竹中敏洋さんの思い出

高校を卒業するまでの四年間暮らした北海道の千歳には支笏湖という観光地があり、冬場にはそこで氷凍祭りというイベントが開催されていました。
氷点下の中、氷で作られた像が並ぶ神秘的なイベントでした。自分がこの像を観れたのはずっと後のことで。
というのも、真冬の移動手段は車しか無く、中高生だった自分はバスを使って遠く寒い場所に行くまでも無いかと。夏であれば自転車か単車で行けたのですけれど。
それに、その氷の像というのが著作権関連で揉めていたという噂も面倒臭く。像は雪から作るのでなく、氷点下の中で水を撒いて凍った産物らしく。その製法と表現方法を確立した芸術家の断りも無く実施していたそうで。
当時、アート系に興味ある地元の知人に聴いても、氷凍祭りは興味の対象外だったようです。

社会人になって数年経った頃、夏の終わりくらいに北海道へ帰省した機会がありました。
流れ者な町であった千歳に残っている友人は少なく、親の車を借りて近場の観光を楽しむ程度でした。
当時、自分の母は油絵に凝っていて、地域の文化活動にも関わっていたそうです。自分の出身校の先生とも繋がりがあったらしく、その中には自分の尊敬していた国語の平田先生も含まれていて。

この平田先生というのがナカナカの変わり者で。国語の試験で記述式の回答があると、滅多に×を付けられない性格で。
文章に対する解釈は一通りでなく、模範的回答以外の解釈にも理解を示してしまうというか否定は出来ない方でした。その度に考え込んでしまうそうで。
こういった先生は高校よりも大学の方が似合うのかと思いつつ、頭ごなしに否定しない姿勢に見習うべき点は多かったです。立場や権力で生徒を押し込める教師が普通で。
あと、先生の趣味がまた面白かったんです。オーディオマニアで、高価な機材を入手しては奥さんに怒られてしまうこともしばしばだったそうで。当時はまだCDが市場に出回り出したばかりの時代でした。
そんな中、録音の良いCDを自分は先生から沢山お借りしていて。アルバイトで稼いだお金をJazzのCDに注ぎ込んでいた自分もお返しにCDを貸したりで。教師と生徒の関係としては不適切だったかも知れませんが、自分の全く興味なかったジャンルやアーティストに触れられる機会を頂けて。こんな曲や表現方法もあるんだなぁと。
国語という限られた科目に置くには勿体ない先生でした。「表現と解釈」といった、もっと漠然としたテーマの方が似合っていたかと。これは文化や人種や言語を越えたコミュニケーション方法でもあって。

話を戻さねば。
その平田先生と繋がりのある芸術家が市民ホール(千歳市民文化センター)で個展を開くらしく、暇を持て余していた自分は母の勧めで個展に行くことに。母の造った大作も市民ホールの階段に飾られているそうで。
何の期待もしていなかった個展ですが、これが面白かったんです。印画紙を応用した作品は他に観たことが無く、独特な世界観。イマジネーション膨らむ作品群。
作者の方はその場には居なく、作者の奥さんがギャラリーを受け持っていて。
その奥さんと少しお話をさせてもらったところ、作者とのトークベントが後日あると。
あの作品の雰囲気は冨田勲の月の光に近いなぁと、地元のレコード屋さんでCDを入手し後日の夜も同じ場所へ。
(この記事を綴っている理由も、昨夜観た夜叉ヶ池で冨田勲さんの作品が使われていた故です)

作者のトークイベントも楽しかったです。参加者がとても少なかった中、プロのパーカッションプレイヤーの方と物の叩き合い的なセッションもあったりで。
作者は竹中敏洋さんという方で、元々は千歳で中学校の教師をしていたものの、作品制作の世界に没頭したかったらしく、周りの反対を押し切って芸術家の道に進んだらしく。
しかし、その世界で認められるチャンスは何年も訪れず、極貧生活が続いたそうで。教師時代に「先生先生」と持ち上げてきた方々からも冷たい視線を受けるばかり。
ご自身が嘗て製作した作品の一つだけを頼りにしばらく生きていたそうです。イベントではその作品を持参されていました。例えの難しい作品は表面のゴツゴツした少し伸びたタケノコのようなモニュメントというか。
全てを失った中、その作品を腕に抱えて真冬の夜汽車に揺られたこともあったと。
その中に自慢話は含まれておらず、いまは人里離れた場所で作品造りと。

頂いたパンフレットを観たところ、例の氷凍祭りで争っていたらしい芸術家でした。
個展の中で目に付いた作品の中に「偽善者」(記憶が曖昧なのですが、そんなタイトル)というのがあって、それが特に印象的でした。真っ黒の背景の中に細い白い線で描かれた弧。垂れ下がった真ん中には首が吊るされた細い人のシルエット。
静かなる抗議な作品だったようです。あの盗作に対する抗議だったのかなぁと。
どうにも気になる竹中さん、東京に戻る前日にご自宅へ車で伺ってみました。何のアポも無く向かった夕方、会えなくても仕方なく。
大きな地図を観ながら走ったルートは、高校時代に幾度かバスで経験した風景でした。盤尻というエリアはその先に市民スキー場があり、学生はナイター券を安く入手出来たので友人達と伺っていて。
しかし、冬の雪景色とは一味違っていました。夏の終わり頃の枯れはじめた土地というか。枯れてはいないものの、夏の始まりの勢いある緑とは別の衰える緑。

