結果的に政治経済にも強かったM君でしたが、お金の管理が不得意というかギャンブラー的な投資をしていたようで、常に借金を抱えていて。
自分も貸したお金がなかなか返ってこなかったことがあったり。最終的にM君は自己破産で会社を追われ、夜逃げしています。
セキュリティー系の会社だったので、サラ金の借り入れは懲罰対象だったのですけれど、実際はバレても多めにみてもらえることが多かったです。
しかし、サラ金も雪だるまになると会社の電話の回線がパンクします。取り立ての電話が頻繁に鳴り、その部署の業務が停止に近い状況に追い込まれたりで。
M君の職場もその状況に陥ったようで、追放された流れでした。

M君の失踪時は色々と伝手を頼りに探す日々でした。以前の同僚であったり、同じ大学の出身者であったり。
同じ大学の出身者が同期に居たのですけれど、自分はぜんぜん面識が無くて。初めて会話したのがM君の行方の件で。
その同期も行方を知らなかったのですが、M君は大学時代にも投資で破産していたそうです。自分達の世代の卒業間近は丁度バブルが弾けた頃でもありました。
何と、今回は二度目の破産。卒業間近のM君は一時期行方不明になり、借金は個人事業主だった親御さんが肩代わりしたとか。
そんな話は全然知りませんでした。

自分は親しい相手ほど都合の悪かった過去を語りがちでした。M君はどうにも色々と隠し事が多かったのかなぁと。
ぜんぜん知らない相手だったら、単なるどうしようもない奴なのでしょうけれど、色々と教えてもらったり楽しかった思い出も自分には多く。
ともかく、数週間かけて居所を探していました。
ご実家の宮崎県に電話した際は、M君のお袋さんの愚痴を二時間以上ひたすら聴かされたりも。

M君はソコソコ資産のある家で育ったらしく、中学時代から私立の学校に通っていたそうです。成績は優秀だったそうで。
九州大学を目指していたそうですが、結果は二浪で都内の中堅の私立に入学していて。お袋さんはM君の将来のために溜めていたお金を一度目の破産で使い切ったそうで。
お袋さんは二度目の事態で、もう勘当の準備があると。何処かで野垂れ死ねば良いんだと。
そうは言っても実の息子で手塩に掛けた長男で、心裏腹な部分もきっとあるに違いないだろうと。

なかなか見つからないM君のことを思い出す日々でした。
M君の話題で面白かったのは「どんな奴でも一度くらいは閃くタイミングがあるんだ。それで勉強のツボが分かったりするんだ。それが無い奴は馬鹿」でした。
確かにその通りでした。自分も高校受験や大学受験の勉強でチマチマ時間を掛けても効率悪かった期間があって。ある時突然何かに閃いてバラバラだった点が線で繋がって。
まぁ自分の場合は受験までの数ヵ月程度の苦戦でしかありませんでした。しかし、世の中にはガリベンなのに全く出来ない奴というのが実際に居ました。
丁寧にノートを取ったり、辞書にマーカーを塗ったり。余程出来る奴かと思ったら成績が全然悪く「嘘だろ?」と驚かされたり。
自分と言えば、教科書に落書きとか重要箇所のチェックを入れる程度。ガリベン君は特に興味や趣味が無く、ひたすら勉強するのみ。
友達も居なく、何が楽しくて生きているのかなぁと思える輩で。修学旅行では好きなグループを組む必要があったのですが、誰にも受け入れられず気の毒だから自分のグループに入れてあげたり。
大体は親が資産家で、塾に通ったり家庭教師まで着けていて。それでもあの効率の悪さ。
何らかの必死さが足りなかったのかなぁとか思っていたのですが、M君の言う閃きがあったかどうかの違いなのかなと。
学生時代の自分はお金が無かったものの、趣味と自由はあったので許される範囲で好き勝手やらせてもらっていました。あの歳だったから許されたことも多くて。あの歳だったから楽しかったことも。
空回りの勉強だけのガリベン君がいま何処でどうしているのか分かりませんが、どんな思い出が残っているのであろうか。

自分はつまらない人と付き合うのも苦手で、そんな繋がりと無駄な時間を過ごすのは勿体なくて。結果的に同期の一部からは「付き合いの悪い奴」というレッテルを貼られていました。
まぁ、その方が自分には都合よかったです。一々説明する手間も省けて。だいたいは無駄なお酒の誘いばかりでしたし。お酒は嫌いではないけれど、一緒に居る連中が重要で。
あと、身内でアル中になるのが多かったので、自分は控えるように意識もしていました。これは未だにそうです。(なので、その後も付き合いの悪い奴なレッテルに変わりなし)
そんな自分がM君のことを探し回っているのは同期も意外だったようです。人嫌い程度に思われていたのかも知れず。
普段付き合いの良かったM君は、結局自分以外の誰からも見放された状況でした。どうにも薄っぺらい付き合いだったのかな。

