かすみ目にはチャップリン

小学生くらいの頃の夏休み、70年代後半の夏休みは夜になるとチャップリンの小劇場や代表作がテレビで放映されていたものでした。
小劇場というか短編も面白かったのですが、代表作の一つであった「サーカス」のエンディングは子供ながらに泣けてしまい。
あれだけ尽くしたのにサーカスの一座が砂煙とともに去る中、どうして一人取り残されてしまうのか。
自分は三人兄弟の三男坊、末っ子だったので、あの場面でブレーキも効かず涙ポロポロでした。

今宵は何かの拍子で「街の灯り」を観てしまい、結末も作りも知っていたので最初から涙ポロポロ。二十年ぶりくらいに観てしまいました。
盲目の美しい女性に憧れてしまったホームレスの物語です。時代背景の説明が無いと、細かな進行の意味が通じない作品でもあります。

1931年の作品である「街の灯り」、前作の「サーカス」が好評だったものの、サイレント作品の中でどうやって状況を伝えたら良いのか主演でも監督でもあるチャップリンは何年も悩んでいたとか。
チャップリンの作品は道化な要素が多いものの、本人は完璧主義者で何となくな進行が出来なかったらしく。しかし、ビデオも無かった時代にやたらと細かいディテールに拘り、製作者の方々にも厳しかったそうで。
平凡な閲覧者側は、何度も観ないと各場面の意味が分からなかったかと。現代なら容易なのですけれど。

盲目の花売りの乙女。お花を買ってくれそうなのは富裕層くらい。
車のドアの開閉音が鳴り、近付く足音。当時の自動車の所有者は富裕層くらい。
そこにたまたま現れた富裕層とは程遠いチャップリン。
何故にこの乙女は、こんなに優しいのか。
どうやら、目が見えないらしい。
自力で何とか救えないものか。

70年代まで版権か何かの関係でしばらくはテレビ放映や上映の機会が少なかったそうです。チャップリンの作品は左翼的だと批判されてアメリカでも立場悪かったらしく。
ただ、子供の頃に観れた自分は案外幸せだったのかなぁと思います。観ないまま大人になるのとは違いが出てきそうで。

ここしばらく「かすみ目」に困っていました。老眼とは症状が異なり老眼鏡を使っても視力は改善せず。
チャップリンの映画で涙をポロポロ落としてしまったところ、かすみ目が改善。
目が乾いていたのかな?瞬きが足りなかったとか、目の表面が汚れていたとか。
最後に妙な発見でした。

追記:
映画の途中々々で時々セリフが英語で登場するのですが、比較的短文で大意は掴みやすかったです。
しかし、一つだけ難しい表現が。「I’ve made a conquest!」というセリフです。
直訳すると「私は制服された!」な意味になってしまいそうですが「惚れられちゃった!」が妥当そうで。(数十年前に観たうろ覚えですが)
現代でも、そんな言い回しが普通なのか謎です。

竹中敏洋さんの思い出

高校を卒業するまでの四年間暮らした北海道の千歳には支笏湖という観光地があり、冬場にはそこで氷凍祭りというイベントが開催されていました。
氷点下の中、氷で作られた像が並ぶ神秘的なイベントでした。自分がこの像を観れたのはずっと後のことで。
というのも、真冬の移動手段は車しか無く、中高生だった自分はバスを使って遠く寒い場所に行くまでも無いかと。夏であれば自転車か単車で行けたのですけれど。
それに、その氷の像というのが著作権関連で揉めていたという噂も面倒臭く。像は雪から作るのでなく、氷点下の中で水を撒いて凍った産物らしく。その製法と表現方法を確立した芸術家の断りも無く実施していたそうで。
当時、アート系に興味ある地元の知人に聴いても、氷凍祭りは興味の対象外だったようです。

社会人になって数年経った頃、夏の終わりくらいに北海道へ帰省した機会がありました。
流れ者な町であった千歳に残っている友人は少なく、親の車を借りて近場の観光を楽しむ程度でした。
当時、自分の母は油絵に凝っていて、地域の文化活動にも関わっていたそうです。自分の出身校の先生とも繋がりがあったらしく、その中には自分の尊敬していた国語の平田先生も含まれていて。

この平田先生というのがナカナカの変わり者で。国語の試験で記述式の回答があると、滅多に×を付けられない性格で。
文章に対する解釈は一通りでなく、模範的回答以外の解釈にも理解を示してしまうというか否定は出来ない方でした。その度に考え込んでしまうそうで。
こういった先生は高校よりも大学の方が似合うのかと思いつつ、頭ごなしに否定しない姿勢に見習うべき点は多かったです。立場や権力で生徒を押し込める教師が普通で。
あと、先生の趣味がまた面白かったんです。オーディオマニアで、高価な機材を入手しては奥さんに怒られてしまうこともしばしばだったそうで。当時はまだCDが市場に出回り出したばかりの時代でした。
そんな中、録音の良いCDを自分は先生から沢山お借りしていて。アルバイトで稼いだお金をJazzのCDに注ぎ込んでいた自分もお返しにCDを貸したりで。教師と生徒の関係としては不適切だったかも知れませんが、自分の全く興味なかったジャンルやアーティストに触れられる機会を頂けて。こんな曲や表現方法もあるんだなぁと。
国語という限られた科目に置くには勿体ない先生でした。「表現と解釈」といった、もっと漠然としたテーマの方が似合っていたかと。これは文化や人種や言語を越えたコミュニケーション方法でもあって。

話を戻さねば。
その平田先生と繋がりのある芸術家が市民ホール(千歳市民文化センター)で個展を開くらしく、暇を持て余していた自分は母の勧めで個展に行くことに。母の造った大作も市民ホールの階段に飾られているそうで。
何の期待もしていなかった個展ですが、これが面白かったんです。印画紙を応用した作品は他に観たことが無く、独特な世界観。イマジネーション膨らむ作品群。
作者の方はその場には居なく、作者の奥さんがギャラリーを受け持っていて。
その奥さんと少しお話をさせてもらったところ、作者とのトークベントが後日あると。
あの作品の雰囲気は冨田勲の月の光に近いなぁと、地元のレコード屋さんでCDを入手し後日の夜も同じ場所へ。
(この記事を綴っている理由も、昨夜観た夜叉ヶ池で冨田勲さんの作品が使われていた故です)

