もう一度食べたい店

既に暖簾を降ろしてしまったお店や、味が変わってしまったお店について、年代別に羅列。

【埼玉県川越市】
・レストラン・ギド(だるま市場の近く)
 洋食が何でも美味しかったです。自分より一回り上のお姉さんはお店の奥で時々ピアノを奏でてくれました。

・どさん子ラーメン(高階南小学校から比較的近い川越街道沿い)
 生まれて初めてのラーメンはここだったかも知れず。味噌だれのギョーザがまた美味しかったです。

・薮蕎麦(稲荷町)
 優秀な同級生の親御さんのお店でした。(まだ営業している様子です)

・飯田百貨店の隣の焼き鳥屋
 店名が不明ですが、母が焼き鳥とか串団子を時々大量に買ってきてくれました。当時はレバが大人の味で着いて行けず。
 現在も似たような店舗があるのですが、串団子を扱っていない様子で当時とは別なのかな?

・上福岡の何処かのレストラン
 サイクルファクトリ・アライさんの数軒隣にあった小さなレストラン。クリスマス頃に母に連れられた思い出あり。

【北海道千歳市】
・突撃ラーメン
 既に伝説のラーメン屋さんで、このサイトでも幾度か登場しています。個人的には最強の味噌ラーメンでした。

・井上書店の並びにあったラーメン屋
 店名を忘れましたが、ここの味噌ラーメンも美味しかったです。店名は王将だったかな?
 検索したところ、同じ名前のお店が別の場所にあり。移転したということか?

・駅前ラーメン
 通常の味噌ラーメンが学生ラーメンという名称で280円で頂けました。ここもかなり美味しかったです。おばちゃんが一人で切り盛りしていた頃が抜群に美味しくて。

・ビートル101
 自分が高校時代にボーイでアルバイトをしていた総合結婚式場というかレストランというか。つまみ食いが許されたのですが、何でも美味しかったです。

・バス停前の鯛焼き屋
 当時の北洋相互銀行の敷地にポツンとあったタイ焼き屋さんです。ここで何枚か購入し、同級生が暮らしていた向かいの電気屋さんに遊びに行ったものでした。

【北海道札幌市】
・富公
 当時北大にに通っていた兄に教えられ伺ったものの、最初は理解できない味だったものの、結果癖になりました。

・だるま軒
 味噌ラーメンの基本でした。まだ営業している模様。

【新宿区】
・ラーメン倶楽部(早大理工学部近くの明治通り沿いにあった小さな店)
 ここの味噌ラーメンも美味しかったです。ちょっと太めの店主さんとスレンダーな奥さんがいつも優しくて、色々サービスして頂けました。

【足立区谷中/北綾瀬近辺】
・カフェレストラン パステル
 何でも美味しかったですし、場違いな程にお洒落でした。大学時代の青春が詰まっております。このマンションの三階で暮らしていました。

・パステルの隣にあったお好み焼き屋
 美味しかったのですが、いくら大盛頂いても何故か満腹になれませんでした。

・駅前の中華料理屋
 低価格で美味しかったものの接客が悲しいレベルで、カウンター席でタンメンを頂いている途中で店のおばちゃんがゴキブリを叩き潰し、あれ以来しばらくトラウマでしたし二度と行かなかったです。

【東京都稲城市】
・焼き肉の大東園
 ここのレバ刺しが最強に美味しく、海帰りは必ず寄っていました。(まだ営業中の様子です)

【愛知県豊田市】
・じゅんちゃんラーメン
 猿投温泉の行きか帰りに高確率で寄りました。愛知で頂けた本格的な味噌ラーメンでした。

【東京都千代田区】
・ラーメン二郎神田神保町店の2007年頃
 当時は麺がもっと太くて存在感と美味さがありました。あれは茹でるのも大変で回転も悪かったと思います。麺が細くなってからも行列は長いままで。でも、たまに頂いています。

・駿河(とんかつ)
 四角い容器にマヨネーズ、けっこうな盛りのスパゲティにキャベツ、そして表面のガリガリなとんかつ。学生時代から毎度満腹でした。

・いもや(とんかつ)
 人生劇場の真裏にあった店舗です。暖簾を降ろした後は神保町の白山通りの店舗で頂いておりましたが、二ヵ月前にそちらも暖簾を降ろしたそうです。残念。
 いもやについては、そのすぐ傍の天丼屋さんや天ぷら屋さんも同じく大好物でした。

・辰巳屋(御茶ノ水駅前の立ち食い蕎麦)
 ここよりしょっぱい蕎麦を頂いたことがありません。予備校生と大学生と学校関係者にこよなく愛された名店でした。顔を覚えられるまでは早く、その後は注文不要でした。

