奇人変人

以前にエベレストの登頂史をWikiで読んだところ、これがなかなか面白く。
なかなか登頂に辿り着けない歴史で、異色を放った一人が居ました。
本文からの引用では「1934年、イギリスの奇人モーリス・ウィルソン (Maurice Wilson) が飛行機を山腹に不時着させ単独登頂をするという計画を立てたが、不許可となる。登山経験のないウィルソンは「霊的な助け」によって頂上にたどりつけると信じ、2人のシェルパを雇ってノース・コルのふもとまであがったが行方不明になる。」とのこと。

歴史上の人物は色々と肩書があるものですが、このモーリスさんの肩書は「奇人」。
元々パイロットだったそうですし、現代でも飛行機を個人で所有できる人というのはかなりのお金持ちのハズで当時なら尚更かと。冒険家の一面もあったワケですし「奇人」以外の肩書だって書きようかあったと思うのですが、やってることがぶっ飛び過ぎていて「奇人」が適切な表現だったのかなぁと。
モーリスさんのやってきたことは他のサイトでもっと詳しく紹介されていました。誰よりも先にエベレストに登頂したかった様子で、この手段を択ばない作戦は凄いと思えます(結果的に帰らぬ人となりましたが)。

冒険家という存在自体、そもそも奇人の部類かと思っています。特に危険の付きまとうレベルですと、相当なリスクを背負うワケで。
初期の宇宙飛行士なんかも、それに類するのかなぁと。名声の獲得も少しはありそうですが、自分の目で見てみたいという欲望や好奇心が勝るのかなぁと。
その気持ちは自分でも分かります。「無理だ」とか「無謀だ」と言われることほど本当に無理なのか自分で試してみたくなる部分。自分でも分かるというより、自分は人よりその傾向が強いかも知れなくて。
ただ、命を落とすかも知れないレベルの挑戦はしたいと思わないですけれど。(若い頃に車や単車を無駄に飛ばした程度で、これは誰でもあった範囲かと)

誰しも多かれ少なかれ奇人変人な部分はあるかと思います。一人で居る場面など人に見せられたモノでは無いと思います。
それが冒険の方向に傾くと、場合によっては奇人でなく偉人になれるのかなぁと。しかし、そんな分野でも奇人とされたモーリスさんはやはり筋金入りなのでしょうネ。

で、「奇人」とは何ぞや?とWikiで検索したところ、面白い人が沢山登場しました。
こんな人が居たんだなぁと。中には大塩平八郎も載っていて。乱が成功していたら偉人扱いだったのかも知れず。
お暇な方は読んでみる価値あるかも知れません。

向かいの部屋に空きが出た

このマンションに引っ越してから、あと半年で三年を迎えます。ローンはあと七年ほど。
住み始めてから色々と問題もありましたが、魅力の多い集合住宅です。

既に築三十年経ったマンションですが、自分の理想に近い雰囲気でした。
昨年放映されたドラマ「ひよっこ」で売れっ子女優さんが住んでいたマンションを小ぶりにした雰囲気です。
あんなに立派ではありませんが、レンガ風のタイル張りの風合いや、無駄に背の高くないシルエットがセコセコしていなくて。
このマンションは昭和の後半から平成の初め頃まではブランドマンションだったそうですが、今となっては部屋の間取りも狭さを隠せないものの、それまで暮らしていたマンションよりは快適です。
普段の快適さだけを求めるなら最新のタワーマンションに限りますが、大震災時とか大規模修繕時とか、あれは恐ろしいと思っています。まぁ、自分には手の出せない値段ですけれど。

「ローマの休日」でグレゴリーペックが暮らすアパートメントみたいなのがずっと理想でもありました。
あの建物も公開当時既に古臭いのですが、何だか独特なアジがあって。
古くなってもアジのあるのが素敵に思えて。日本ですと同潤会辺りでしょうか。
他にも、かなり独特ですが中銀のカプセルタワーなんかも。

雨が多い風土もありますし、修繕が滞っているのもありそうです。
自分の暮らすマンションは、その辺も最低限はしっかりしている様子です。何かの修繕や点検が年に幾度も入っています。
実際、この周辺で同時期に建てられた他のマンションはちと残念な見栄えなのも多く。
そして、ここを選んだ理由の決め手は庭に単車を置けること。あと、小さな畑もあること。
こんな物件は滅多にお目に掛かれませんし、未だ貴重に思っています。

自分がこの物件を購入してから、中古マンションの相場が上がっている様子です。
中古マンションの底値はリーマンショックのあった2008年頃だったと思います。
あの頃は凄かったです。都心の中古ワンルームクラスは捨て値でした。現在は当時の価格の三倍近いのもあったりです。
当時も買おうと思えば買えたのですが、この先も一人暮らしなのか見極めがつかずで、やり過ごしまして。
当時は兄の事業の連帯保証人でもありましたし、これは大きな借金と見なされるそうで。