作者のトークイベントも楽しかったです。参加者がとても少なかった中、プロのパーカッションプレイヤーの方と物の叩き合い的なセッションもあったりで。
作者は竹中敏洋さんという方で、元々は千歳で中学校の教師をしていたものの、作品制作の世界に没頭したかったらしく、周りの反対を押し切って芸術家の道に進んだらしく。
しかし、その世界で認められるチャンスは何年も訪れず、極貧生活が続いたそうで。教師時代に「先生先生」と持ち上げてきた方々からも冷たい視線を受けるばかり。
ご自身が嘗て製作した作品の一つだけを頼りにしばらく生きていたそうです。イベントではその作品を持参されていました。例えの難しい作品は表面のゴツゴツした少し伸びたタケノコのようなモニュメントというか。
全てを失った中、その作品を腕に抱えて真冬の夜汽車に揺られたこともあったと。
その中に自慢話は含まれておらず、いまは人里離れた場所で作品造りと。

頂いたパンフレットを観たところ、例の氷凍祭りで争っていたらしい芸術家でした。
個展の中で目に付いた作品の中に「偽善者」(記憶が曖昧なのですが、そんなタイトル)というのがあって、それが特に印象的でした。真っ黒の背景の中に細い白い線で描かれた弧。垂れ下がった真ん中には首が吊るされた細い人のシルエット。
静かなる抗議な作品だったようです。あの盗作に対する抗議だったのかなぁと。
どうにも気になる竹中さん、東京に戻る前日にご自宅へ車で伺ってみました。何のアポも無く向かった夕方、会えなくても仕方なく。
大きな地図を観ながら走ったルートは、高校時代に幾度かバスで経験した風景でした。盤尻というエリアはその先に市民スキー場があり、学生はナイター券を安く入手出来たので友人達と伺っていて。
しかし、冬の雪景色とは一味違っていました。夏の終わり頃の枯れはじめた土地というか。枯れてはいないものの、夏の始まりの勢いある緑とは別の衰える緑。

民家が少ないエリアだったので、竹中さんのご自宅はすぐに見つかりました。通り過ぎた道を引き返し、手作りっぽい木製のご自宅へ。(木造というより木製でした)
玄関をノックしてみると、先日の奥さんが。居間に案内されて竹中さんと世間話。そのままアトリエへ。アトリエといっても屋外でした。ご自宅の裏には川が流れていて。
冬になると、ポンプで川から引いた水を撒き、作品作りに没頭すると。
ポンプや照明に必要な電源周りの工作や電線の引き回しもご自身でやられたそうです。この時代にこんな人が生きているのが斬新でした。元々は何も無かったらしき場所なハズ。
真冬の北海道でこんな人里離れた場所、一歩間違えたら簡単に死ねてしまいます。ゼロからここまで続けてこれたことに見習うべき何かが大きく。幾度の冬をここで越してきたのだか。
どんな話をしたのかほとんど覚えていないのですが、この会話だけは覚えています。

 SUKIYAKI:時々変な夢を想てしまうんですよ。空を飛んでいる夢なんですけれど、地上に戻りたいと必死に泳いだり電線を捕まえようとかするんですけれど、酷い時なんて宇宙の彼方で一人っきりで、
 竹中さん:そのままそこに居ればいいじゃないか。

自分は人付き合いが下手な面を自覚していて、一人で居たい時はもちろんあります。それでも人里が恋しくなる部分もある勝手な奴で。
何でそんな会話になったのか自分でも不思議でありましたが、ここで二人いることも不思議でしたし、竹中さんの生きざまへの質問だったのかなぁと。

その次のお正月だったか、ご丁寧な年賀状が竹中さんから届きました。
自分のこと、覚えていてくれたのが嬉しく。謎の妙な東京の若造でしかなかったハズなのに。
大切に残していた年賀状だったものの、自分の引越しの機会でしか目に掛かる場面が無く。いまはこの部屋の何処にあるのか。

竹中さんとお会いした数年後に自分は一時的に北海道へ戻っていました。
当時は養父が単身赴任で、冬に向かう季節の北海道で一人暮らしだった母をドライブに幾度か連れまわしたり。
共通の話題が乏しい母に「そいえば、竹中さんどうしてる?」と。「アメリカで個展開催に向かう飛行機に乗るところで吐血したそうよ」と。
そういえば、竹中さんはお酒好きだったなぁと思い出しました。
そのうちまた挨拶に伺いたいなぁと思いつつ、その機会も無く北海道をまた離れた自分。

時々、竹中さんのことは検索していたんです。
2002年に亡くなられたことも後から知りました。
そして、専業主婦向けの昼のドラマでもあった「ダンプかあちゃん」の題材になったご夫婦が、あの竹中夫妻だったこともずっと後に知りました。
乞食のような妙な男が気になった若い女性、その男は全く売れない実直な芸術家。勝手に転がり込んできた女は作品の裸体になる覚悟も、ダンプカーの運転で男の生活を支える覚悟もあり。幾度もドラマの題材になった二人。
そんな話、ご本人達からは一切聞いておらず。
普通の老人なら、自慢の一つくらいするだろうに。
だから、ますます忘れられず。(五十年近く前のドラマも丁寧な作り)

三年前の引越し後、所有していたCDを久し振りに整理しました。とりあえず、アーティスト別に並び替えて。引越し前までは部屋の至る所に散乱していたCD達だったので、大きな進歩です。
整理中、同じアルバムが幾つも見付かったり。冨田勲の「月の光」も二枚同じのがありました。多分、過去に三枚購入していたのだと思います。そのうちの一枚は竹中さんへ。
いつ購入したのだか思い出せない一枚と、冨田勲さんが亡くなられた頃に「そういえばあのアルバムは手元に残っていなかった」と勘違いして購入した一枚。そんな手元の二枚らしく。
久し振りに自宅のステレオで聴いてみたところ、やはり素晴らしいアルバムでした。
幻想的に響きつつ、何処かに刻まれる残音。