民家が少ないエリアだったので、竹中さんのご自宅はすぐに見つかりました。通り過ぎた道を引き返し、手作りっぽい木製のご自宅へ。(木造というより木製でした)
玄関をノックしてみると、先日の奥さんが。居間に案内されて竹中さんと世間話。そのままアトリエへ。アトリエといっても屋外でした。ご自宅の裏には川が流れていて。
冬になると、ポンプで川から引いた水を撒き、作品作りに没頭すると。
ポンプや照明に必要な電源周りの工作や電線の引き回しもご自身でやられたそうです。この時代にこんな人が生きているのが斬新でした。元々は何も無かったらしき場所なハズ。
真冬の北海道でこんな人里離れた場所、一歩間違えたら簡単に死ねてしまいます。ゼロからここまで続けてこれたことに見習うべき何かが大きく。幾度の冬をここで越してきたのだか。
どんな話をしたのかほとんど覚えていないのですが、この会話だけは覚えています。

 SUKIYAKI:時々変な夢を想てしまうんですよ。空を飛んでいる夢なんですけれど、地上に戻りたいと必死に泳いだり電線を捕まえようとかするんですけれど、酷い時なんて宇宙の彼方で一人っきりで、
 竹中さん:そのままそこに居ればいいじゃないか。

自分は人付き合いが下手な面を自覚していて、一人で居たい時はもちろんあります。それでも人里が恋しくなる部分もある勝手な奴で。
何でそんな会話になったのか自分でも不思議でありましたが、ここで二人いることも不思議でしたし、竹中さんの生きざまへの質問だったのかなぁと。

その次のお正月だったか、ご丁寧な年賀状が竹中さんから届きました。
自分のこと、覚えていてくれたのが嬉しく。謎の妙な東京の若造でしかなかったハズなのに。
大切に残していた年賀状だったものの、自分の引越しの機会でしか目に掛かる場面が無く。いまはこの部屋の何処にあるのか。

竹中さんとお会いした数年後に自分は一時的に北海道へ戻っていました。
当時は養父が単身赴任で、冬に向かう季節の北海道で一人暮らしだった母をドライブに幾度か連れまわしたり。
共通の話題が乏しい母に「そいえば、竹中さんどうしてる?」と。「アメリカで個展開催に向かう飛行機に乗るところで吐血したそうよ」と。
そういえば、竹中さんはお酒好きだったなぁと思い出しました。
そのうちまた挨拶に伺いたいなぁと思いつつ、その機会も無く北海道をまた離れた自分。

時々、竹中さんのことは検索していたんです。
2002年に亡くなられたことも後から知りました。
そして、専業主婦向けの昼のドラマでもあった「ダンプかあちゃん」の題材になったご夫婦が、あの竹中夫妻だったこともずっと後に知りました。
乞食のような妙な男が気になった若い女性、その男は全く売れない実直な芸術家。勝手に転がり込んできた女は作品の裸体になる覚悟も、ダンプカーの運転で男の生活を支える覚悟もあり。幾度もドラマの題材になった二人。
そんな話、ご本人達からは一切聞いておらず。
普通の老人なら、自慢の一つくらいするだろうに。
だから、ますます忘れられず。(五十年近く前のドラマも丁寧な作り)

三年前の引越し後、所有していたCDを久し振りに整理しました。とりあえず、アーティスト別に並び替えて。引越し前までは部屋の至る所に散乱していたCD達だったので、大きな進歩です。
整理中、同じアルバムが幾つも見付かったり。冨田勲の「月の光」も二枚同じのがありました。多分、過去に三枚購入していたのだと思います。そのうちの一枚は竹中さんへ。
いつ購入したのだか思い出せない一枚と、冨田勲さんが亡くなられた頃に「そういえばあのアルバムは手元に残っていなかった」と勘違いして購入した一枚。そんな手元の二枚らしく。
久し振りに自宅のステレオで聴いてみたところ、やはり素晴らしいアルバムでした。
幻想的に響きつつ、何処かに刻まれる残音。

アメリカンフットボールの事件

某大学のアメリカンフットボール(以下アメフト)部の事件が話題になっています。
アメフトのルール等、自分は全く知らなく。大体、アメリカで流行っているスポーツというのは野球も含めてアメリカ以外ではマイナーな存在な気もします。
数週間前からこの件はネット上で話題になっているのですが、ルールを知らない自分はそれが反則行為なのかも当初分からず。
あんなにごっついプロテクターで固めた選手たちですから、格闘技に近いジャンル何だろうなぁくらいに思っていて。
ともかく、ボールを持っていない選手に対してのタックルは反則らしく。
勿論、選手はそんなの知っていて当たり前でしょうけれど、サッカーのオフサイドとかも面倒臭いルールだなぁと思っている分かっていない自分です。

この事件に興味を持ったのは大学側の対応でした。
既に大きな話題になってしまっているので説明も不要でしょうけれど、数年後に読み返したときにどうだったか必要そうで。
危険な反則行為により対戦相手のK大学が抗議。→N大学は意図的な反則では無かった回答。→K大学が抗議。→N大学の反則を犯した選手が謝罪会見(上からの指示であったと釈明):正直な選手の姿勢に世間は評価。→N大学がの監督とコーチが謝罪会見(そんな意味で選手に指示したのではないと釈明):矛盾だらけの釈明に世間は更に不信感。→K大学が抗議(現在この辺り)。
まぁ、巨大組織であるN大学側の体質が疑われる現状かと思います。

そのN大学で自分は大学時代にお世話位なっていました。自分は別の理工系単科大学で夜学部の学生で、昼間は駿河台にあるN大学の職員をしながら生活費と学費を稼いでいました。
学生職員という微妙な立場の自分でしたが、卒業までの期間は雇用が保証される身分で、職員証も正式なものを所有していました。
月収は生活するのにギリギリなレベルだったものの、賞与はしっかりしていて学費は何とか払える範囲で。ともかく、勤労学生向けの学生職員という制度でした。
N大学のこの制度が無ければ、自分は大学を卒業できなかったのが確実かと思います。
N大学には今でも大きな恩義を感じています。

