洞窟探検隊の思い出

子供の頃にテレビのドキュメンタリー番組で洞窟探検隊が遭難してしまい、酷い水攻め状況から数日後に何とか脱出というのを観た記憶があります。日本テレビの木曜スペシャルだったか。
川口浩の探検シリーズが定番だったテレビ朝日の水曜スペシャルに比べ、日本テレビの木曜スペシャルは子供ながらに「やらせ度」が低い印象でした。
特に「どっきりテレビ」とかは、嘘がバレた際の騙された方がかなり本気で怒ってしまうとか。前者は娯楽度、後者は本気度的な。

その洞窟探検のドキュメンタリーがずっと気になっていました。放映前には実際に数日間に渡って救出劇がテレビニュースにもなっていて。
現代ですと、世間をそんなに騒がせた事故であれば放送は出来ないのだと思います。
自分が小学校の低学年くらいの出来事でしたので、細かい部分は綺麗に忘れてしまいましたが、山奥の謎の深い洞窟を探検するチームに撮影班も同行したところ、天候の急変で洞窟には大量の雨水が滝のように流れ込み、脱出不能な状況に陥ったストーリーでした。本来は探検目的の撮影が、生き残りをかけた脱出劇になってしまい。
救助隊が現地に駆け付けたものの、晴れていても難易度が高い場所で、この大水の状況では二次災害も十分に考えられて見守るしか無い(?)流れだった様な(勿論最善は尽くされていました)。洞窟の中で奥まで行かなかった中継チームは自力(?)で何とか脱出出来たものの、その先のアタック隊は連絡も取れない状況で、数日後にやっと自力脱出した様な。

この事故がずっと忘れられず、幾度か検索したものの葬られた情報の如く手掛かりが無く。
昨夜久し振りに検索したところ、判明しました。
岩手県の「白蓮洞」という洞窟で1976年に発生した事故だった様です。自分がまだ小学二年生の頃。
自分は富士山の青木ヶ原での出来事かと勘違いしていました。検索が上手く行かなかったのはこの部分に理由があったのかも知れません。
白蓮洞は日本一深い竪型洞窟らしく、513mの深さだとか。東京タワーより余裕の高さというか深さです。ちなみにスカイツリーの展望台は450mだそうです。
ただ、それにしても情報が少なく。この事故の影響で洞窟は立ち入り禁止となってしまったそうです。
事故の一部についてはこちらのサイトで触れられています。「mixiの某トピック」「猫仙人の洞窟探検」。

沢の水が洞窟に流れ込みやすい地形だったのが、酷い状況を招いた様子でした。最悪の場面でアタック隊と連絡が取れなくなった理由はインターホンのケーブルが途中で切れてしまったからの様です。
また、何処かの大学のワンゲルがチャレンジしたと思っていましたが、社会人の探検経験豊富な方々だった様子です。
結果的に全員脱出出来た事故でしたが、まだ生存しているのかどうか分からない状況でアタック隊が洞窟の入口から戻ってきた場面は感動的でした。
遭難中の最悪時に下手に動き回らなかったのも生き延びれた理由の一つだったとか。

自分は山や海で逃げ出したい思いを経験しています。山奥で体力を消耗してしまったり、悪天候のヨットで酷い酔いに襲われたり。地上に早く戻りたい感覚。
これが車での移動でしたら、車を停めてしばらくゆっくりすれば回復するものですけれど、山や海や空ではそうも行きません。
なので、地上でのアウトドアに自分は偏りがちです。この事故は洞窟という更に特殊な環境での出来事で、恐ろしさも半端なかったかと。海中とか宇宙とかですと更に怖そうです。

この件、mixiのトピックでも気になっている方がいらっしゃるし、自分もです。
もう一度観てみたいドキュメンタリーの一つです。後世に伝えるべき事故の実録だと思うのですけれど。

引用元

柴又へ引越しするまでの自分は下町で十年ほど撮影係を担当していました。
地域のサイトを三つほど立ち上げた中で、サイト内で使用する画像が必要だった流れでした。
サイトのコンテンツは当然ゼロからのスタートでした。画像も文章も。
コツコツ続けていれば、そのうちそれらしくなるだろうというスタンスでした。
1996年頃から細々と個人のHomepageを続けてはいたので、何とかなりそうな2006年頃の出発でした。
3つのサイトを立ち上げたキッカケは地元の町を盛り上げようと町会内で上がった案からでした。何かのお酒の席の勢いだったと思います。
ともかく1年は続けなければと。10年続けば大したモノになるかも知れず。