いつも腰の低かった御向かいが今年の初旬に引越されてしまったのは残念でした。
いつもニコニコ笑顔の旦那さんは五十代の気取らぬオッサンでしたが、若い頃はきっとモテたんだろうなぁと。奥さんも綺麗な方でした。
引越し直後からリフォームが入り、内装は全て入れ替えた様子でした。
その物件が最近売りに出されました。これがけっこうな高額。
更に郊外でもう少しお金を積めば、新築のマンションが買えてしまいます。

この風合いある外観が好みという変わり者の目に留まったら、案外早く買い手が着くかもしれません。
そうでなければ、ジワジワと値下がりもあり得ます。
どっちに転ぶか、ちと気になります。
下手に高値で売れてしまうと、自分の固定資産税にも跳ね返ってきてしまいそうですし。
まぁ、余計な心配だとは思います。

遠くの出来事

遠くの出来事はニュースでしか知る由も無く、「へぇそーなんだ」で鵜呑みにするのが普通で。
公のニュースなんだから、そんな大きな間違いはないだろう。と思うのが普通で。
性善説は悪くないと思いますし、自分もその中の一人です。
しかし、いざ現地に近付くと、なんじゃそりゃ?な場面も多かったです。

自分は「アメリカかぶれ」な部分が多いです。服も音楽もその他の文化も。
しかし、ヨーロッパではアメリカを煙たがる方も実際多かったです。
例えば、英語の発音が崩れていて分かり難いとか、アメリカだけ単位(ポンド、ヤード、華氏等々)が違ったりとか。
そして、他国への介入が多いとか。

超大国だから振舞える部分があるのかなぁとは思います。特に日本は先の大戦で負けていますし、アメリカ発の情報が正という前提になりがちなのかと。
実際、高度成長までは日本も色々と多めに見てもらってきたとは思います。貿易面の優遇や、様々なコピー商品の輸出も含めて。

「クジラは何故あんなに寒い海で暮らしているのか?」という問いが以前に読んだIT系の記事にありました。
大きな身体の体温を落とす為とか色々とありきたりな理由が出てきた中で、その記事は「そこに餌があるから」と。

超大国が外国にちょっかいを出すのは、そこに利権があるからというのは多かれ少なかれあるようです。
しかし、そんなことは表向きに出せないので「石油が欲しい」とは言わず「独裁国家で国民が不自由している」となったりとか。
実際のところ、どうなのか自分も分かりません。
しかし、アフリカに技術支援へ伺った際、現地で教養のある方々は「カダフィが暗殺されたとき、何故にそこにヒラリー女史が居たのか?」と話題になっていました。
ここでいうヒラリーさんとは前回の合衆国大統領選で立候補されていたヒラリー・クリントンさん。
そして、カダフィさんとはリビアで暗殺された特栽者とも言われたカダフィ大佐。アラブの春の一つでした。
カダフィさんの暗殺直前にヒラリーさんがリビアに入国していたのは、日本でその当時あまり知られていなかったと思われます。

カダフィさんが暗殺された数ヶ月後に自分はアフリカのカメルーンへ技術支援で伺っていました。JICAとか大使館関連とか、日本でいう文科省系の方々と食事を一緒にしたことも。自分は勿論ちっとも偉くなくただの技術者。
大使館への訪問を突然誘われたりもあったりでしたが、自分はクロックスのサンダルしか持参しておらず(プライベートの荷物より少しでも使えそうな機材を持ち込みたく)、辞退しています。直近にあったトラブルの方が重要でしたし、それが片付かないと帰国も難しく。
美味しかった料理は大衆食堂で頂いた破格の舌平目くらいで、何もかも日本人の舌には合わず、シャワーは突然熱湯しか出てこなくなったり、停電も断水も頻繁で。何よりも治安が悪すぎて一人で街中を歩くことも許されない状況。
早く、日本で白いおまんまを頂きたいだけでした。吉野家の牛丼も一杯千円で許されそうな日本人にとってのアフリカでした。

昨年のアフリカにて
自分の知っているカダフィ大佐は、それイコール独裁者な方程式でした。権力を盾に好き勝手暮らしつつ、国民は不自由な生活を強いられ。
これも遠くから届くニュースを元にした知識でした。
しかし、リビアはある面理想国家で、生活面や教育面で国民は様々な恩恵を受けていたそうです。無償に近い扱いが出来た理由は石油で儲かったお金が国民に還元されていたと。
独裁者というレッテルは、半島の北側の国に近いイメージで、損する印象が濃いです。ましてカダフィさんの見た目はヒール役のプロレスラー。