・味一番
 看板と違い、大して美味しくなかったですが、値段と量は一番でした。金欠気味でお腹ペコペコの際は中華丼の大盛が定番でした。凄まじい量。
 こちらも伝説の店と化しています。バラックな建物に衛生観念も接客も無視したお店だったものの、昼時は謎の貧乏人が多かった記憶です。あんなに安かったのに無銭飲食で駅まで追っ駆けられる客も居ました。

・まいまいつぶろ
 こちらのサイトでも閉店直後の記事を残しています。トリスの水割りは150円くらいだった記憶です。ともかく、ここで呑むと翌日は酷い二日酔いでした。
 水上勉さんも過去に常連客だったと伺っています。

・ミロ
 建て替えはあったものの当時の雰囲気を残してまだ現存しています。ミロの絵画を飾る懐かしめの洋食屋さん。
 学生時代、特別な時だけ利用していました。自分が御茶ノ水を去る際のお別れ会もこのお店でした。

・冬馬
 味噌ラーメンが美味しかったのですが、入れ替わりの激しい店舗でした。現在は全く別の二郎亜種。

・琴善
 ワンコインのランチが何でも美味しかったです。店主さんには毎度お世話になっておりました。

【中央区銀座】
・ニューキャッスル(カレー)
 肉を使っていないカレーだと聴いていたのですが、これほどディープな味をどうやって提供していたのか謎めいていました。
 閉店後に登場した同名のお店は、あの味とは別物と思っています。

注:すみません。深夜に綴っているもので、誤字脱字多そうです。

そばっ子復活

今月の中旬に仮店舗で営業再開した金町の立ち食い蕎麦屋「そばっ子」さん。
移転後初日、開店の15分前に暖簾が降りていて、これはと入店したところ、自分は最初のお客さんだったようです。
これは色々と嬉しい。

頂いた最初の一杯は以前と同じく美味しかったのですが、蕎麦の食感が明らかに異なっていました。
それまでは特に冷やしですと蕎麦のコシもツルツル感も際立っていて、喉越しまで楽しめていたのですが。
その特徴が全く薄れてしまい、頂いた後は歯の隙間に崩れた蕎麦が残っている状況。こんなことは移転前にありませんでした。

それから幾度か訪問し、少しずつ改善はしたものの、移転前には程遠い食感は続いていました。
お店のおっかさん達と、その話題にもなりました。当初は製麺屋さんの担当が変わったからか?と。
しかし、製麺屋の方もそれを気にしてか幾度も店内で見掛けています。毎度真剣な顔で御蕎麦を頂いていました。

そして本日、九日ぶりでそばっ子さんへ伺ってみると。
ほぼ移転前の食感に戻っておりました。おぉ、これぞそばっ子。立ち食い蕎麦離れしたレベルの復活です。
他にお客さんが居なかったので、その旨伝えたところ原因が判明した様子でした。
何でも、移転前の御蕎麦はガスで茹でていたそうですが、移転後は電気で茹でていて当初は火力が足りない様だったとのこと。
原因さえ分かってしまえば、問題の解決は早いもので。
頂いた後も、歯の隙間に何か挟まるようなこともありませんでした。(あの感覚はどうにも好きになれず)

Twitterでも移転後からの件を時々綴っていたのですが、あまり手厳しいことを綴ってしまうと営業妨害にもなりかねず。
Twitterでは常連のミナトクジラさんが当初から茹で加減について指摘されていて、結果はまさしくその通りだった様で。流石です。自分は製麺を疑っていたので。
食感まで含めた完全復活はもう少し時間が掛かるかなぁとお店のおっかさん達と話していましたが、もう大丈夫だと思います。
ともかく、良かった良かった。

柴又への帰路は江戸川のサイクリングロード経由でしたが、向かい風が強くてちとヘコタレました。
途中の公園にてイップク。しかし、煙草を自宅に忘れたようで。
素直に初夏の木陰を楽しむことに。
あぁ、たまらん。

周恩来さん

近くて遠い国に中国やロシアや朝鮮半島があったりです。
報道の偏向があるのかも分かりませんが、あまり良い噂が実際届いていない感で謎多く。
どの国も日本との領有権を現在進行形で争っているので、仕方ないのかもしれません。
ただ、近代史を紐解くと、ちと怖いなぁと思える場面も多いです。都合が悪いと消されてしまうとか。