夜叉ヶ池

夜叉ヶ池(ヤシャガイケ)という映画を観たのは三十年ほど前、自分が大学に入ったくらいの時期でした。
テレビ放映でたまたま途中から観掛けて。これがナカナカインパクトのある作品でした。そのうち最初から観てみたいなぁと。
しかし、残念なことにテレビ放映はその一度キリでした。歌舞伎役者の坂東玉三郎が女役とはいっても男優さんと接吻する場面があり、現在大物になり過ぎてしまった玉三郎さんのお許しが得られないといった噂もあるようです。(真偽不明な噂ですけれど)

その途中から観た感想としては、特撮の古臭さとか薄気味悪さとか気持ち悪さみたいなアングラ劇に近いものを感じまして。ただ、冨田勲さんの音楽は特にラストシーンの浮遊感を際立たせていました。
翌日の大学で「昨日のヤシャガイケ観たかよ?ありゃ凄かったなぁ」と友人に尋ねられ。変な映画は観たもののあれが「ヤシャガイケ」という作品名なのは知らず、どんなラストシーンだったか尋ね返したらどうやら同じ作品で。
そして、上記のような感想を伝えていました。友人はバンドでドラムを叩いていましたが、クラシックにも強く、芸術的な感性は持っていました。
当時の自分は包容力が色々な面で足りなかったのか、特に特撮にぎこちなさが残る作品が苦手で、ストーリーとか作品が伝えたかったこととか本質的な部分は二の次になりがちでした。
いずれにしても途中から観てしまったので、語れるレベルではなかったです。ただ、ラストシーンの壮大さと孤独感は呑み込まれる感覚が確かにありました。

そのうちまた観れるだろうとテキトーに意識していたものの、十年経っても二十年経っても観れず、Webで検索したところ、上記の理由でソフトの再販は限りなく難しいし、テレビ放映は更に難しいとの噂で。
そうなると益々観てみたくなるのですが、半分諦めていて五年以上は「夜叉ヶ池」をキーワードに検索するは無かったです。

昨夜、何の気なしに「夜叉ヶ池」を検索したところ、数年前からYoutubeにアップロードされていて。半分眠りかけていたものの、一気に最後までスマホで観ることに。
これが、なかなか良かったんです。良いとか悪いとかいう判断は良くないと以前に忠告されたこともありましたが、決して悪くは無くて。

スケールが大き過ぎて、舞台に収まりきれない作品な面もあったとは思います。前途の通り、特撮も当時の技術レベルで。ただ、これを演劇として観た場合は強力な破壊力がありました。
かなり大雑把なストーリーはWikiにも載っています。映画上では姫が我が儘を押し通そうとする場面前後が如何にも演劇っぽい演出なのですが、人の動物的本能が穢れの無い美しさで理性を取り戻させる展開は誰にでも当て嵌まりそうで。
山崎努さんも自分は昔から気になっていた俳優です。「スローなブギにしてくれ」や「早春スケッチブック」といった作品が好きでした。「どの作品でも同じ印象」も上手く働いているというか。ちとインテリでありつつも野性味を残していて、人生の修羅場も経験していて。
坂東玉三郎については名前しか存じないような方でした。ここで演じる女性は女性以上に女性でした。自己主張の無さの中に自己主張が隠れていたり、男からすると誰かが傍に居なければ誰かが守ってあげなければいけない可憐な女性というか。
自立して生きていく為の教養とか経験とかが現代の女性には必要なのでしょうけれど、これを観てしまうと男が守らなければな旧来の社会も否定出来なくなる感で。

そしてクライマックス。
民衆の邪念が大量の水で押し流され、冨田サウンドが持ち上げて。
これをハッピーエンドと言って良いものなのか分かりませんが、愚かな民衆心理の結末。
暫く前に綴った記事で「浦島太郎」のクライマックスが理不尽過ぎると思ったものの、掟を破った結末はこの作に近く。

順番が全く逆になるのですが、映画の序盤も面白かったです。
日照り続きで水の乏しい村を彷徨う主人公が強風で舞った土埃で目を傷めてしまう場面です。目を洗いたいものの水は何処にもなく、人が集まる場所で状況や症状を伝えたところ「これで洗いなさい」とばかりに乳房から母乳を出そうとする女性。
大正時代が背景なのですが、都会で現代的な経験を持つ主人公は村の女性の対応に驚きます。勿論親切心や母性本能があったのでしょうけれど、そこに何の恥じらいも無く、明治はおろか江戸時代の風土に迷い込んだ感覚で。

現代の若者がこの作品を観たら、どんな感想になるのだろう?と。
おとぎ話や演劇だと事前に耳打ちしたら、細かな突っ込み無く素直に観れるかなぁと思ったりです。

西城秀樹さんの思い出

昨夜、西城秀樹さんが亡くなられたそうです。
十年以上前に脳梗塞で倒れられたと聴いていて、その後テレビでお見掛けする姿が少なかった気がしますが、自分自身が高校時代からテレビをあまり見なくなっているので、出演の機会自体はそれなりにあったのかも知れません。
最後に生放送でお見掛けしたのは某国営放送の「のど自慢」だった記憶です。これすら十年くらい前だったかもしれません。
このとき、素人が歌った「傷だらけのローラ」はかなり上手だったものの、審査員の西城さんは「もっとオーバーアクション」をとの指導をされていた記憶です。

西城さんのデビューというか存在を知ったのは自分が小学校に上がるくらいの頃だった記憶です。当時の西城さんの歌というか演技というかは派手過ぎて自分にはついていけなかった感です。
ただ、ドラマ「寺内貫太郎一家」は楽しみで、夕方の再放送を笑いながら見たものでした。

小学校の高学年の頃に流行ったYMCAは、体育の授業か何かでも踊らされた記憶があります。老若男女誰でも知っていた歌、誰でも謳えて一緒に踊れて。そんな時代はここまでだったかなぁと後から思い出したりしています。
この時代になるとニューミュージック系の方々が続々と登場し始めて、自分もそちらの方が気になっていました。世良公則さんや原田真二さん等です。あとは、担任の先生も好きだった「さだまさし」さん等のフォーク系も。