ある日、M君の滞在先の連絡がありました。職場の先輩の家に転がり込んでいるそうで。慌てて系列会社の職場に電話してみました。
確かに自宅に転がり込んでいるそうでした。一週間以上滞在しているそうですが、食事と酒と小遣いを求められてばかりで困っていると。
人の好い先輩だったそうですが、やはり一週間も居候されては扱いに困る様です。まして金に困った奴を平日日中に家に置いておくなんて、何されてしまうか分かりません。
「週末にMを実家に送り届けるので、うちの寮までの切符を渡してほしい」。

M君の実家にも電話しました。ともかく引き取ってほしい旨伝えました。東京に奴が居ても周りに迷惑が掛かるだけだからと。
世話になった先輩へのお礼のお金と、片道切符だけ送ってほしいと。羽田のゲートまでは自分が送り届けるから、宮崎のゲートで待っていてほしいと。
そうしないと奴はまた逃げ出すからと。この電話でもお袋さんから二時間以上愚痴を聴いたのですが、最後は折れてくれました。
奴に現金を渡すとパチンコの玉に消えるか本人が何処かに消えるかで。

M君は約束の時間に自分の寮の玄関に来てくれました。奴が時間を守るのは初めてだったかも知れず。だいたい、いつも自分は奴を朝起こす係みたいなものでしたし。
言いたいことは山ほどありました。
 SUKIYAKI:よく来てくれた。
 M:すまん。
 SUKIYAKI:羽田に行くぞ。

羽田までの首都高は会話が少なかったかも知れず。
行方不明中、奴は日光の華厳の滝まで行っていたそう。しかし、飛び込む勇気も無く、ぽっくり逝けたらなぁと考えていたそうで。
奴が夜逃げした噂は知れ渡っていたし、よくもまぁ一週間以上そんなお前を泊めてくれた人が居たもんだと笑ったり。だいたい、M君の足の臭さは自分が一番良く知っていて。
奴が言うには仕事も探していたそうなのですが、一旦リセットしないことには上手く行くと思えず。
宮崎に帰る手配は俺が勝手にしたことだし、それで上手く行かなくても俺以外恨むなよと。

羽田の出発ゲートで、固い握手をして最後のお別れ。
お袋さんにちゃんと謝れよ。
奴には珍しく「ありがとう」と。

まだ抱えているだろう多額の借金については、その後またお袋さんが片付けてくれたらしく。宮崎の到着ゲートで待っていたお袋さんからは再会早々その場で思い切り引っ叩かれたとか。
その後、大晦日にM君から電話があったりしました。お袋さんに尻叩かれて電話したと。
何だかやはり憎めない奴なんだよなぁ。

ドアサイド

高校時代の同級生H君は一風変わっていたからか、周りから馬鹿にされてしまう場面が多かった記憶です。
だいたい、理系科目が全く不得意なのに何故に理系に来たのか。当然ながらH君の成績もパッとせず。
ただ、自分にとっては何故か親近感のわく男でした。
お互い乗り物や音楽が好みだったのもあるのですが、不器用な点が一致していたのかも知れず。

しかし、高校卒業時にH君は何故か地元のソコソコの大学に複数合格していて。
地元の私立大の理系は授業料が高い割にレベルは低く、自分は全く魅力を感じていなかったのですが、H君は文系の大学しか受験しておらず。
(数年後の大学卒業時、H君は国家公務員の二種や会計関連の公務員試験に合格していて、文系脳は強かった様子)

自分は都内の私立の夜間大学に進み、昼間は働きつつ、過密なスケジュールを何とかやり繰りしつつ、せめて夏ぐらいは地元に帰ろうと。
自分は実家に何の連絡もせず突然帰省するようなドラ息子だったとも思えます。
自分は実家と仲が悪く、友人達との再会が楽しみなだけの帰省でした。
そんな自分でしたので、実家に帰っても喧嘩になってしまう場面が多く。
まぁ、招かざる客の一人だったかも知れません。

大学時代のH君は自動車部に所属していたらしく、地元の空港で荷物を扱うアルバイトに励みつつ稼いだお金は車の改造と燃料代に消えていた様子。
自分が帰省すると、アルバイトを終えたH君はドライブに誘いに来る場面が多く。
帰省していた同級生達や浪人生達と一緒に名所を巡っては、馬鹿な事ばかり楽しんでいました。今なら許されるだろうという人様に迷惑掛けない範囲の確信犯。
しかし、アルバイトに励み過ぎのH君は深夜の運転で居眠りしてしまう場面が多く、タイヤが縁石にぶつかり跳ね返された場面も幾度か。
なので、H君の運転中はなるべく会話が途切れないようにしていました。

東京で暮らしていた自分の部屋には、受験で訪れる友人や旅行で立ち寄る友人が何人も居ました。
北海道の友人達の現状報告も聴けたりして。
 浪人生:Hの奴、また車潰したらしいぜ。支笏湖に向かう何てことない直線でレビンを引っ繰り返したんだってさ。
 SUKIYAKI:大丈夫だったの?
 浪人生:それがさ、一緒に乗ってた奴から聴いたんだけど、Hの一言がおかしくてさ。
 SSUKIYAKI:何て?
 浪人生:またやっちまった。。