表題の周恩来さんを知ったのは、ラーメン二郎の神田神保町店さんで満腹になった後でした。
ここのラーメンは小でもとんでもない量で、大食いな自分でも食後はキツく。大抵は食後に近くの公園でイップクしていました。
その公園に謎の石碑がありました。「周恩来ここに学ぶ」と(幾度か自分も写真に残しているのですが、発掘が難しくGoogleのストリートビューから拝借です)。

周恩来さんは何処かで聴いた名前ですが、ラーメン屋の後では何者か存ぜず、検索してみると凄い人生を歩んでいて。
要約すると、
・太平洋戦争前に中国から日本に留学するも成績が足りず色々と苦労。その後にヨーロッパで立派な大学の学習の機会を得られたものの、学費が足りず断念。
・中国に帰国してから共産党に入党するも、人道的な立場が故に難しい調整役に駆り出されてばかり。
・その後の共産党の躍進で、文化大革命中(文革)も失脚しなかった首相。
・特に文革中は大切に育てていた養女(孫維世)も酷い仕打ちで消されていて。孫維世さんはいまでも十分通用しそうな美女で女優さんでした。
・その文革中は多くの庶民の命を救った。
・党内に敵が多い中で病に倒れ、墓を荒らされるのを避けたく、遺骨は中国の空から散布された。
・ずっと板挟みな人生であった。

また話が飛びますが、自分の小学生時代はまだ文革のさ中でした。AMラジオからは北京放送の民族音楽とか、同様に大出力のピョンヤン放送やモスクワ放送もプロパガンダ的な番組を日本語で流していたりでした。
良いのか悪いのか別として、夜のラジオから届く異国の曲はかなりエキゾチックでした。

周恩来さんについては、検索すると色々と情報が残っています。これも何処までが真実だか分かりませんが、一番酷い史実としては養女の気の毒過ぎる死に方です。
先ず文革についてまともに説明すると非常に長くなるので要約すると「庶民の家畜化」とでも申しますか。教師や医者といった教養のある人は否定され、尽く抹殺されていたようです。当時の同様な流れは他国になりますが映画「キリングフィールド」がそのままです。ビールやキリンさんの映画ではありませんが、色々と考えさせられます。
東西の壁が崩れた時代のゴタゴタも無かったことにされている歴史上、文革は失策だったと認められているようですので、余程なことかと思います。
更に脱線してしもうた。

養女孫維世さんの人生について。
古今東西、美女の基準は色々あるようですけれど、孫維世さんは今でも通用する目鼻立ちの整った美人です。人柄の良さまで伝わってくるような。
何故に周恩来さんの養女となったのかは知りませんが、文革の張本人である毛沢東におかされ、それを知った毛沢東の奥さんの嫉妬で酷い終わり方をしています。その辺はここの文章に遺し難く、Wikipediaのこちらのページで(掲載されている周恩来夫妻と娘さんの幸せそうな写真も演技ではなく一緒に居れる幸せが何だか身に沁みます)。Webで検索すればもっとリアルな酷い有様が伺えます。また、毛沢東さんの奥さんは元役者だったらしく、当時から孫維世さんをライバル視していたそうで。
普通の親なら、大切な娘にこんな酷い仕打ちをされて黙っていられないと思います。しかし、立場上はそれを訴えることも出来ない状況だったそうで。文革時に少しでも庶民を救いたかったのは庶民にも伝わっていたようで、酷い親とは責められなかった様です。

Wikiのこの部分に要約されているかと思います。
引用:彼(周恩来)は同志と人民から尊敬された人物である。文化大革命の時、我々は下放(地方、農村での思想矯正)したが、幸いにも彼は地位を保った。文化大革命のなかで彼のいた立場は非常に困難なものであり、心に違うことをいくつも語り、心に違うことをいくつもやった。しかし人民は彼を許している。彼はそうしなければ、そう言わなければ、彼自身地位を保てず、中和作用をはたし、損失を減らすことが出来なかったからだ。
庶民からだけ認められていたワケではなく、このような状況の国での外交でも国外から認められる立場だった様です。

ラーメン二郎の神保町店さんは昨年末に移転してしまい、その後はまだ訪問出来ておらず。
近いうちに美味しいの頂かねばのぅと思っています。
ティーンの内に上京してから、神保町界隈は発見が未だ多いです。
この石碑は何ぞや?って、面白いと思うんです。またしても春なので、自分もまた神保町に出没せねば。勿論食後に。

サンボ食べたい

写真は2009年の神田祭にてサンボさん前。
秋葉原の「かんだ食堂」も今月で暖簾をおろしてしまい、牛丼のサンボさんは益々貴重な存在になってしまいました。
あぁ、サンボ食べたい。