その頃くらいに観た映画がずっと気になっていました。日曜の夕方頃に放映されていた作品は途中から観たのですが、一文無しの身寄りの無いらしきお婆ちゃんが可哀そうで、冷たい対応の家族達と大喧嘩した青年(西城秀樹)が「こんなところ一緒に出て行こう!」とお婆ちゃんを連れて旅立つ結末でした。
しかし、痛快だったのは、大きな土地を処分したお婆ちゃんは数億円資産を持つ大金持ちだったというオチで。
どうやら、お婆ちゃんはお金目当てでは無い信頼できる人を探していた様子でした。隠し持っていた資産を最後の最後で打ち明けられた青年はビックリし、ニコニコのお婆ちゃんはそれさえも楽しんでいるようで。

かなりうろ覚えですが、ラストはこんな会話だったような。
 お婆ちゃん:あなたお金預けたいの(Vサインしながら)
 青年:二万円?
 お婆ちゃん:もっともっと
 青年:二十万?
 お婆ちゃん:もっともっと
 青年:え?

今日、西城さんの訃報でその謎の作品が何だったのか検索したところ、すぐに分かりました。「おれの行く道」という作品で、リンク先であらすじも判明しました。あの冷たかった家族も当初は財産目当てでお婆ちゃんの奪い合い的な展開だった様子です。
また、主演は田中絹代さんだったそうで、昭和の大スターではありましたが既に高齢でほぼ最後の主演作となったそうです。そんな大事な作品に出演した西城さんですが、西城さん自身が登場する映画というのは実はかなり少なかったらしく(それも手伝って探しやすかったです)。
また、この作品はVHSビデオでは販売されていた模様ですが、その後DVD化はされていないらしく。もう観れる機会は無いのかなぁとか、出来れば追悼で放映してほしいなぁとか。素敵なB級映画だと思っていて。
余談ですが、日曜の夕方に日本テレビで時々放映されていた映画は名も知らぬB級なのばかりでしたが、タイミング良く見れる機会があると、どれも心にジーンと響くのが多かった記憶です。「初めての旅」という作品も途中からだったので、もう一度観てみたい一作です。輸入スポーツカーを盗んで旅した二人の青年の顛末でした。

今夜のニュースで西城秀樹さんの訃報も扱われました。デビュー当時から全盛期の元気に踊って歌う姿。自信満々元気モリモリ。そして身体を壊してからのリハビリ場面やバラエティー番組でのトーク等。この身体を壊してからのトークというのが声を出すだけでやっとな状況で。何処かに無理な力を入れないと発声出来ないような頑張り方でした。
それでも一時よりは随分マシになったそうなんです。芸能人によっては衰えた姿を隠してしまう方も実際居ると思うのですが、西城さんは障がいが残っても頑張っている自分をさらけ出す覚悟があったそうです。

西城さんの本当のカッコ良さを、今日になって知ったようでもあります。
ご冥福お祈りします。

気違い部落と子育てごっこ

タブーなタイトルの記事となりますが、実存した映画のタイトルでもあります。短いタイトルに危険な文字が二つも
「気違い部落」は、かれこれ二十年以上気になっている作品で未だ観れていません。タイトルが危険すぎるのもあってか、上映の機会やソフトの再販も難しいのかと思っています。
ただ、この二十年の間にWeb上では詳しい情報が溢れるようになりました。

あらすじを読む限り映画の前半は風刺的な要素がありますが、中盤辺りからは考えさせられる展開となっているようです。
そもそも、森繁久彌さんや伴淳三郎が関係する作品なので酷い駄作では無いと予想してはいました。
ちなみに、作中には気違いなど登場せず、旧来日本文化の山村での葛藤を描いたようなストーリーの様子です。個人的には地方だからとか田舎だからとかに限らず、古くから続く地域には都会であっても似たような現象があるかと思っています。
外部サイトとなりますが「大正生まれのブログ」さんの記事が作品のストーリーについて詳しいです。作品比較についても自分が知る他の作品が登場しているので察しやすくもありました。
四十年近く前に出版された手塚治虫さんの作品も現代でいう差別用語が多く、そのままでの再販が難しい部類もあるそうですが、作品の中身は虐めや差別を助長するようなモノでは無いハズなので、その辺は時代背景も含めてあまり敏感になるべきでは無いと個人的に思っております。
当時は実際に普通に使われていた表現ばかりなのですし、その注釈さえ入っていれば何ら問題無いかと。こんなのが進めば、使える言葉が減る一方で日本も英語的な単純でストレートな表現に溢れてしまうかも知れず。
片言英語しか使えない自分は、海外でのストレートな表現に拍子抜けして笑ってした場面も多く、相手からは何が可笑しいのか逆に尋ねられてしまったり。また、妥当な単語が浮かばなかった自分が別の単語を用いたところ、相手が驚いたりもありました。

いまでもいつか観てみたい作品に変わりない「気違い部落」について、原作者「きだみのる」氏はどんな人物だったのか調べたところ、変わり者だったようです。
この作品については実存した地域や、実存した人物名をそのまま用いていたらしく、作品公開後は関係者から相当な非難を浴びた様です。多かれ少なかれ着色もあったでしょうし。
自分も過去の出来事を綴る際、実名や着色についてはこれでもかなり気を遣っています。時として相手に対する批判も含まれていますし、事実を綴るにしてもなるべく大袈裟にならないようにしています。なので、出版物のような迫力やドラマティックな展開や面白味は少ないとも思います。まぁ少なくとも創作作品ではないので、これは仕方ないです。
そして、書きたくてもそのままでは角が立つため未だ公開できない思い出も抱えたままです。途中まで書いたものの、そのままゴミ箱なのは未だにあります。

話が戻ります。
原作者は若かりし頃に慶應義塾経由でパリにも留学経験があったそうですが、本作はその後八王子の山村生活時の実体験が基らしく、高齢になった晩年は幼い娘を連れての放浪生活だったそうで。
いったい、幾つの時に授かった子なのか引き算も面倒ですが、放浪生活でまともな教育を幼少期に受けられなかった娘は有名な邦画の主人公にもなっています。「子育てごっこ」です。