まぁ、全員無事だったからもありますが、大笑いでした。
奴は既に三台つぶしていた記憶です。どんどんボロい車に変身していました。
見た目は大衆車でしたが、お金の掛からない範囲で色々とラリー仕様にしていたらしく。
当時はバブル時代の真っ盛りで、H君のやっていることは真逆。軽い車体にパワフルな2000㏄のエンジンを積んでいるとはいえ、古臭いカローラに魅力を感じる乙女は居ないだろうになぁと。

大学卒業の年まで四輪の免許を所有していなかった自分は、とりあえず二輪の運転にだけは高校時代から慣れていて、帰省時にH君から「運転してみるか?」と聞かれたことも。
深夜に対向車のないど田舎の直線、街灯だけは明るく。試しに運転席へ。
発進は出来たもののこれが真っ直ぐ進まず、ハンドルを切り返しの繰り返しは蛇行運転でしかなく。ギアーチェンジも上手く決まらず、百メートルくらいで諦めることに。
んな「一速で回すな!」とか言われてもなぁ。ともかく、四輪は真っ直ぐ走らせるのも大変なんだなぁと。

余談ですが、そんな経験もあって数年後の教習所では実技が心配でした。最初はオートマでの実技。これが全く問題無く運転出来て。
H君のあの車はいったい何だったのか?
どうにもラリー仕様の車は簡単に曲がれる特性らしく、逆に直進させるのが大変らしく。そんなもんのハンドルを握らせたH君は危機管理がなっていないよなぁと。

話は戻ります。ともかく、帰省時の自分は養父と喧嘩ばかりで。
実家で険悪なムードの夜ほど、H君はドライブに誘ってくれて助かってはいました。自分の愚痴も沢山聴いてもらえて。
大学時代の帰省は長くても一週間くらい。東京に戻って学費と生活費を稼がなくてはならなかったですし、そんなに長いお休みも職場で頂けず。

H君は東京に戻る自分を空港まで送ってくれたことも。
その車の中で妙な会話がありました。
 H君:空港で荷物預ける時「ドアサイドで」って頼むと東京で最初に荷物が届くから使ってみろよ。
 SUKIYAKI:でもお金お金掛かるんじゃないの?
 H君:本来は高いシートのお客さん専用なんだけど、大丈夫。
 SUIYAKI:そんなに急いでいないし、無理言う必要も無いよ。
 H君:いいから一度使ってみろって。

自分の乗る便まで尋ねられて、ぶっきらぼうな奴にしては何でそんなどうでも良いことに拘ったんだろうなぁと東京へ。
羽田のベルトコンベアでは確かに先頭辺りで「ドアサイド」の札の付いた荷物が登場しました。世の中にはこんなサービスがあるんだなぁと。
でも、朝一の飛行機に乗った自分は午前中の到着でしたし、午後からの予定も無く滅多に使わない空港で少しくらい待たされるのも悪くなかったのに。
空港の雰囲気も好きでしたし。

自宅へ戻った自分はお土産の紙袋以外、帰省に使った鞄はそのまま床に放置。
トラピストのバタークッキーは見た目が悪いものの、これは意外に美味しくサッサとみんなに配らなければ。

東京の現実は厳しく、また今日もやらかしたな日々に戻り。数日経った頃、必要に迫られ鞄の中身を片付け。
小汚い鞄の中身を床に放り出すと、鞄の小さなポケットが膨らんでいて。
チャックもボタンも無いこのポケット、荷物預ける前に空っぽにしたハズなのに。何入れたっけ?

ポケットから出てきたのは、旅客機のシートに必ず備わるゲロ袋。飛行機で酔ってしまった人がゲロを吐くための袋で、正式名称は知らず。
「なんじゃこりゃ?」とそのままゴミ箱へ投げ捨てる寸前、袋には殴り書きが。

『イーヅカ、元気でな!また来いよ!』

声を出して泣いてしまった。
お前って奴は..

竹中敏洋さんの思い出

高校を卒業するまでの四年間暮らした北海道の千歳には支笏湖という観光地があり、冬場にはそこで氷凍祭りというイベントが開催されていました。
氷点下の中、氷で作られた像が並ぶ神秘的なイベントでした。自分がこの像を観れたのはずっと後のことで。
というのも、真冬の移動手段は車しか無く、中高生だった自分はバスを使って遠く寒い場所に行くまでも無いかと。夏であれば自転車か単車で行けたのですけれど。
それに、その氷の像というのが著作権関連で揉めていたという噂も面倒臭く。像は雪から作るのでなく、氷点下の中で水を撒いて凍った産物らしく。その製法と表現方法を確立した芸術家の断りも無く実施していたそうで。
当時、アート系に興味ある地元の知人に聴いても、氷凍祭りは興味の対象外だったようです。

社会人になって数年経った頃、夏の終わりくらいに北海道へ帰省した機会がありました。
流れ者な町であった千歳に残っている友人は少なく、親の車を借りて近場の観光を楽しむ程度でした。
当時、自分の母は油絵に凝っていて、地域の文化活動にも関わっていたそうです。自分の出身校の先生とも繋がりがあったらしく、その中には自分の尊敬していた国語の平田先生も含まれていて。