自分が採用された経緯は過去の記事にも綴っています。かなり偶然の出会いでした。
学生職員には同期が数名居ました。しかし、自分以外は全て付属高校からN大学の夜間に上がってきた若者でした。
この付属から上がってきた連中は受験勉強をまともにしてこなかったのか、英語の構文とかにめっきり弱く、こいつらは何なのだ?と当初思ったり。自分が宿題の回答をすることもしばしば。
まぁ、付属上がりというのはN大に限らずこんなものかと思います。
ただ、一緒に仕事を続けていたら、色々と苦楽を共に出来て信頼関係はちゃんと生まれていました。自分も何度も救われています。

当時の大学での職員の立場は案外まともでした。出入りの業者さんからは自分のような若造でも先生と呼ばれたり、教員より立場が弱いということも無く。現代では正規雇用の教員も少ない様で、むしろ職員の方が立場が強いのかも知れず。昔は教員の方が圧倒的に強い立場だったらしく。
自分の様な18歳で入ってきた若造から、定年間近の管理職から、大手企業を定年して再雇用された方から、年齢層は広い職場でした。
実際、再雇用された高齢の方々は太平洋戦争で戦った経験があり、ジェネレーションギャップを越えた経験に驚いたものでした。あの方々にとっての自分は孫で、管理職の方々にとっての自分は息子で。

ともかく、当初は何処の馬の骨だか分からない存在の時分だったので、出来ることは何でもしましたし、遅刻や欠勤は絶対に避けていました。
もちろん、社会経験が少ない自分は沢山のドジを踏んだものの、周りの職員の皆さんは暖かくフォローしてくれて。それが有難くて涙したこともしばしばでした。
職員の皆さんは、包容力のある優しい大人ばかりでした。

ただ、大人同士の派閥争いみたいなのは僅かながらもあった様子でした。自分には分からない大人の事情です。
自分が生まれた時代にあったらしい学生運動の名残はまだ僅かでも存在していて。それは学生側にも教職員側にも。
当時からの職員は相当辛い思いを経験していたようでした。生々しくてここにも綴れないくらいです。
また、総長選挙の際には意味不明な怪文書が流れたり、負けた派閥についてしまった方が飛ばされたり。
でも、学生職員の自分達には関係無いことでしたし、そんな面倒臭い事象に振り回される場面は無かったです。大人達が守ってくれたのだと思います。
夜に通っていた大学よりも、社会人としての大人の振る舞いを自分は昼間に教わった感です。若い頃の痛みを知っていた方々だから、包容力を持った大人だったんだろうなぁと。
自分も、あぁなりたいなぁと。

大学の卒業と同時に自分は民間企業に就職したのですが、内定を頂いた後にN大学の本部職員の紹介を頂いていました。
そんな話はかなり有難いレアなお誘いだったらしいのですが、既に他から内定を頂いていて、自分の性分ではまだ未経験の民間の方が向いている気もしていて。
課長から説得も頂いたりでしたが、自分は民間を選びました。今考えると全く勿体ない話です。

そんな経験もあるので、N大学の職員の皆さんに自分は一生頭が上がらないです。
変わった方も中には居ましたが、ごく一部で。そんな方でも若手には優しくて。
だから、N大学の皆さんには頑張ってほしいし応援しています。
なるべく早く、ちゃんと片付いてほしい事件です。まともな判断が出来るの分かっていますし。

洞窟探検隊の思い出

子供の頃にテレビのドキュメンタリー番組で洞窟探検隊が遭難してしまい、酷い水攻め状況から数日後に何とか脱出というのを観た記憶があります。日本テレビの木曜スペシャルだったか。
川口浩の探検シリーズが定番だったテレビ朝日の水曜スペシャルに比べ、日本テレビの木曜スペシャルは子供ながらに「やらせ度」が低い印象でした。
特に「どっきりテレビ」とかは、嘘がバレた際の騙された方がかなり本気で怒ってしまうとか。前者は娯楽度、後者は本気度的な。

その洞窟探検のドキュメンタリーがずっと気になっていました。放映前には実際に数日間に渡って救出劇がテレビニュースにもなっていて。
現代ですと、世間をそんなに騒がせた事故であれば放送は出来ないのだと思います。
自分が小学校の低学年くらいの出来事でしたので、細かい部分は綺麗に忘れてしまいましたが、山奥の謎の深い洞窟を探検するチームに撮影班も同行したところ、天候の急変で洞窟には大量の雨水が滝のように流れ込み、脱出不能な状況に陥ったストーリーでした。本来は探検目的の撮影が、生き残りをかけた脱出劇になってしまい。
救助隊が現地に駆け付けたものの、晴れていても難易度が高い場所で、この大水の状況では二次災害も十分に考えられて見守るしか無い(?)流れだった様な(勿論最善は尽くされていました)。洞窟の中で奥まで行かなかった中継チームは自力(?)で何とか脱出出来たものの、その先のアタック隊は連絡も取れない状況で、数日後にやっと自力脱出した様な。

この事故がずっと忘れられず、幾度か検索したものの葬られた情報の如く手掛かりが無く。
昨夜久し振りに検索したところ、判明しました。
岩手県の「白蓮洞」という洞窟で1976年に発生した事故だった様です。自分がまだ小学二年生の頃。
自分は富士山の青木ヶ原での出来事かと勘違いしていました。検索が上手く行かなかったのはこの部分に理由があったのかも知れません。
白蓮洞は日本一深い竪型洞窟らしく、513mの深さだとか。東京タワーより余裕の高さというか深さです。ちなみにスカイツリーの展望台は450mだそうです。
ただ、それにしても情報が少なく。この事故の影響で洞窟は立ち入り禁止となってしまったそうです。
事故の一部についてはこちらのサイトで触れられています。「mixiの某トピック」「猫仙人の洞窟探検」。