「子育てごっこ」については自分も子供の頃に幾度かテレビ放映を観ています。岩手の山奥で教職に就く夫婦に預けられた野生児的なストーリーだった記憶です。原作者「三好京三」氏の実体験に基づく映画だそうで。
預けられた少女も連れてきた老人も作中では嘘つきで、老人は嘗て学があった様子ですが現在は単なる老いぼれ。客観的な教育をロクに受けていない娘を秀才だと自慢するのですが、娘もこんな状況の年老いた父親の悪いコピーというか。
娘の登場場面はなかなかインパクトあったものの、その後のストーリーはほとんど忘れてしまいました。山村の分校の純朴な生徒達がなかなか良い奴らで、主人公は少しずつ健全な少女に変化していったような。
当時、この作品は社会現象的な注目も浴びていたそうです。別の作者になりますが、その後の「積み木崩し」とかに近いモノがあったのかも知れません。

子育てごっこでは、無責任な子育てや出鱈目な教育をしてきた元父「きだみのる」氏への非難的要素も含まれていたと思います。気違い部落で実名の方々に非難されたのとは別次元で。
子育てごっこの主人公だった少女を養子縁組で育てた夫婦は、ある面模範的で常識的で道徳的な人物として自分達を描いていました。養父の方はスパルタンな面があったものの、土台は深い愛情にあり、単にその場の怒りだけで幼女を攻撃するようなことは無く。しかし、赤ん坊の頃から育て上げた実の子では無い為、手探りな状況はあったようです。
そして、またしてもこの作品だけで話は終わりませんでした。

思春期を迎えた娘は一浪後に東京の大学に進学したものの、大学では一単位も取得せず遊び惚け、遂には養父への反逆が始まりました。
少女、養女、娘と文中で呼び名が変わってしまいましたが、ここからは娘で。
娘「広瀬千尋」氏は養父の性的虐待な暴露本で出版界にデビュー。抑圧的な生活下で娘を抑えきれると思っていたのか。
田舎の分校で無欲な生活を送っていたと思われた養父も実は地位や名誉に貪欲な文学賞狙いの男だったとか。実際、子育てごっこで直木賞を受賞し、その後は文筆業や教育評論家で生計を立てていたそうで。
その辺を検索してみると、文豪には必ずしも人格が必要無いという意見があったり、立派な実績はゴシップ記事にも勝るという意見もあるようです。
分かる気もしますが、山籠もりな生活でもしない限り世間の非難に耐えるのは普通の人に辛いかと思います。作者にはそうなるかも知れない覚悟が執筆時にどれだけ備わっていたものなのか。謎
ただ、自分が検索結果で知った内容も何処までが真実なのか分かりません。三者とも偏った実体験を基にした代表作が共通点。偏ったとは良し悪し抜きにサラリーマンといった一般的な社会人経験が乏しい作者と思われて。
勿論、偏っているから面白味もあるワケですし、エゴを貫いた結果がどうなるのか?といった究極の空間を読者は仮想的に経験出来たり期待していたりで。

無宗教な自分でも「因果応報」は多かれ少なかれ世の中にあると思っていますが、今回の記事は因果応報の四文字が三世代に渡って続いているようでもあり。
“Me too”という言葉が最近の流行のようで、陰で悪い行いを続けていた人の素性がバレてしまった際は関係者も含めた総叩きにあったりします。逆に目に付かぬところで人助けを続けていた人が窮地に陥った場合助けてもらえるかというと、そうでも無いよなぁと思える現代でもあったりするワケですけれど。
それでも困っている人が裏表無い善人であれば助けてあげたいものです。少しでも。

上記でこの記事を〆ようかと思ったのですが、どうにもしっくりせず。
数十分、文章の入力画面を放置した後に思い出して以下を綴ります。
課長島耕作の作家である弘兼憲史さんの劇画が自分は好きです。特に「人間交差点」とか。あれは痛みを知っている人しか描けない作品で。
作者は大手家電メーカーで働いていた経験があったそうで、世間の荒波に揉まれた実績が作風にも現れている感です。エゴとか人の醜い部分も含めて。
作者が学校という閉ざされた社会しか知らぬまま漫画家になったのでは描き切れなかった場面が多かったかと思います。
自分はその作品の一部しか存じていないものの、作者の綴ったエッセー「覚悟の法則」は入手してから四半世紀たった現在も読み返す機会があります。自分も過去に大手企業の本社で揉まれた機会があり、迷える日々に高層ビル内の本屋さんで出逢った作品でした。
特に「許される嘘」についてのくだりが印象に残っています。

月とキャベツと

流行歌に疎い自分でも、山崎まさよしさんの”One more time, One more chance”は当時からお気に入りでCDも持っていたりします。
主題歌が使われた映画”月とキャベツ”も良作とのことで、ずっと気になっていて。
あれから二十年も経った昨夜、Web経由で観てみたのですが、これは切ない。

【ストーリーは】
売れっ子バンドを解散しソロになった主人公は創作意欲も湧かない中、田舎へ引っ込んでキャベツ作りに暮れる日々。
そこへ謎の白い女の子が転がり込んできた夏。
主人公は追い払おうとするのですが、新曲を望む女の子は離れようとせず居候に成功。

喜怒哀楽が抜けた日々、少しずつ色彩が戻ってきた主人公。荷物置き場と化したピアノの蓋も久し振りに開けることに。
ダンサー志望の女の子は主人公の新曲で踊るのが夢で、少しずつカタチになってゆく曲をバックに踊ってみせたり。
新曲がカタチになり始めた頃、女の子の正体が主人公の親友(カメラマン)に知られてしまいます。

北海道の田舎で暮らす高校生の女の子は東京で予定される創作ダンスのコンクールに向けて大きな台風の中旅立ちました。
しかし、川沿いのバス停で土砂崩れに巻き込まれ、女の子は帰らぬ人へ。発見された亡骸のウォークマンからは主人公の嘗ての曲が流れ続け。
前年のコンクールを偶然撮影していたカメラマン、舞台裏の一枚の写真がキッカケで既にこの夏に女の子が他界していることを知り。