この平田先生というのがナカナカの変わり者で。国語の試験で記述式の回答があると、滅多に×を付けられない性格で。
文章に対する解釈は一通りでなく、模範的回答以外の解釈にも理解を示してしまうというか否定は出来ない方でした。その度に考え込んでしまうそうで。
こういった先生は高校よりも大学の方が似合うのかと思いつつ、頭ごなしに否定しない姿勢に見習うべき点は多かったです。立場や権力で生徒を押し込める教師が普通で。
あと、先生の趣味がまた面白かったんです。オーディオマニアで、高価な機材を入手しては奥さんに怒られてしまうこともしばしばだったそうで。当時はまだCDが市場に出回り出したばかりの時代でした。
そんな中、録音の良いCDを自分は先生から沢山お借りしていて。アルバイトで稼いだお金をJazzのCDに注ぎ込んでいた自分もお返しにCDを貸したりで。教師と生徒の関係としては不適切だったかも知れませんが、自分の全く興味なかったジャンルやアーティストに触れられる機会を頂けて。こんな曲や表現方法もあるんだなぁと。
国語という限られた科目に置くには勿体ない先生でした。「表現と解釈」といった、もっと漠然としたテーマの方が似合っていたかと。これは文化や人種や言語を越えたコミュニケーション方法でもあって。

話を戻さねば。
その平田先生と繋がりのある芸術家が市民ホール(千歳市民文化センター)で個展を開くらしく、暇を持て余していた自分は母の勧めで個展に行くことに。母の造った大作も市民ホールの階段に飾られているそうで。
何の期待もしていなかった個展ですが、これが面白かったんです。印画紙を応用した作品は他に観たことが無く、独特な世界観。イマジネーション膨らむ作品群。
作者の方はその場には居なく、作者の奥さんがギャラリーを受け持っていて。
その奥さんと少しお話をさせてもらったところ、作者とのトークベントが後日あると。
あの作品の雰囲気は冨田勲の月の光に近いなぁと、地元のレコード屋さんでCDを入手し後日の夜も同じ場所へ。
(この記事を綴っている理由も、昨夜観た夜叉ヶ池で冨田勲さんの作品が使われていた故です)

作者のトークイベントも楽しかったです。参加者がとても少なかった中、プロのパーカッションプレイヤーの方と物の叩き合い的なセッションもあったりで。
作者は竹中敏洋さんという方で、元々は千歳で中学校の教師をしていたものの、作品制作の世界に没頭したかったらしく、周りの反対を押し切って芸術家の道に進んだらしく。
しかし、その世界で認められるチャンスは何年も訪れず、極貧生活が続いたそうで。教師時代に「先生先生」と持ち上げてきた方々からも冷たい視線を受けるばかり。
ご自身が嘗て製作した作品の一つだけを頼りにしばらく生きていたそうです。イベントではその作品を持参されていました。例えの難しい作品は表面のゴツゴツした少し伸びたタケノコのようなモニュメントというか。
全てを失った中、その作品を腕に抱えて真冬の夜汽車に揺られたこともあったと。
その中に自慢話は含まれておらず、いまは人里離れた場所で作品造りと。

頂いたパンフレットを観たところ、例の氷凍祭りで争っていたらしい芸術家でした。
個展の中で目に付いた作品の中に「偽善者」(記憶が曖昧なのですが、そんなタイトル)というのがあって、それが特に印象的でした。真っ黒の背景の中に細い白い線で描かれた弧。垂れ下がった真ん中には首が吊るされた細い人のシルエット。
静かなる抗議な作品だったようです。あの盗作に対する抗議だったのかなぁと。
どうにも気になる竹中さん、東京に戻る前日にご自宅へ車で伺ってみました。何のアポも無く向かった夕方、会えなくても仕方なく。
大きな地図を観ながら走ったルートは、高校時代に幾度かバスで経験した風景でした。盤尻というエリアはその先に市民スキー場があり、学生はナイター券を安く入手出来たので友人達と伺っていて。
しかし、冬の雪景色とは一味違っていました。夏の終わり頃の枯れはじめた土地というか。枯れてはいないものの、夏の始まりの勢いある緑とは別の衰える緑。

民家が少ないエリアだったので、竹中さんのご自宅はすぐに見つかりました。通り過ぎた道を引き返し、手作りっぽい木製のご自宅へ。(木造というより木製でした)
玄関をノックしてみると、先日の奥さんが。居間に案内されて竹中さんと世間話。そのままアトリエへ。アトリエといっても屋外でした。ご自宅の裏には川が流れていて。
冬になると、ポンプで川から引いた水を撒き、作品作りに没頭すると。
ポンプや照明に必要な電源周りの工作や電線の引き回しもご自身でやられたそうです。この時代にこんな人が生きているのが斬新でした。元々は何も無かったらしき場所なハズ。
真冬の北海道でこんな人里離れた場所、一歩間違えたら簡単に死ねてしまいます。ゼロからここまで続けてこれたことに見習うべき何かが大きく。幾度の冬をここで越してきたのだか。
どんな話をしたのかほとんど覚えていないのですが、この会話だけは覚えています。