沢の水が洞窟に流れ込みやすい地形だったのが、酷い状況を招いた様子でした。最悪の場面でアタック隊と連絡が取れなくなった理由はインターホンのケーブルが途中で切れてしまったからの様です。
また、何処かの大学のワンゲルがチャレンジしたと思っていましたが、社会人の探検経験豊富な方々だった様子です。
結果的に全員脱出出来た事故でしたが、まだ生存しているのかどうか分からない状況でアタック隊が洞窟の入口から戻ってきた場面は感動的でした。
遭難中の最悪時に下手に動き回らなかったのも生き延びれた理由の一つだったとか。

自分は山や海で逃げ出したい思いを経験しています。山奥で体力を消耗してしまったり、悪天候のヨットで酷い酔いに襲われたり。地上に早く戻りたい感覚。
これが車での移動でしたら、車を停めてしばらくゆっくりすれば回復するものですけれど、山や海や空ではそうも行きません。
なので、地上でのアウトドアに自分は偏りがちです。この事故は洞窟という更に特殊な環境での出来事で、恐ろしさも半端なかったかと。海中とか宇宙とかですと更に怖そうです。

この件、mixiのトピックでも気になっている方がいらっしゃるし、自分もです。
もう一度観てみたいドキュメンタリーの一つです。後世に伝えるべき事故の実録だと思うのですけれど。

ご先祖さん

高校時代からご先祖さんを時々調べていました。
子供の頃に時々会う機会のあった奈良の爺ちゃん曰く「昔は大金持ちで、釧路の駅前の土地をいっぱいもっていたんだぞ」で。
嬉しそうに語る爺ちゃんはホラ吹きに見えず、そのうち調べてみようと思っていました。

爺ちゃんの苗字は代々受け継がれる珍名。
母が離婚してから八年ほど自分もその苗字でした。
母の再婚で北海道に引越した自分は苗字も代わり、千歳市内の図書館へ伺う機会があるとカビ臭い歴史書を時々漁っていました。当時はインターネットなど無かったですし、暇潰しに図書館に伺う機会が多く。
そんな中、釧路市史に気になる記載を発見。大正時代だったかに釧路に初めて電話が導入されたそうですが、その一覧にご先祖の苗字が。
それなりの資産が無ければ、当時は電話など持てなかったと思われ、爺ちゃんの話は現実味を帯びてきました。

釧路と帯広の間に白糠という土地があるのですが、そこにはご先祖の石碑もあると聴いていました。
高校一年の夏、同い年のイトコが暮らす帯広に伺える機会があり、青春十八切符を入手した自分は小樽観光を楽しんだ後に帯広へ。
帯広へ伺う前に何故に小樽へ寄ったかというと、自分も理由を覚えていません。しかし、当時暮らしていた千歳から帯広へ直行では数時間で到着してしまうし、一日中乗れる切符を有効利用したかったのかなと思います。
当時の小樽は観光名所としての再開発はそれ程進んでいなかった記憶です。デコレーションされていない古い町並みで駄菓子問屋を偶然見つけ「点取り占い」を大人買いしたりでした。

小樽からは札幌経由で帯広へ。車窓から伺える夕日に染まったオレンジ色の十勝川は何とも美しく。ヨーロッパの絵画とも違うし、ドラマ「北の国から」でもこんな場面は無かったハズで。
乗客もまばらな各駅停車には同世代の女子高生集団も乗っていたのですが、際どい話題で盛り上がっており、そんな場面も北海道らしかったです。(またしても妙な場面を覚えているのですが、生理用品の話題なんて近くに男子が居たら本州では出さないと思うし、こちらも耳がダンボになってしまい。引率者らしき若い男性の先生は特に気にしていない様子でした)
そんなことどーでもいー。今回はご先祖さんの話なのです。

帯広のイトコの家はやたらと立派でした。冬の間にボットン便所の排泄物が凍り付いて塔になる自衛隊の官舎とは偉い違いでした。
何泊したのか記憶に無いのですが、青春十八切符はまだ何枚も残っているので、イトコと白糠へ伺うことに。歴史探検。
白糠へ到着すると、思ったより新しい建物が駅の周辺にありました。もっと寂れているイメージだったので。
大戦までは、軍に収める馬の生産で相当潤っていたと何かで読んでいて。
石碑が本当にあるのか信じてはいたもののどの辺にあるのかは定かでなく、旅の直前に電話で爺ちゃんに聴いていました。
爺ちゃん曰く「白糠からゴリ離れたチャロだよ」と。「ゴリ」とは何ぞや?で聞き返すと昔の距離の単位が「五里」だそう。

白糠に到着してからの行動予定は全く無く、とりあえず役場へ行ってみることに。
「〇〇の末裔なのですけれど、ご先祖の石碑があるとのことで調べに来たのですが、何方か分かる方はいらっしゃいますか?」。
数分待たされて、老人がやってきました。
「町史を丁度編集していたところで、〇〇さんのことも調べていたんだよ」と。
何とタイミング良かったのか。そして、立派なセダンで石碑まで案内して頂けることに。
役場の職員の方の運転で観光名所も案内して頂いたりで、想定外のサプライズとなりました。

そして辿り着いた石碑。
過去に開拓されたであろう平野の少し小高い場所に石碑は残っていました。国道と並行に走る線路沿いで、裏には小さな小学校が。(当時はまだ廃線になっていなかった記憶の白糠線)
「開拓功労者」の石碑には〇〇六太郎の名が刻まれていました。(Googleのストリートビューではまだ残っている様子です。白糠線の廃止に伴い、更に移設されたのか?ちと当時の風景と異なる感でもあり)
これはなかなかの感動でした。