帰国してから検索してみたところ、同様の記事が僅かに見受けられて。
その件を思い出した先程、改めて検索したところ同様の記事はかなり増えていました。例えばこちらのサイトです。→”カダフィーの真実~理想社会を創った英雄:のびやかな暮らし”
これは自分がアフリカで聴いた話にけっこう近く。

自分が普段調べ事で参考にしているWikiでもカダフィ大佐の記事は負の側面が未だ多い感です。
それで、カダフィ大佐が暗殺された後のリビアがどうなったか?というと、もう無茶苦茶な状況らしく。最悪な状況の庶民生活だとか。
上記のWikiの記事では僅か一行で評価の一面も綴られてはいます。しかし、もっと具体的に綴ってもいいのになぁと思えたり。
その一行を引用。「カッザーフィーの政策はイスラム過激派を抑え込むなど治安面での安定をもたらし、豊富な石油収入を国家が管理し、それを国民に分配することで世界有数の福祉国家を作り上げた実績も決して無視はできず、カッザーフィー亡き後にリビアが世界最悪ともいえる悲惨な状態になっている中、カッザーフィーの政策を評価する人も決して少なくない」。
まぁ、上手く要約されているとは思います。

世間で知られている情報に従うのは、ある面安全ではあります。そして、異を唱えるのは危険だったり。
ただ、事実に沿った情報か否かは次元が異なり。
しかし、どれが事実なのかは当事者に近くないと分からないかと思われます。
ここで自分が綴っていることも人づての話なので、どこまで本当なのか自分でも分かりません。
ともかく、株価が上がろうと下がろうと、現状維持を何とか続けているこの国で平凡に暮らせていることに感謝してはいます。(こんなオチです)

春の浪人生

自分は浪人の経験が無く、人づてで色々聴いています。
成績が良かろうと悪かろうと、狙った大学の試験の点数が足りなければ落ちるもので。
試験までの努力はあっても結果に結びつくかは運もあったりします。体調だったりヤマが当たったり。
一浪目の春を迎えると、模擬試験の結果は一気に上がるそうです。恐らく、合格圏の上の方がどっさり居なくなるからかと。
それで胡坐をかいてしまうと、数ヵ月の内に現役勢がメキメキ力を着け、試験日当日にドングリとなったり。

高校の同級生の最長記録は四浪で千葉大学というのが居ました。
結果的には良かったのですが、一浪まででしたら大学卒業時はまだバブルが終わっていなかったので、就職には困らなかったと思います。
その後どうなったかは自分も知りません。

随分前にも綴りましたが、自分の場合はどうだったかというと。
家は裕福でなく、高校も奨学金で通っていました。北海道で暮らす三人兄弟三男坊。上の二人は優秀で北大と早稲田に通っており、自分は特にパッとしない成績。
大学に行かせてもらえるとは思っても居なく、アルバイトに明け暮れる高校生でした。
ただ、そのアルバイトで社会を色々観れたお陰で、高校卒業までの一年間で「やはり大学に行くべき」と思った次第です。
浪人は許されなく、自分で生活費と学費を稼げる環境で入れる大学というのはかなり限られました。

地方の国立大であれば合格圏なのもありましたが、自分でお金を稼げる環境など無く、消去法で行くと都内の夜間大学のどれかとなりました。
国公立の夜間と私立の夜間の併願で考えていたところ、センター試験の直前に次男から「お前みたいな馬鹿が併願など許さん。俺たちは単願で入った」と脅しが入り、安全パイの私立だけ受けた次第です。(実際二人の兄は単願でした)
今では想像つかないと思いますが、当時の受験環境はかなり厳しく、ランクに関わらずどの大学も受験倍率はけっこうありました。
夜間でも知名度が高い大学は他の昼間大学に受かっても流れてくるのが実際に居ました。

運良く自分は希望の大学に入れました。試験直前の成績の追い上げは自分でも凄かったと思います。これぞ現役パワーです。
何より、落ちた時の恐ろしさは感じていましたし、落ちた先のことなど何も考えずで。
現役で希望の大学に受かった連中は、実際我を忘れてな部分が多かったかも知れません。高校の薄暗い廊下でモゴモゴと独り言を唱えながら歩いている友人は何かを暗記している様子でしたがこれが可笑しくて。追い越しざまに「しっかりしろ!」と顔を引っ叩いてやったら、「おぉ」と我に返っていて。普段なら引っ叩き返してくるのに。
新年から卒業式までは高校に通う必要が無かったのですが、その間に精神的に病んでしまった奴も居たらしく、後から知ったりでした。
なので、こんな張り詰めた状況を何年何ヶ月と続けられる浪人生というのは、そんなに居ないんだろうなぁとも思えました。
誰しも底知れぬ力を秘めていたりします。しかし、置かれた立場と天秤にかけたり、自分が知る身の程も忘れてはいけなく。夢だけはどんなに大きくても構わないし許されますが。