 SUKIYAKI:時々変な夢を想てしまうんですよ。空を飛んでいる夢なんですけれど、地上に戻りたいと必死に泳いだり電線を捕まえようとかするんですけれど、酷い時なんて宇宙の彼方で一人っきりで、
 竹中さん:そのままそこに居ればいいじゃないか。

自分は人付き合いが下手な面を自覚していて、一人で居たい時はもちろんあります。それでも人里が恋しくなる部分もある勝手な奴で。
何でそんな会話になったのか自分でも不思議でありましたが、ここで二人いることも不思議でしたし、竹中さんの生きざまへの質問だったのかなぁと。

その次のお正月だったか、ご丁寧な年賀状が竹中さんから届きました。
自分のこと、覚えていてくれたのが嬉しく。謎の妙な東京の若造でしかなかったハズなのに。
大切に残していた年賀状だったものの、自分の引越しの機会でしか目に掛かる場面が無く。いまはこの部屋の何処にあるのか。

竹中さんとお会いした数年後に自分は一時的に北海道へ戻っていました。
当時は養父が単身赴任で、冬に向かう季節の北海道で一人暮らしだった母をドライブに幾度か連れまわしたり。
共通の話題が乏しい母に「そいえば、竹中さんどうしてる?」と。「アメリカで個展開催に向かう飛行機に乗るところで吐血したそうよ」と。
そういえば、竹中さんはお酒好きだったなぁと思い出しました。
そのうちまた挨拶に伺いたいなぁと思いつつ、その機会も無く北海道をまた離れた自分。

時々、竹中さんのことは検索していたんです。
2002年に亡くなられたことも後から知りました。
そして、専業主婦向けの昼のドラマでもあった「ダンプかあちゃん」の題材になったご夫婦が、あの竹中夫妻だったこともずっと後に知りました。
乞食のような妙な男が気になった若い女性、その男は全く売れない実直な芸術家。勝手に転がり込んできた女は作品の裸体になる覚悟も、ダンプカーの運転で男の生活を支える覚悟もあり。幾度もドラマの題材になった二人。
そんな話、ご本人達からは一切聞いておらず。
普通の老人なら、自慢の一つくらいするだろうに。
だから、ますます忘れられず。(五十年近く前のドラマも丁寧な作り)

三年前の引越し後、所有していたCDを久し振りに整理しました。とりあえず、アーティスト別に並び替えて。引越し前までは部屋の至る所に散乱していたCD達だったので、大きな進歩です。
整理中、同じアルバムが幾つも見付かったり。冨田勲の「月の光」も二枚同じのがありました。多分、過去に三枚購入していたのだと思います。そのうちの一枚は竹中さんへ。
いつ購入したのだか思い出せない一枚と、冨田勲さんが亡くなられた頃に「そういえばあのアルバムは手元に残っていなかった」と勘違いして購入した一枚。そんな手元の二枚らしく。
久し振りに自宅のステレオで聴いてみたところ、やはり素晴らしいアルバムでした。
幻想的に響きつつ、何処かに刻まれる残音。

アメリカンフットボールの事件

某大学のアメリカンフットボール(以下アメフト)部の事件が話題になっています。
アメフトのルール等、自分は全く知らなく。大体、アメリカで流行っているスポーツというのは野球も含めてアメリカ以外ではマイナーな存在な気もします。
数週間前からこの件はネット上で話題になっているのですが、ルールを知らない自分はそれが反則行為なのかも当初分からず。
あんなにごっついプロテクターで固めた選手たちですから、格闘技に近いジャンル何だろうなぁくらいに思っていて。
ともかく、ボールを持っていない選手に対してのタックルは反則らしく。
勿論、選手はそんなの知っていて当たり前でしょうけれど、サッカーのオフサイドとかも面倒臭いルールだなぁと思っている分かっていない自分です。

この事件に興味を持ったのは大学側の対応でした。
既に大きな話題になってしまっているので説明も不要でしょうけれど、数年後に読み返したときにどうだったか必要そうで。
危険な反則行為により対戦相手のK大学が抗議。→N大学は意図的な反則では無かった回答。→K大学が抗議。→N大学の反則を犯した選手が謝罪会見(上からの指示であったと釈明):正直な選手の姿勢に世間は評価。→N大学がの監督とコーチが謝罪会見(そんな意味で選手に指示したのではないと釈明):矛盾だらけの釈明に世間は更に不信感。→K大学が抗議(現在この辺り)。
まぁ、巨大組織であるN大学側の体質が疑われる現状かと思います。