同行してくださった老人の話では、「大正時代に酷い冷害があって多くの村民が困り果て、誰も助けてくれる人が居なく頼りになりそうな人には見捨てられ。そこで〇〇さんに相談したところ拾ってもらえたらしいんだよ。この石碑は一度捨てられそうになったんだけど、当時を知る老人達が反対してここに移設されたんだ」。
この石碑には何十年にも渡るドラマがあったようです。そして、ご先祖もお人好しだったようで。
編集中の町史のコピーも頂いたのですが、同様な話が綴られていました。「捨てる神、拾う神」と。

老人からは「〇〇さんのそれまでの歴史を知りたいから、何か分かることがあれば教えてほしい」と。
ただ、自分が知っているのは釧路で大きな呉服屋を営んでいた程度で、何処から来たのかまでは当時分からぬままでした。

その後、身内から聴いていた話では大戦前までその呉服屋は繁盛していて、道内に幾つも支店を構えていたそうで。当時の釧路は相当繁栄していたとも。
しかし、番頭さんの裏切りで全てを失ったと。
自分の爺ちゃんはその辺の話を詳しく伝えてくれませんでした。まぁ、大人な人格であれば孫に語る話題では無さそうです。
しかし、自分もお世話になっていた身内が亡くなった際にその番頭の倅だかが葬儀に訪れ、お酒の入っていた爺ちゃんは激怒してしまったそうで。
自分はいつも優しかった温和な爺ちゃんのことしか知りませんし、懐いてくれる孫も可愛かったのかと思います。
爺ちゃんは店を失うまで幼少期からボンボンだったそうです。しかし、その後はかなり頑張ったらしく、大手生保の子会社で社長まで上り詰めていて。
自分が二十代の中頃に爺ちゃんの葬儀に伺った際は、生保のお偉いさんが何人も参列されていました。

インターネットが普及し始めて数年経った頃、何となく検索したところ、新潟に同姓の方が見つかりました。病院で真面目な仕事をされている方の様子。(現在ではもっと沢山の同姓の方が見つかります)
試しにそのHomepageの管理者さんに電子メールを送ってみたところ、しばらくして新潟の〇〇さんから封書が届きました。
自分からの電子メールにはご先祖の石碑の画像等も添付していたので、少しは信頼して頂けた様子でした。
頂いた文章では、元々は江戸で商いをしていたそうです。家系図にも白糠の石碑の人物は残っていたそうですが、面識も無い方には詳しく語れないとの内容でした。

上記から十年以上経った昨年、Webで改めて検索してみたところ、更に詳しい情報が見つかりました。
国会図書館のDBに残る北海道の開拓関連の古い書物でした。他にも大正期の何方か(永久保秀二郎氏)の日誌をデジタル化した記録にもご先祖さんの名が所々残っていて。
江戸時代のご先祖さんは江戸や新潟で商いをし、人望も厚かったらしく地域の長も務めていたそうです。しかし、大火で全てを失ったらしく、明治期に北海道に渡り。
その後、釧路で大成功を収めたと。
当時の人物写真もDBの記録には残っていました。大正期で既にかなりの老人でした。

江戸時代から大正時代までのご先祖さんの記録が残っているのは、なかなか貴重というか、珍しいというか。

月とキャベツと

流行歌に疎い自分でも、山崎まさよしさんの”One more time, One more chance”は当時からお気に入りでCDも持っていたりします。
主題歌が使われた映画”月とキャベツ”も良作とのことで、ずっと気になっていて。
あれから二十年も経った昨夜、Web経由で観てみたのですが、これは切ない。

【ストーリーは】
売れっ子バンドを解散しソロになった主人公は創作意欲も湧かない中、田舎へ引っ込んでキャベツ作りに暮れる日々。
そこへ謎の白い女の子が転がり込んできた夏。
主人公は追い払おうとするのですが、新曲を望む女の子は離れようとせず居候に成功。

喜怒哀楽が抜けた日々、少しずつ色彩が戻ってきた主人公。荷物置き場と化したピアノの蓋も久し振りに開けることに。
ダンサー志望の女の子は主人公の新曲で踊るのが夢で、少しずつカタチになってゆく曲をバックに踊ってみせたり。
新曲がカタチになり始めた頃、女の子の正体が主人公の親友(カメラマン)に知られてしまいます。

北海道の田舎で暮らす高校生の女の子は東京で予定される創作ダンスのコンクールに向けて大きな台風の中旅立ちました。
しかし、川沿いのバス停で土砂崩れに巻き込まれ、女の子は帰らぬ人へ。発見された亡骸のウォークマンからは主人公の嘗ての曲が流れ続け。
前年のコンクールを偶然撮影していたカメラマン、舞台裏の一枚の写真がキッカケで既にこの夏に女の子が他界していることを知り。

やる気を取り戻した主人公を支えてくれた女の子に、カメラマンは「ずっと奴の傍にいてほしい」と伝えるのですが、女の子は「もうすぐ夏休みが終わってしまうから」と。
新曲の完成まであと一歩の頃、女の子は主人公にかけがえのない存在になっていました。しかし、お礼の言葉を残しフワッと消えてしまい。
もう会えないのか。曲も詞も完成したある日、主人公は空に向かってハーモニカの音色で女の子を呼び戻そうと。
その晩、完成した曲を演奏していると、女の子はフワッと現れピアノの前で踊りが始まり。

要約が下手な自分ですが、結末も含めてこんなストーリーでした。
映画としての作りの甘さは隠せない部分が幾つかあったものの、伝えたい部分はしっかり伝わった佳作でした。