やる気を取り戻した主人公を支えてくれた女の子に、カメラマンは「ずっと奴の傍にいてほしい」と伝えるのですが、女の子は「もうすぐ夏休みが終わってしまうから」と。
新曲の完成まであと一歩の頃、女の子は主人公にかけがえのない存在になっていました。しかし、お礼の言葉を残しフワッと消えてしまい。
もう会えないのか。曲も詞も完成したある日、主人公は空に向かってハーモニカの音色で女の子を呼び戻そうと。
その晩、完成した曲を演奏していると、女の子はフワッと現れピアノの前で踊りが始まり。

要約が下手な自分ですが、結末も含めてこんなストーリーでした。
映画としての作りの甘さは隠せない部分が幾つかあったものの、伝えたい部分はしっかり伝わった佳作でした。

【自分の場合】
作品に登場したあの細くて白い女の子、自分の思い出の中にも近い存在が居ました。
容姿が似ているというより、雰囲気がです。妖精でした。

高校三年の春のこと、街から離れたいつものバスには同じ高校の制服を着た新顔もちらほら。
詰襟の男子もセーラー服の女子も皆小綺麗で、まだ幼さが残っていて。擦れた雰囲気の新顔は今年も一人もおらず一安心。
同じバスに何年も乗る自分は、新学期だというのにいつ洗濯したか分からない小汚い詰襟に寝不足なボサボサ頭に無精ひげ。最初からこうでは無かった。
丸暗記が苦手な三年生、解き慣れが必須な数学の教科書をいつも忍ばすおかしな奴。

そんな日々、時々目が合う女の子が居ました。見るからに童顔の真っ白な新入生。
場慣れしてだらしなくなった上級生がさぞや珍しい動物園の珍獣なのか、目が合えば逸らされるばかり。
部活に属していなかった自分が下級生と接触するのは通学のバスか、昼休みの階段くらいしかありませんでした。
そんな中、この白い子はすれ違う機会が何故か多く。

その年の文化祭で自分は少し目立たせてもらいました。
自分は学級委員のような立場を三年間続けていて、クラスのまとめ役な場面が多く。
成績が良かったワケでも無く、煙草もお酒も単車もたしなむ全く相応しくない立場でしたが、その役を決める場面は誰かによる勝手な推薦と一同の拍手で事収まる流れ。嫌がる本人に拒否権など無く。
学級委員といっても、一週間の時間割を大きな紙に描いて教室に貼るといった裏方作業ばかりで、イベントの予定では面倒な纏め役であったり。
役職特権みたいなのは当時から嫌いだったので、イベントの役割分担ではいつも余り物を拾っていました。

体育祭は運動音痴な自分に活躍の場が無かったですが、文化祭は毎年楽しみでした。
前年の二つの出し物も上手く行き。街中をパレードする仮装行列とステージ発表はどちらも満足の出来でしたが、受験を控えた今回は余り手を掛けないで行く流れでした。
手を掛け過ぎると衣装代で足が出てしまった例もあって、ともかくあり合わせのモノと知恵を有効利用しようと。
実際、予算は余ってしまったのですが、理系のクラスで僅かな人数の女の子達の衣装作りは毎度大変だったと思います。
仮装行列はインディアンを題材にし、みすぼらしさと勢いとノリで大当たりか大外れのどちらかしか狙えない内容。
よし行くぞよ。なんじ馬鹿になれ。

第三位からの結果発表で二位までに入れず、これは駄目だったかと半分沈んだところで一位は我がクラス。これはかなり嬉しかったです。皆またしてもインディアンの雄叫びで大騒ぎ。
この本番、先頭で段ボール製のトーテムポールの中に潜んだ自分は見守る観衆の中に子供を見付けると襲い掛かって喜んでいました。後方の皆も負けじと馬鹿騒ぎに大笑い。
いつもお世話になっていた本屋の女将さんに、イーヅカはこの中です!お借りしたリヤカーは後ろの馬車です!

そして、文化祭のもう一つのイベントがステージ発表。
音楽室から借りてきた沢山のギター、弾けそうな奴らを寄せ集めし、フロントに靴墨を塗った数人でシャネルズ(ラッツ・アンド・スター)バンドでした。
自分はラッパが吹けるということで、フロントラインに。目立てる役はこれが最初で最後でした。三年間のご褒美的な意味合いもあったかも知れません。
この一曲だけでは時間が余り過ぎてしまうので、最後は皆で肩を組みつつ「若者達」の合唱で。如何にも田舎の高校生らしく。

その時の笑顔の皆の写真が残っています。ぜんぜんカッコつけていなくて、生き生きとしていて。
自分は直前のラッパをしくじらなくて、ちょっとした安堵も入っていました。目立ちたがり屋な部分もあるのに、本番では力んでしまう不器用な奴で。
そして、明日からは大学に向けた受験勉強に励まなくてはいけないという哀愁も。
(あの時のステージ衣装は上出来なタキシードで、自分は欲しかったのですが本番後の楽屋で紛失してしまい。必死に探したところ製作してくれたクラスの子に奪われてしまったそうで。二千円で買うと取引を持ち掛けても認められず。大体、あんな汗臭いの恥ずかしく)

文化祭のステージで目立ってしまうと、後日は後輩からファンレターのようなモノを頂いてしまったりです。
これは自分に限らずですが、自分も頂いたりしてしまいました。時として集団でやってくることも。
普段の自分はステージの上のヒーローではなく、年中馬鹿な事ばかり企てている駄目な奴で。白馬の王子ではなく、ロバを引っ張るドン・キホーテ。
自分は卒業したらこの北海道から離れる予定でしたし、恋愛はその先と決めていました。
だいたい、アルバイトばかりしていた自分の成績は既に下の領域で、如何に効率良くあと数ヵ月で巻き返すかが重要課題。他の幾つも捨てなければ。
これを乗り越えなければ先が無く。それ以外の選択肢は考えられなく。

北海道の夏は八月末の文化祭と共にサッと去ってしまいます。夏は昨日までだよと。本州出身の自分としては、残酷過ぎる夏の終わりです。
親しかった友人達とは、いつも昼休みを図書室で過ごしていました。それまでは「こんな変な本があったゼ!」とか好奇心旺盛な仲間でしたが、受験勉強が始まると、そこで過去問を解くばかりのつまらない集団になりかけ。
時折やってくる女の子達には気付かぬフリをしていました。しかし、中には積極的な女性も居ました。合格祈願のお守りを頂いてしまったことも。
そのずっと後ろに、例の白い女の子も。
積極的なのは一学年下で、二学年下の白い子は心配そうに見つめている様子。
どうしてここに?