当初は自宅に玄箱という簡易サーバーを立ち上げての運用でした。
途中はMac miniをサーバーにしたりで。しかし、自宅は真夏になると40℃を超える暑さで、サーバーは幾度も倒れ。
サーバーの復旧に一晩掛かったり、翌日の仕事(本業)がなかなかキツかったり。結果的にレンタルサーバーに鞍替えしたり。

1年目を過ぎた頃にはだいぶそれらしくなってきました。自分も地元のお祭りや行事に頻繁に駆り出されていて。
準備や片付けを含めると、朝から晩までの活動も多かったです。自分はお酒が強くないので途中で抜けるのも度々でしたが。
せっかくの週末、早朝からの参加は正直「めんどくせーなー」な場面もありました。しかし、終わった時の充実感が全てを帳消しにしてくれて。

そんな流れで相当な枚数の写真が数年の間で溜まってしまいまして。
色々とあってスタートから7年目辺りで自分の役割は終わったのですが、その後も2つのサイトはまだ続いています。

柴又に引越した現在も当時の町のことを時々思い出し、検索する機会があります。
だいたいは、そろそろあの行事の季節だよなぁで。
昨夜は御茶ノ水のニコライ堂で復活祭が開催されたようです。
深夜に教会の鐘が一斉に鳴り響き、これがけっこうな音量で。まぁ、一年に一度のイベントですし大昔から続いているのでそれが問題だとは個人的に思っていません。
それでも不満に思う方はいらっしゃるようで、毎年その晩のTwitterを確認すると苦情系も目に留まります。
大学や病院、予備校が多いエリア、近くにはその宿泊施設等もあったりで地方から上京されてくる方は当初驚くのかな。

検索した中に時々発見があります。
自分が過去に撮影した写真が、何の引用も承諾も無しで使われているパターンです。
それで儲けようとは思っていませんが、一声かけてくれるだけで気持ちは全然変わるのに。
中には承諾希望のメールが届くこともありましたが、こんなのはかなり稀でした。


例えば上の写真です。中にはオフィシャル系で勝手に使われているのもありました。
歴史書の出版物で採用された写真でもありまして、その際は出版社側から事前に連絡がありました。

ニコライ堂の復活祭

昨夜知ったのは、この写真。
ちとお酒が入っていたのも手伝い、苦言を残してしまいました。

上のどちらの写真も、広角を利用した撮影です。
神田祭の方はアマチュアカメラマンがひしめく中、どのポジションでどうやって撮れば雰囲気が伝わるかなぁと自分なりにその瞬間を狙っていました。
一番人気のあるポジションが必ずしもベストとは限らず、自分のように撮影場所を移動しがちなカメラマンは残った空いてるスペースに入り込むしか無く。
結果は偶然性も伴い、ともかく撮り直しの効かない一瞬です。
ニコライ堂の復活祭も、大きな背景に信者の方々をどうやって収めるか、深夜に考えつつの撮影でした。
実際、自分の所有する広角寄りのズームレンズを目一杯広角にしても収まり切らず、道路の一番隅に三脚を何とか立てて撮影した場面でした。シャッタースピードの遅さは人の動きによるブレと静止した背景に活かされたり。(フラッシュの不自然な光が苦手で、仕方なく三脚を使用でした)
参列者の多さを伝えるには、町を巡り終えた先頭の司教が教会に戻るタイミングだろうなぁと考えたり。このタイミングでも参列者の最後尾はまだ教会の中で。
このタイミングは事前に知っていないと狙えませんし、実際何年か通ったから撮れました。

頑張ったからとて必ずしも納得の撮影とはなりませんが、引用する人はその辺の苦労も少し考えてほしく。
簡単に撮れた場面では無いのですから。

周恩来さん

近くて遠い国に中国やロシアや朝鮮半島があったりです。
報道の偏向があるのかも分かりませんが、あまり良い噂が実際届いていない感で謎多く。
どの国も日本との領有権を現在進行形で争っているので、仕方ないのかもしれません。
ただ、近代史を紐解くと、ちと怖いなぁと思える場面も多いです。都合が悪いと消されてしまうとか。