【自分の場合】
作品に登場したあの細くて白い女の子、自分の思い出の中にも近い存在が居ました。
容姿が似ているというより、雰囲気がです。妖精でした。

高校三年の春のこと、街から離れたいつものバスには同じ高校の制服を着た新顔もちらほら。
詰襟の男子もセーラー服の女子も皆小綺麗で、まだ幼さが残っていて。擦れた雰囲気の新顔は今年も一人もおらず一安心。
同じバスに何年も乗る自分は、新学期だというのにいつ洗濯したか分からない小汚い詰襟に寝不足なボサボサ頭に無精ひげ。最初からこうでは無かった。
丸暗記が苦手な三年生、解き慣れが必須な数学の教科書をいつも忍ばすおかしな奴。

そんな日々、時々目が合う女の子が居ました。見るからに童顔の真っ白な新入生。
場慣れしてだらしなくなった上級生がさぞや珍しい動物園の珍獣なのか、目が合えば逸らされるばかり。
部活に属していなかった自分が下級生と接触するのは通学のバスか、昼休みの階段くらいしかありませんでした。
そんな中、この白い子はすれ違う機会が何故か多く。

その年の文化祭で自分は少し目立たせてもらいました。
自分は学級委員のような立場を三年間続けていて、クラスのまとめ役な場面が多く。
成績が良かったワケでも無く、煙草もお酒も単車もたしなむ全く相応しくない立場でしたが、その役を決める場面は誰かによる勝手な推薦と一同の拍手で事収まる流れ。嫌がる本人に拒否権など無く。
学級委員といっても、一週間の時間割を大きな紙に描いて教室に貼るといった裏方作業ばかりで、イベントの予定では面倒な纏め役であったり。
役職特権みたいなのは当時から嫌いだったので、イベントの役割分担ではいつも余り物を拾っていました。

体育祭は運動音痴な自分に活躍の場が無かったですが、文化祭は毎年楽しみでした。
前年の二つの出し物も上手く行き。街中をパレードする仮装行列とステージ発表はどちらも満足の出来でしたが、受験を控えた今回は余り手を掛けないで行く流れでした。
手を掛け過ぎると衣装代で足が出てしまった例もあって、ともかくあり合わせのモノと知恵を有効利用しようと。
実際、予算は余ってしまったのですが、理系のクラスで僅かな人数の女の子達の衣装作りは毎度大変だったと思います。
仮装行列はインディアンを題材にし、みすぼらしさと勢いとノリで大当たりか大外れのどちらかしか狙えない内容。
よし行くぞよ。なんじ馬鹿になれ。

第三位からの結果発表で二位までに入れず、これは駄目だったかと半分沈んだところで一位は我がクラス。これはかなり嬉しかったです。皆またしてもインディアンの雄叫びで大騒ぎ。
この本番、先頭で段ボール製のトーテムポールの中に潜んだ自分は見守る観衆の中に子供を見付けると襲い掛かって喜んでいました。後方の皆も負けじと馬鹿騒ぎに大笑い。
いつもお世話になっていた本屋の女将さんに、イーヅカはこの中です!お借りしたリヤカーは後ろの馬車です!

そして、文化祭のもう一つのイベントがステージ発表。
音楽室から借りてきた沢山のギター、弾けそうな奴らを寄せ集めし、フロントに靴墨を塗った数人でシャネルズ(ラッツ・アンド・スター)バンドでした。
自分はラッパが吹けるということで、フロントラインに。目立てる役はこれが最初で最後でした。三年間のご褒美的な意味合いもあったかも知れません。
この一曲だけでは時間が余り過ぎてしまうので、最後は皆で肩を組みつつ「若者達」の合唱で。如何にも田舎の高校生らしく。

その時の笑顔の皆の写真が残っています。ぜんぜんカッコつけていなくて、生き生きとしていて。
自分は直前のラッパをしくじらなくて、ちょっとした安堵も入っていました。目立ちたがり屋な部分もあるのに、本番では力んでしまう不器用な奴で。
そして、明日からは大学に向けた受験勉強に励まなくてはいけないという哀愁も。
(あの時のステージ衣装は上出来なタキシードで、自分は欲しかったのですが本番後の楽屋で紛失してしまい。必死に探したところ製作してくれたクラスの子に奪われてしまったそうで。二千円で買うと取引を持ち掛けても認められず。大体、あんな汗臭いの恥ずかしく)

文化祭のステージで目立ってしまうと、後日は後輩からファンレターのようなモノを頂いてしまったりです。
これは自分に限らずですが、自分も頂いたりしてしまいました。時として集団でやってくることも。
普段の自分はステージの上のヒーローではなく、年中馬鹿な事ばかり企てている駄目な奴で。白馬の王子ではなく、ロバを引っ張るドン・キホーテ。
自分は卒業したらこの北海道から離れる予定でしたし、恋愛はその先と決めていました。
だいたい、アルバイトばかりしていた自分の成績は既に下の領域で、如何に効率良くあと数ヵ月で巻き返すかが重要課題。他の幾つも捨てなければ。
これを乗り越えなければ先が無く。それ以外の選択肢は考えられなく。

北海道の夏は八月末の文化祭と共にサッと去ってしまいます。夏は昨日までだよと。本州出身の自分としては、残酷過ぎる夏の終わりです。
親しかった友人達とは、いつも昼休みを図書室で過ごしていました。それまでは「こんな変な本があったゼ!」とか好奇心旺盛な仲間でしたが、受験勉強が始まると、そこで過去問を解くばかりのつまらない集団になりかけ。
時折やってくる女の子達には気付かぬフリをしていました。しかし、中には積極的な女性も居ました。合格祈願のお守りを頂いてしまったことも。
そのずっと後ろに、例の白い女の子も。
積極的なのは一学年下で、二学年下の白い子は心配そうに見つめている様子。
どうしてここに?