そのN大学で自分は大学時代にお世話位なっていました。自分は別の理工系単科大学で夜学部の学生で、昼間は駿河台にあるN大学の職員をしながら生活費と学費を稼いでいました。
学生職員という微妙な立場の自分でしたが、卒業までの期間は雇用が保証される身分で、職員証も正式なものを所有していました。
月収は生活するのにギリギリなレベルだったものの、賞与はしっかりしていて学費は何とか払える範囲で。ともかく、勤労学生向けの学生職員という制度でした。
N大学のこの制度が無ければ、自分は大学を卒業できなかったのが確実かと思います。
N大学には今でも大きな恩義を感じています。

自分が採用された経緯は過去の記事にも綴っています。かなり偶然の出会いでした。
学生職員には同期が数名居ました。しかし、自分以外は全て付属高校からN大学の夜間に上がってきた若者でした。
この付属から上がってきた連中は受験勉強をまともにしてこなかったのか、英語の構文とかにめっきり弱く、こいつらは何なのだ?と当初思ったり。自分が宿題の回答をすることもしばしば。
まぁ、付属上がりというのはN大に限らずこんなものかと思います。
ただ、一緒に仕事を続けていたら、色々と苦楽を共に出来て信頼関係はちゃんと生まれていました。自分も何度も救われています。

当時の大学での職員の立場は案外まともでした。出入りの業者さんからは自分のような若造でも先生と呼ばれたり、教員より立場が弱いということも無く。現代では正規雇用の教員も少ない様で、むしろ職員の方が立場が強いのかも知れず。昔は教員の方が圧倒的に強い立場だったらしく。
自分の様な18歳で入ってきた若造から、定年間近の管理職から、大手企業を定年して再雇用された方から、年齢層は広い職場でした。
実際、再雇用された高齢の方々は太平洋戦争で戦った経験があり、ジェネレーションギャップを越えた経験に驚いたものでした。あの方々にとっての自分は孫で、管理職の方々にとっての自分は息子で。

ともかく、当初は何処の馬の骨だか分からない存在の時分だったので、出来ることは何でもしましたし、遅刻や欠勤は絶対に避けていました。
もちろん、社会経験が少ない自分は沢山のドジを踏んだものの、周りの職員の皆さんは暖かくフォローしてくれて。それが有難くて涙したこともしばしばでした。
職員の皆さんは、包容力のある優しい大人ばかりでした。

ただ、大人同士の派閥争いみたいなのは僅かながらもあった様子でした。自分には分からない大人の事情です。
自分が生まれた時代にあったらしい学生運動の名残はまだ僅かでも存在していて。それは学生側にも教職員側にも。
当時からの職員は相当辛い思いを経験していたようでした。生々しくてここにも綴れないくらいです。
また、総長選挙の際には意味不明な怪文書が流れたり、負けた派閥についてしまった方が飛ばされたり。
でも、学生職員の自分達には関係無いことでしたし、そんな面倒臭い事象に振り回される場面は無かったです。大人達が守ってくれたのだと思います。
夜に通っていた大学よりも、社会人としての大人の振る舞いを自分は昼間に教わった感です。若い頃の痛みを知っていた方々だから、包容力を持った大人だったんだろうなぁと。
自分も、あぁなりたいなぁと。

大学の卒業と同時に自分は民間企業に就職したのですが、内定を頂いた後にN大学の本部職員の紹介を頂いていました。
そんな話はかなり有難いレアなお誘いだったらしいのですが、既に他から内定を頂いていて、自分の性分ではまだ未経験の民間の方が向いている気もしていて。
課長から説得も頂いたりでしたが、自分は民間を選びました。今考えると全く勿体ない話です。

そんな経験もあるので、N大学の職員の皆さんに自分は一生頭が上がらないです。
変わった方も中には居ましたが、ごく一部で。そんな方でも若手には優しくて。
だから、N大学の皆さんには頑張ってほしいし応援しています。
なるべく早く、ちゃんと片付いてほしい事件です。まともな判断が出来るの分かっていますし。

洞窟探検隊の思い出

子供の頃にテレビのドキュメンタリー番組で洞窟探検隊が遭難してしまい、酷い水攻め状況から数日後に何とか脱出というのを観た記憶があります。日本テレビの木曜スペシャルだったか。
川口浩の探検シリーズが定番だったテレビ朝日の水曜スペシャルに比べ、日本テレビの木曜スペシャルは子供ながらに「やらせ度」が低い印象でした。
特に「どっきりテレビ」とかは、嘘がバレた際の騙された方がかなり本気で怒ってしまうとか。前者は娯楽度、後者は本気度的な。

その洞窟探検のドキュメンタリーがずっと気になっていました。放映前には実際に数日間に渡って救出劇がテレビニュースにもなっていて。
現代ですと、世間をそんなに騒がせた事故であれば放送は出来ないのだと思います。
自分が小学校の低学年くらいの出来事でしたので、細かい部分は綺麗に忘れてしまいましたが、山奥の謎の深い洞窟を探検するチームに撮影班も同行したところ、天候の急変で洞窟には大量の雨水が滝のように流れ込み、脱出不能な状況に陥ったストーリーでした。本来は探検目的の撮影が、生き残りをかけた脱出劇になってしまい。
救助隊が現地に駆け付けたものの、晴れていても難易度が高い場所で、この大水の状況では二次災害も十分に考えられて見守るしか無い(?)流れだった様な(勿論最善は尽くされていました)。洞窟の中で奥まで行かなかった中継チームは自力(?)で何とか脱出出来たものの、その先のアタック隊は連絡も取れない状況で、数日後にやっと自力脱出した様な。