あの秋から数ヵ月、誰しも不安の中で孤独と戦っていました。
新年からは自宅学習期間で学校に通う必要もなく。時々様子見に伺っても、僅かな生徒だけの教室は夏が終わるまでのあの頃とは別の空気で、寒い自宅で布団に包まりながら問題集を解く方がまだ居心地良く。

希望の大学から合格通知を頂いた自分は、サッサとこの寒い土地から離れたい一心でした。本州の中心で、沢山の刺激が待っているに違いなく。大体、北海道での自分は出来ることなどとっくにやり尽くしていました。
そして、北海道の春先というのは寒さは和らぐものの、雪解けの始まった道路はドロドロで純白の雪とは程遠く美しくなく。
親しかった友人の何人かは浪人となり、特に文化祭で頑張ってくれた友人には申し訳なくて。自分が馬鹿色に染めてしまった夏が落としてしまったかもと懺悔の念。
みんな受かってほしかった。

高校の卒業式は初めてのパーマヘアーが大失敗で、そそくさと去った記憶程度です。皆、もうこの環境に飽き飽きしていたとも思えます。
最後にひと暴れしようか?と仲間内で話し合いもありましたが、最後くらい穏やかに過ごそうとなり、お通夜のような卒業式でした。
「沢山の素敵な思い出をありがとう」だけでした。一緒に馬鹿をやってくれた同期にも、校則違反を知りながらも見守っていてくれた大人達にも。

最後の文化祭は相当な盛り上がりで、特に三年生のレベルはどのクラスも大したものでした。それに感激した新入生は地元の新聞に投稿が採用されたりしたそうで。
当時ギリギリで学区内トップの成績だった母校は、現在ライバル校に相当な差を付けられてしまったそうで、これはちと残念です。何よりもあの仮装行列も後夜祭のウイットに富んだ挑戦状も既に失われたらしく。それでケジメはつくのか。
自分のクラスは浪人を含めると過半数以上が国公立大に進み、歴代でも一番優秀だったそうです。

それと、卒業式の夜は地元の居酒屋が同期の各クラス単位で何処も貸し切り状況でした。
おおらかな時代です。羽目を外す範囲も皆さんわきまえていたと思えて、特に事故も無く大人達は見守ってくれていた様子でした。
今の時代は何もかも無駄に厳し過ぎとも思う自分です。ハタチに突然大人になれるワケなんて無くて。

東京に出た自分は九月の終わり頃に初めての彼女と出逢っていました。
時はバブルど真ん中な時代、お金も地位もコネも無い自分と付き合ってくれた女性に日々感謝しつつ。
昼間の仕事と夜の大学で平日が終わる日々でした。平日といっても当時は土曜も平日です。
彼女と会えるのは日曜日か祭日だけで、デートもお金の掛からない公園ばかり。
彼女は以前の彼氏にドライブに連れて行ってもらえたり、話題のスポットに連れて行ってもらえたりだったそう。
彼女のお姉さんは彼氏との週末でゴルフやビーチを楽しんでいたり。
自分はそんなの無理でしたし、ささやかなサプライズを用意するくらいで。

毎度申し訳ないなぁと思いつつの十月のデートは既に幾度目かの上野公園。この辺りは食事も安くて美味しくて。
美術館を巡った後、夕暮れ時の公園で見覚えのある制服達が。セーラー服の肩には鶴の刺繍。こんなの自分の母校しか観たことが無く。
「〇〇高校の生徒ですか?」と咄嗟に聴いてしまいました。
「はい」と。

修学旅行で東京に寄っているらしく、彼女の手を引っ張り集合場所の大きなレストランに走りました。二年前に自分も利用した場所です。
集合場所では懐かしい先生達も。自分は元気にやってますよと挨拶し。
隣の彼女は突拍子もない出来事に困惑していた様子でした。

集合場所を離れようとしたところ、二人組の女の子が駆け寄ってきました。
腕を引っ張られる女の子は、あの白い子。
「先輩。。」と頼りなさ気な声に涙ぐむ瞳。

何じゃそりゃ!こんな酷いドラマ許されるワケなく。

自分は気付くのが極端に遅い出来事が時々あるんです。
やっと理解しました。しかし、何故にこの最悪なシチュエーションで。
気付かぬフリして、彼女の手を引いてその場を去りました。
これは残酷過ぎる場面でした。さっきまで、今日はタイミング良い日だと思っていたのに。

その翌年の夏は、入手した250㏄の単車で北海道に帰省しました。
益々古ぼけた高校の校舎へ挨拶に。
三年間自分を担当した先生と再会し、痩せ過ぎた自分が心配だと返されてしまい。
でも、元気でなければ単車でこんな長距離走れませんし。実際、元気でしたし。いつも腹ペコだったけど。

数学の教員室でお別れし、階段を下りる途中で腕を引っ張られる女の子が。
「イーヅカ先輩!」

三年生になった白い子は、清純派アイドルのような綺麗な女性に変わっていました。
あんなに大きな声では、聴こえないフリも無理はありました。
しかし、無理なんだとも伝えられず、振り返りもせず。

昨年の彼女とはとっくに別れていて、独り身ではありました。
進学にしても就職にしても、自分の高校から東京に出てくるのは極僅かで。その極僅かなのも男子だけでした。
当時まだ若年者な自分でも、幸せは近くにあるに限るとも思っていて。
高校の同級生の中には東京で暮らす自分は派手な生活をしていると誤解もあったようです。しかし、実際は生活費と学費だけで精一杯だと気付き、大学時代に付き合った彼女は短い期間のその一人だけでした。