あの秋から数ヵ月、誰しも不安の中で孤独と戦っていました。
新年からは自宅学習期間で学校に通う必要もなく。時々様子見に伺っても、僅かな生徒だけの教室は夏が終わるまでのあの頃とは別の空気で、寒い自宅で布団に包まりながら問題集を解く方がまだ居心地良く。

希望の大学から合格通知を頂いた自分は、サッサとこの寒い土地から離れたい一心でした。本州の中心で、沢山の刺激が待っているに違いなく。大体、北海道での自分は出来ることなどとっくにやり尽くしていました。
そして、北海道の春先というのは寒さは和らぐものの、雪解けの始まった道路はドロドロで純白の雪とは程遠く美しくなく。
親しかった友人の何人かは浪人となり、特に文化祭で頑張ってくれた友人には申し訳なくて。自分が馬鹿色に染めてしまった夏が落としてしまったかもと懺悔の念。
みんな受かってほしかった。

高校の卒業式は初めてのパーマヘアーが大失敗で、そそくさと去った記憶程度です。皆、もうこの環境に飽き飽きしていたとも思えます。
最後にひと暴れしようか?と仲間内で話し合いもありましたが、最後くらい穏やかに過ごそうとなり、お通夜のような卒業式でした。
「沢山の素敵な思い出をありがとう」だけでした。一緒に馬鹿をやってくれた同期にも、校則違反を知りながらも見守っていてくれた大人達にも。

最後の文化祭は相当な盛り上がりで、特に三年生のレベルはどのクラスも大したものでした。それに感激した新入生は地元の新聞に投稿が採用されたりしたそうで。
当時ギリギリで学区内トップの成績だった母校は、現在ライバル校に相当な差を付けられてしまったそうで、これはちと残念です。何よりもあの仮装行列も後夜祭のウイットに富んだ挑戦状も既に失われたらしく。それでケジメはつくのか。
自分のクラスは浪人を含めると過半数以上が国公立大に進み、歴代でも一番優秀だったそうです。

それと、卒業式の夜は地元の居酒屋が同期の各クラス単位で何処も貸し切り状況でした。
おおらかな時代です。羽目を外す範囲も皆さんわきまえていたと思えて、特に事故も無く大人達は見守ってくれていた様子でした。
今の時代は何もかも無駄に厳し過ぎとも思う自分です。ハタチに突然大人になれるワケなんて無くて。

東京に出た自分は九月の終わり頃に初めての彼女と出逢っていました。
時はバブルど真ん中な時代、お金も地位もコネも無い自分と付き合ってくれた女性に日々感謝しつつ。
昼間の仕事と夜の大学で平日が終わる日々でした。平日といっても当時は土曜も平日です。
彼女と会えるのは日曜日か祭日だけで、デートもお金の掛からない公園ばかり。
彼女は以前の彼氏にドライブに連れて行ってもらえたり、話題のスポットに連れて行ってもらえたりだったそう。
彼女のお姉さんは彼氏との週末でゴルフやビーチを楽しんでいたり。
自分はそんなの無理でしたし、ささやかなサプライズを用意するくらいで。

毎度申し訳ないなぁと思いつつの十月のデートは既に幾度目かの上野公園。この辺りは食事も安くて美味しくて。
美術館を巡った後、夕暮れ時の公園で見覚えのある制服達が。セーラー服の肩には鶴の刺繍。こんなの自分の母校しか観たことが無く。
「〇〇高校の生徒ですか?」と咄嗟に聴いてしまいました。
「はい」と。

修学旅行で東京に寄っているらしく、彼女の手を引っ張り集合場所の大きなレストランに走りました。二年前に自分も利用した場所です。
集合場所では懐かしい先生達も。自分は元気にやってますよと挨拶し。
隣の彼女は突拍子もない出来事に困惑していた様子でした。

集合場所を離れようとしたところ、二人組の女の子が駆け寄ってきました。
腕を引っ張られる女の子は、あの白い子。
「先輩。。」と頼りなさ気な声に涙ぐむ瞳。

何じゃそりゃ!こんな酷いドラマ許されるワケなく。

自分は気付くのが極端に遅い出来事が時々あるんです。
やっと理解しました。しかし、何故にこの最悪なシチュエーションで。
気付かぬフリして、彼女の手を引いてその場を去りました。
これは残酷過ぎる場面でした。さっきまで、今日はタイミング良い日だと思っていたのに。

その翌年の夏は、入手した250㏄の単車で北海道に帰省しました。
益々古ぼけた高校の校舎へ挨拶に。
三年間自分を担当した先生と再会し、痩せ過ぎた自分が心配だと返されてしまい。
でも、元気でなければ単車でこんな長距離走れませんし。実際、元気でしたし。いつも腹ペコだったけど。

数学の教員室でお別れし、階段を下りる途中で腕を引っ張られる女の子が。
「イーヅカ先輩!」

三年生になった白い子は、清純派アイドルのような綺麗な女性に変わっていました。
あんなに大きな声では、聴こえないフリも無理はありました。
しかし、無理なんだとも伝えられず、振り返りもせず。

昨年の彼女とはとっくに別れていて、独り身ではありました。
進学にしても就職にしても、自分の高校から東京に出てくるのは極僅かで。その極僅かなのも男子だけでした。
当時まだ若年者な自分でも、幸せは近くにあるに限るとも思っていて。
高校の同級生の中には東京で暮らす自分は派手な生活をしていると誤解もあったようです。しかし、実際は生活費と学費だけで精一杯だと気付き、大学時代に付き合った彼女は短い期間のその一人だけでした。

更にその翌年の夏、帰省した際に母から聞いたのですが、知らぬ名の女性から暫く前に電話があったそうです。
「〇〇さんっていう女性からケースケに電話があったのよ。この夏は帰省するのかって聴かれたの」と。
母はどうして直ぐに自分に連絡してくれなかったのか。そして、どうして自分の連絡先をあの子は聴かなかったのか。あと一歩だったかも知れないのに。
自分は毎度予告もせずに突然帰省して実家を驚かせていたので、母も答えようが無かったようです。これも確かに自分のせいですし、やはり誰も責められず。
あの白い子しか思い浮かばず、高校はもう卒業した年齢だったでしょうし、もう会うキッカケは残されず。
(その苗字についてはこうだったかな?と何となく覚えてはいるのですが、自信なく)