この事故がずっと忘れられず、幾度か検索したものの葬られた情報の如く手掛かりが無く。
昨夜久し振りに検索したところ、判明しました。
岩手県の「白蓮洞」という洞窟で1976年に発生した事故だった様です。自分がまだ小学二年生の頃。
自分は富士山の青木ヶ原での出来事かと勘違いしていました。検索が上手く行かなかったのはこの部分に理由があったのかも知れません。
白蓮洞は日本一深い竪型洞窟らしく、513mの深さだとか。東京タワーより余裕の高さというか深さです。ちなみにスカイツリーの展望台は450mだそうです。
ただ、それにしても情報が少なく。この事故の影響で洞窟は立ち入り禁止となってしまったそうです。
事故の一部についてはこちらのサイトで触れられています。「mixiの某トピック」「猫仙人の洞窟探検」。

沢の水が洞窟に流れ込みやすい地形だったのが、酷い状況を招いた様子でした。最悪の場面でアタック隊と連絡が取れなくなった理由はインターホンのケーブルが途中で切れてしまったからの様です。
また、何処かの大学のワンゲルがチャレンジしたと思っていましたが、社会人の探検経験豊富な方々だった様子です。
結果的に全員脱出出来た事故でしたが、まだ生存しているのかどうか分からない状況でアタック隊が洞窟の入口から戻ってきた場面は感動的でした。
遭難中の最悪時に下手に動き回らなかったのも生き延びれた理由の一つだったとか。

自分は山や海で逃げ出したい思いを経験しています。山奥で体力を消耗してしまったり、悪天候のヨットで酷い酔いに襲われたり。地上に早く戻りたい感覚。
これが車での移動でしたら、車を停めてしばらくゆっくりすれば回復するものですけれど、山や海や空ではそうも行きません。
なので、地上でのアウトドアに自分は偏りがちです。この事故は洞窟という更に特殊な環境での出来事で、恐ろしさも半端なかったかと。海中とか宇宙とかですと更に怖そうです。

この件、mixiのトピックでも気になっている方がいらっしゃるし、自分もです。
もう一度観てみたいドキュメンタリーの一つです。後世に伝えるべき事故の実録だと思うのですけれど。

ご先祖さん

高校時代からご先祖さんを時々調べていました。
子供の頃に時々会う機会のあった奈良の爺ちゃん曰く「昔は大金持ちで、釧路の駅前の土地をいっぱいもっていたんだぞ」で。
嬉しそうに語る爺ちゃんはホラ吹きに見えず、そのうち調べてみようと思っていました。

爺ちゃんの苗字は代々受け継がれる珍名。
母が離婚してから八年ほど自分もその苗字でした。
母の再婚で北海道に引越した自分は苗字も代わり、千歳市内の図書館へ伺う機会があるとカビ臭い歴史書を時々漁っていました。当時はインターネットなど無かったですし、暇潰しに図書館に伺う機会が多く。
そんな中、釧路市史に気になる記載を発見。大正時代だったかに釧路に初めて電話が導入されたそうですが、その一覧にご先祖の苗字が。
それなりの資産が無ければ、当時は電話など持てなかったと思われ、爺ちゃんの話は現実味を帯びてきました。

釧路と帯広の間に白糠という土地があるのですが、そこにはご先祖の石碑もあると聴いていました。
高校一年の夏、同い年のイトコが暮らす帯広に伺える機会があり、青春十八切符を入手した自分は小樽観光を楽しんだ後に帯広へ。
帯広へ伺う前に何故に小樽へ寄ったかというと、自分も理由を覚えていません。しかし、当時暮らしていた千歳から帯広へ直行では数時間で到着してしまうし、一日中乗れる切符を有効利用したかったのかなと思います。
当時の小樽は観光名所としての再開発はそれ程進んでいなかった記憶です。デコレーションされていない古い町並みで駄菓子問屋を偶然見つけ「点取り占い」を大人買いしたりでした。

小樽からは札幌経由で帯広へ。車窓から伺える夕日に染まったオレンジ色の十勝川は何とも美しく。ヨーロッパの絵画とも違うし、ドラマ「北の国から」でもこんな場面は無かったハズで。
乗客もまばらな各駅停車には同世代の女子高生集団も乗っていたのですが、際どい話題で盛り上がっており、そんな場面も北海道らしかったです。(またしても妙な場面を覚えているのですが、生理用品の話題なんて近くに男子が居たら本州では出さないと思うし、こちらも耳がダンボになってしまい。引率者らしき若い男性の先生は特に気にしていない様子でした)
そんなことどーでもいー。今回はご先祖さんの話なのです。