更にその翌年の夏、帰省した際に母から聞いたのですが、知らぬ名の女性から暫く前に電話があったそうです。
「〇〇さんっていう女性からケースケに電話があったのよ。この夏は帰省するのかって聴かれたの」と。
母はどうして直ぐに自分に連絡してくれなかったのか。そして、どうして自分の連絡先をあの子は聴かなかったのか。あと一歩だったかも知れないのに。
自分は毎度予告もせずに突然帰省して実家を驚かせていたので、母も答えようが無かったようです。これも確かに自分のせいですし、やはり誰も責められず。
あの白い子しか思い浮かばず、高校はもう卒業した年齢だったでしょうし、もう会うキッカケは残されず。
(その苗字についてはこうだったかな?と何となく覚えてはいるのですが、自信なく)

偶然な場面もありましたが、あんなに酷い素振りをしてしまった自分が未だ許せずです。
もう少し、気の利いた対応が出来なかったものなのかと。でも、思わせぶりを残しては一番美しかった時代に更に辛く長い時間を費やさせてしまったかも知れず、これで良かったとも。
互いにケジメの無かった中で時々、白い子のことを思い出しています。昨夜観た映画でも思い出してしまった次第で。
あんな引っ込み思案そうな子が、よく勇気を振り絞ってくれたなぁと。
「勇気」のほとんどは「言う気」だと何かで読んでいて。

北海道へ帰省する機会が社会人になってからの自分は減る一方でした。
ただ、帰省する機会があれば、何処かにあの子は隠れていないのかなぁと思い返したり。あの唄の歌詞に近く。
会えたところで自分も何を言えるのか分からないですが、お詫びの一言くらいは伝えたかった。
既に十年以上自分は北海道に戻る機会も無く。一度も。
封印未満の過去の土地。

漱石の三四郎でも終盤辺りに似たような場面がありました。
大昔の戦争の出陣式、隊列を見守る群衆の中に白い女性が居て。会えたのはその一度きりなのに。
ずっと歳を重ねてしまった先生、風邪をこじらせた夢枕にその女性が現れたそうで。
こんな感覚は誰しもあるものなのか?(未だ独り身というのも理由なのか)

大学時代に友人から紹介された本で当時流行り始めていた心理学の素人向けなのがありました。
お酒の席での話題作りとかには重宝するネタが満載で。その中で「人のイメージ色」みたいなのがありました。
うろ覚えですが、黄色いイメージの人は「面白い人」、白いイメージの人は「尊い人」。
これは案外、当たっていたのかも知れません。

名も知らぬあの白い女の子、きっと今頃は何処かで目の前の幸せと一緒に暮らしていることだと思います。勝手な想像ですが、子供さんは当時の自分達くらいの年齢で。
あの子の白い夏はいま、どんな思い出なんだろう。


何となくイントロだけ耳からコピーしてみました。

放送大学

例年、春と秋の季節になると気になる行事の一つが放送大学の入学です。
一応自分も大学を出てはいますが、卒業するまでの単位を効率的に取得することしか当時考えておらず。現役で入学したのもあって効率よく卒業出来て。右から情報を入れて、試験が終われば左から出すの繰り返しで。
働きながらの通学だったので、時間もお金も余裕が実際に無かったので仕方ないとも思えましたが、それにしても勿体ない過ごし方をしてしまったなぁと。
純粋な講義内容よりは、講師の脱線した話題の方が記憶に残っている実情です。
そんな引っ掛かりがあり、機会があればもう一度大学に通ってみたいなぁと時々思っていました。

大学に入るまで、自分は電気方面が合っていると何となく思っていました。当時趣味だった電子工作やアマチュア無線の延長でもあるなぁと。
物理の科目の中でも、電気については元々知識があったので点数を取りやすく。
しかし、大学に入ってから「いいなぁ」と興味を覚えたのは建築学方面でした。特に、仕事で建築学科の研究室を訪れると自由な設計の模型が沢山飾られていて。「こんなの他で観たことないなぁ」と毎度感心していて。
自分の受験生時代、理系の中では電気や電子方面の偏差値が高く、建築や土木の偏差値は低く、そんなつまらない点ばかり気にしていて。

放送大学で建築の資格まで取れたらなぁと時々思っていましたが、それは無理な様です。
しかし、たまにテレビでチャンネルを放送大学に合わすと、全く興味なかった分野であってもこれがナカナカ面白く。
講師によっては原稿を棒読みするだけの見栄えの悪い下手なアナウンサー的な方も居るのですが、それでも言っている内容自体はけっこう面白く。
どうせだったら入学してしまうか?と衝動に駆られることも。

そんな放送大学で、数年前にちょっとした話題がありました。
Twitterで「放送大学なんて本当の大学じゃない」と見下した記事を綴った何処かの大学の教授が居たのですが、「本当の大学の定義ってなんですか?」と質問してきた方が居て。
更に「そんなことも分からないの?」と見下す回答。質問した方の次の言葉は「私は学長です」。
噛みついた相手は放送大学の学長さんでした。その学長さんは東京大学の名誉教授でもありました。
最初に記事を綴った本人は、そのまま消えたようです。水戸黄門に通じる時代劇感というか。
当時、ネット上で話題にもなりましたが、今年の秋頃にその教授はまた何かやらかして、大学をクビになったそうで。

実際、社会人になってから「この人凄いなぁ」と思えた方は、大学を通信で卒業された方とか何人も観てきました。
子供の頃に観て感銘を受けた映画に「終身犯」というのがありました。残りの人生を独房で過ごすことが決まった男、ある日小さな窓に訪れた弱りきった小鳥の看病から、人生が変わってしまうストーリーでした(うろ覚え入っています)。
その後一度も観る機会が無く、チャンスを伺っている作品です。小鳥の看病から鳥の生態に興味を抱き、独房の中は途中から鳥だらけ。しかし、鳥の伝染病で困難が訪れたり。最終的にはその道の権威になるストーリーだった記憶です。
学ぶ場が何処であれ、探求心に勝るものは無さそうで。