表題の周恩来さんを知ったのは、ラーメン二郎の神田神保町店さんで満腹になった後でした。
ここのラーメンは小でもとんでもない量で、大食いな自分でも食後はキツく。大抵は食後に近くの公園でイップクしていました。
その公園に謎の石碑がありました。「周恩来ここに学ぶ」と(幾度か自分も写真に残しているのですが、発掘が難しくGoogleのストリートビューから拝借です)。

周恩来さんは何処かで聴いた名前ですが、ラーメン屋の後では何者か存ぜず、検索してみると凄い人生を歩んでいて。
要約すると、
・太平洋戦争前に中国から日本に留学するも成績が足りず色々と苦労。その後にヨーロッパで立派な大学の学習の機会を得られたものの、学費が足りず断念。
・中国に帰国してから共産党に入党するも、人道的な立場が故に難しい調整役に駆り出されてばかり。
・その後の共産党の躍進で、文化大革命中(文革)も失脚しなかった首相。
・特に文革中は大切に育てていた養女(孫維世)も酷い仕打ちで消されていて。孫維世さんはいまでも十分通用しそうな美女で女優さんでした。
・その文革中は多くの庶民の命を救った。
・党内に敵が多い中で病に倒れ、墓を荒らされるのを避けたく、遺骨は中国の空から散布された。
・ずっと板挟みな人生であった。

また話が飛びますが、自分の小学生時代はまだ文革のさ中でした。AMラジオからは北京放送の民族音楽とか、同様に大出力のピョンヤン放送やモスクワ放送もプロパガンダ的な番組を日本語で流していたりでした。
良いのか悪いのか別として、夜のラジオから届く異国の曲はかなりエキゾチックでした。

周恩来さんについては、検索すると色々と情報が残っています。これも何処までが真実だか分かりませんが、一番酷い史実としては養女の気の毒過ぎる死に方です。
先ず文革についてまともに説明すると非常に長くなるので要約すると「庶民の家畜化」とでも申しますか。教師や医者といった教養のある人は否定され、尽く抹殺されていたようです。当時の同様な流れは他国になりますが映画「キリングフィールド」がそのままです。ビールやキリンさんの映画ではありませんが、色々と考えさせられます。
東西の壁が崩れた時代のゴタゴタも無かったことにされている歴史上、文革は失策だったと認められているようですので、余程なことかと思います。
更に脱線してしもうた。

養女孫維世さんの人生について。
古今東西、美女の基準は色々あるようですけれど、孫維世さんは今でも通用する目鼻立ちの整った美人です。人柄の良さまで伝わってくるような。
何故に周恩来さんの養女となったのかは知りませんが、文革の張本人である毛沢東におかされ、それを知った毛沢東の奥さんの嫉妬で酷い終わり方をしています。その辺はここの文章に遺し難く、Wikipediaのこちらのページで(掲載されている周恩来夫妻と娘さんの幸せそうな写真も演技ではなく一緒に居れる幸せが何だか身に沁みます)。Webで検索すればもっとリアルな酷い有様が伺えます。また、毛沢東さんの奥さんは元役者だったらしく、当時から孫維世さんをライバル視していたそうで。
普通の親なら、大切な娘にこんな酷い仕打ちをされて黙っていられないと思います。しかし、立場上はそれを訴えることも出来ない状況だったそうで。文革時に少しでも庶民を救いたかったのは庶民にも伝わっていたようで、酷い親とは責められなかった様です。

Wikiのこの部分に要約されているかと思います。
引用:彼(周恩来)は同志と人民から尊敬された人物である。文化大革命の時、我々は下放(地方、農村での思想矯正)したが、幸いにも彼は地位を保った。文化大革命のなかで彼のいた立場は非常に困難なものであり、心に違うことをいくつも語り、心に違うことをいくつもやった。しかし人民は彼を許している。彼はそうしなければ、そう言わなければ、彼自身地位を保てず、中和作用をはたし、損失を減らすことが出来なかったからだ。
庶民からだけ認められていたワケではなく、このような状況の国での外交でも国外から認められる立場だった様です。

ラーメン二郎の神保町店さんは昨年末に移転してしまい、その後はまだ訪問出来ておらず。
近いうちに美味しいの頂かねばのぅと思っています。
ティーンの内に上京してから、神保町界隈は発見が未だ多いです。
この石碑は何ぞや?って、面白いと思うんです。またしても春なので、自分もまた神保町に出没せねば。勿論食後に。