帯広のイトコの家はやたらと立派でした。冬の間にボットン便所の排泄物が凍り付いて塔になる自衛隊の官舎とは偉い違いでした。
何泊したのか記憶に無いのですが、青春十八切符はまだ何枚も残っているので、イトコと白糠へ伺うことに。歴史探検。
白糠へ到着すると、思ったより新しい建物が駅の周辺にありました。もっと寂れているイメージだったので。
大戦までは、軍に収める馬の生産で相当潤っていたと何かで読んでいて。
石碑が本当にあるのか信じてはいたもののどの辺にあるのかは定かでなく、旅の直前に電話で爺ちゃんに聴いていました。
爺ちゃん曰く「白糠からゴリ離れたチャロだよ」と。「ゴリ」とは何ぞや?で聞き返すと昔の距離の単位が「五里」だそう。

白糠に到着してからの行動予定は全く無く、とりあえず役場へ行ってみることに。
「〇〇の末裔なのですけれど、ご先祖の石碑があるとのことで調べに来たのですが、何方か分かる方はいらっしゃいますか?」。
数分待たされて、老人がやってきました。
「町史を丁度編集していたところで、〇〇さんのことも調べていたんだよ」と。
何とタイミング良かったのか。そして、立派なセダンで石碑まで案内して頂けることに。
役場の職員の方の運転で観光名所も案内して頂いたりで、想定外のサプライズとなりました。

そして辿り着いた石碑。
過去に開拓されたであろう平野の少し小高い場所に石碑は残っていました。国道と並行に走る線路沿いで、裏には小さな小学校が。(当時はまだ廃線になっていなかった記憶の白糠線)
「開拓功労者」の石碑には〇〇六太郎の名が刻まれていました。(Googleのストリートビューではまだ残っている様子です。白糠線の廃止に伴い、更に移設されたのか?ちと当時の風景と異なる感でもあり)
これはなかなかの感動でした。

同行してくださった老人の話では、「大正時代に酷い冷害があって多くの村民が困り果て、誰も助けてくれる人が居なく頼りになりそうな人には見捨てられ。そこで〇〇さんに相談したところ拾ってもらえたらしいんだよ。この石碑は一度捨てられそうになったんだけど、当時を知る老人達が反対してここに移設されたんだ」。
この石碑には何十年にも渡るドラマがあったようです。そして、ご先祖もお人好しだったようで。
編集中の町史のコピーも頂いたのですが、同様な話が綴られていました。「捨てる神、拾う神」と。

老人からは「〇〇さんのそれまでの歴史を知りたいから、何か分かることがあれば教えてほしい」と。
ただ、自分が知っているのは釧路で大きな呉服屋を営んでいた程度で、何処から来たのかまでは当時分からぬままでした。

その後、身内から聴いていた話では大戦前までその呉服屋は繁盛していて、道内に幾つも支店を構えていたそうで。当時の釧路は相当繁栄していたとも。
しかし、番頭さんの裏切りで全てを失ったと。
自分の爺ちゃんはその辺の話を詳しく伝えてくれませんでした。まぁ、大人な人格であれば孫に語る話題では無さそうです。
しかし、自分もお世話になっていた身内が亡くなった際にその番頭の倅だかが葬儀に訪れ、お酒の入っていた爺ちゃんは激怒してしまったそうで。
自分はいつも優しかった温和な爺ちゃんのことしか知りませんし、懐いてくれる孫も可愛かったのかと思います。
爺ちゃんは店を失うまで幼少期からボンボンだったそうです。しかし、その後はかなり頑張ったらしく、大手生保の子会社で社長まで上り詰めていて。
自分が二十代の中頃に爺ちゃんの葬儀に伺った際は、生保のお偉いさんが何人も参列されていました。

インターネットが普及し始めて数年経った頃、何となく検索したところ、新潟に同姓の方が見つかりました。病院で真面目な仕事をされている方の様子。(現在ではもっと沢山の同姓の方が見つかります)
試しにそのHomepageの管理者さんに電子メールを送ってみたところ、しばらくして新潟の〇〇さんから封書が届きました。
自分からの電子メールにはご先祖の石碑の画像等も添付していたので、少しは信頼して頂けた様子でした。
頂いた文章では、元々は江戸で商いをしていたそうです。家系図にも白糠の石碑の人物は残っていたそうですが、面識も無い方には詳しく語れないとの内容でした。

上記から十年以上経った昨年、Webで改めて検索してみたところ、更に詳しい情報が見つかりました。
国会図書館のDBに残る北海道の開拓関連の古い書物でした。他にも大正期の何方か(永久保秀二郎氏)の日誌をデジタル化した記録にもご先祖さんの名が所々残っていて。
江戸時代のご先祖さんは江戸や新潟で商いをし、人望も厚かったらしく地域の長も務めていたそうです。しかし、大火で全てを失ったらしく、明治期に北海道に渡り。
その後、釧路で大成功を収めたと。
当時の人物写真もDBの記録には残っていました。大正期で既にかなりの老人でした。

江戸時代から大正時代までのご先祖さんの記録が残っているのは、なかなか貴重というか、珍しいというか。