偶然な場面もありましたが、あんなに酷い素振りをしてしまった自分が未だ許せずです。
もう少し、気の利いた対応が出来なかったものなのかと。でも、思わせぶりを残しては一番美しかった時代に更に辛く長い時間を費やさせてしまったかも知れず、これで良かったとも。
互いにケジメの無かった中で時々、白い子のことを思い出しています。昨夜観た映画でも思い出してしまった次第で。
あんな引っ込み思案そうな子が、よく勇気を振り絞ってくれたなぁと。
「勇気」のほとんどは「言う気」だと何かで読んでいて。

北海道へ帰省する機会が社会人になってからの自分は減る一方でした。
ただ、帰省する機会があれば、何処かにあの子は隠れていないのかなぁと思い返したり。あの唄の歌詞に近く。
会えたところで自分も何を言えるのか分からないですが、お詫びの一言くらいは伝えたかった。
既に十年以上自分は北海道に戻る機会も無く。一度も。
封印未満の過去の土地。

漱石の三四郎でも終盤辺りに似たような場面がありました。
大昔の戦争の出陣式、隊列を見守る群衆の中に白い女性が居て。会えたのはその一度きりなのに。
ずっと歳を重ねてしまった先生、風邪をこじらせた夢枕にその女性が現れたそうで。
こんな感覚は誰しもあるものなのか?(未だ独り身というのも理由なのか)

大学時代に友人から紹介された本で当時流行り始めていた心理学の素人向けなのがありました。
お酒の席での話題作りとかには重宝するネタが満載で。その中で「人のイメージ色」みたいなのがありました。
うろ覚えですが、黄色いイメージの人は「面白い人」、白いイメージの人は「尊い人」。
これは案外、当たっていたのかも知れません。

名も知らぬあの白い女の子、きっと今頃は何処かで目の前の幸せと一緒に暮らしていることだと思います。勝手な想像ですが、子供さんは当時の自分達くらいの年齢で。
あの子の白い夏はいま、どんな思い出なんだろう。


何となくイントロだけ耳からコピーしてみました。

帰国してからの方が危ない


海外でハンドルを握ると現地でしくじるのはウインカーの出し方。
ハンドル周りのレバーはウインカーとワイパーが逆で、ウインカーを出そうとする度にワイパーが動き出し。
数時間で慣れるのですが、気をつけていないと直ぐに戻り。

西海岸では配車ミスにより破格の安さでオープンカーを借りれたのですが、これは晴れ続きの土地で快適でした。
しかし、一方通行で逆走してしまった際は正面衝突しそうな場面があり、互いの急ブレーキで発生したタイヤのゴムの香りがモロに漂ってきました。オープンカーならではでした。
でも、死ぬかと思った。

そして、帰国。
我が祖国。
もう大丈夫だ。

三ヵ月のヨーロッパから戻り、空港近くのパーキングに預けていた愛車をスタートし、大きな幹線道路から自宅へ戻ろうと。
何も考えずにウインカーは右に出せた。上出来だ。
走り出すところで、死ぬかと思った。

「やばい逆走だ」

解説:
駐車場から大きな幹線道路に出る際、多くの場合その国の通行方向しか曲がれません。左側通行の日本なら左で欧米の多くは右です。
帰国直後など緊張感の欠片も残っちゃいません。
写真は1999年に現地で借りたムスタングのコンバーチブル。幸か不幸か予約していた安い車がロサンジェルスの大停電で配車されませんでした。

また一人、逝ってしまった。

高校時代の同級生が他界したとの連絡が本日ありました。
昨日のこと「くも膜下出血」が死因だったそうです。
中学生時代の友人の一人も二十代の終わり頃に「くも膜下出血」で倒れていて、一命はとりとめたものの酷い痛みだったらしく。頭蓋骨を外した傷跡は永遠に残るそうで。何より後遺症のリハビリが何年も続いたと。無茶な仕事っぷりの綺麗な女性でした。

昨日亡くなった同級生(F君)は当時のアルバイト先でも一緒でした。(こんなアルバイトでした。)
人手不足でF君に紹介された総合結婚式場のボーイの仕事でした。
これがお洒落な同世代ばかりで、自分は何かと浮いていて。時々訪れる芸能人さんとかが新鮮で。
何より働いた分の稼ぎにはなり、北海道の体育の授業で必要だったスキーセットとかも余裕で買えました。
気になっていたJazzのCDや、乗りたかった単車も買えたりで。

特に仲が良いわけでも無かったF君は、高校に入るまでは勉強もでき、見た目もハンサムでお洒落でギターも上手で、酒も煙草も女性も単車も車も、誰よりも先に楽しむ男でした。
F君に一度怒られたことがありました。マダムだけの忘年会にて二人でボーイをやっていた場面でした。
見た目からして引っ込み思案そうな女性がカラオケのマイクを渡され、一生懸命歌ってはいるのですが音程もリズムも全くハズしており、おどろおどろしいしい歌声に笑いがこみ上げてしまい。。
F君に「失礼だ」と忠告される前から「笑ってはいけない」と必死にこらえたのですが、どうにも無理でした。

だって、曲名まで「よせばいいのに」でして。。
あまりにもシュールな場面でした。
いつまで経っても、ダメな私ね。。

F君はあっちの世界も一番乗りだったんだなぁ。
痛みが少なければまだ良かったのですが、棺桶に覗ける姿は安らかで、せめてもの救いだったかと。
冥福を祈ります。