実際に大学へ通ってみると、想像とは違う部分がけっこうありました。夜間の学部だと「青春の門」のようなハングリーな奴等がひしめいているイメージだったのですが、周りのほとんどは昼間部を落ちて流れてきたのばかりで、特にお金に困っているのは少なく。
それでいて一般教養の科目では「こんなのも知らないの?」と思えるのが多く。当時棘だらけだった自分は平気で「君達とは毛並みが違うんだよ」と漏らすほどで。勿論冗談も何割か入っていましたが本気で言っていた部分もありました。
二浪して日大を蹴って入学した同級生は自分の兄と同い年。そして都内の立派なマンションからソアラ(高級車)で通学とか、なんじゃこりゃでした。当初、自分はこの同級生に相当失礼な対応をしていて(途中でお互い理解していまでも付き合いは細々とながら続いています)。
所謂「嫌な奴」です。しかし、中には自分より捻くれていた奴も居て、ハッとしたりでした。気を付けねばと。
入学してからは成績などどうでも良く、ともかく最短期間で効率よく卒業出来れば良いと思っていたので、何処まで手抜き出来るか?な姿勢でした。
現役で試験慣れしていたので、学業面での苦労は少なかったです。気の毒だったのは社会人入試で入ってきた連中でした。
自分とは真逆で試験慣れしておらず、ブランクもあり、主要科目の基礎が完全に抜けている方も多く。特に英語と数学は気の毒で、微分積分を知らなければ解けない物理とかも。
自腹で教材も学費も捻出していたので、勿体ないから講義だけはちゃんと出席していましたが、公務員やしっかりした仕事に就かれていた方は仕事が忙しく、来たくても来れない状況でした。
自分の場合はこれまた運良く大学の職員に就けていて、勤労学生向けの立場だったので残業はほぼゼロでした。
しかし、昼と夜の両立は決して楽ではありませんでした。実験のレポート作成は徹夜になりがちでしたし、翌日には仕事も待っていて。留年したら解雇な立場もあり、バランスが重要でした。

途中経過を綴ると無駄に長くなってしまいます。途中で自分の成績はドングリでした。毛並みも何もあったもんじゃ御座いません。
入学当時は遥か先だった出口も何となく観えてきて。夜間の五年制で、入学当初は卒業の割合がけっこう低かったらしく。色々な事情で退学者も多かったそうです。
自分の代はこの通り夜間学生らしからぬ学生だらけだったので、ほとんどの同期が五年で卒業出来ていました。
家庭も子供も持った警察官だった方が、卒業後に地方の高校の教師になったり、凄い人生を歩んでいるんだなぁと思える方も居て。
今から思うと、生意気でしかなかった自分は同期からも職場の大人達からも「若いから」で許されていた部分が多かったんだと思います。
時はバブル。しかし何の恩恵も無い自分でしたが、大学卒業時の就職だけは楽させて頂けました。

高校時代の同級生の話に戻ります。
北海道の浪人勢が都内の大学を受験する際は、自分の部屋に泊まり込むパターンがありました。
三浪とかしていると、もう緊張感も抜けてしまう様で、本人も堕落した日々を嘆いていました。都内で何校も併願しているのに、試験日に自分の部屋で一日中ぼんやりしていたり。
自分が何か言ったところで変わるワケでも無いのは分かっていたし、お説教みたいなマネもしたくなく。しかし「これだけお金かかってるのに、勿体ないじゃん」くらいは言いました。
浪人を重ねる連中は、考えてみたらお金に困っていないのばかりでした。
しかし、長いジレンマから抜け出せぬ連中だったので、お金があるからといってあれが「羨ましい」とは思えなく。
立場上、目立ったことは何も出来ず、地下生活のような日々に観えてしまい。どっちが幸せなんだろう?と時々考えてしまいました。

自分の部屋に泊まり込む連中の中で羨ましい部類も居ました。
現役でソコソコの国立大に入り、連休に入ると海外旅行に向かう連中でした。アジアやヨーロッパやアメリカが目的地でしたが、出国や入国の辺りで自分の部屋を宿泊地にしていて。
全く持って羨ましい。ただ、帰国後の話を聴くのが楽しみでした。財布を現地で盗まれた等の危険な思いをしたのはヨーロッパが多かったそうで。
そして、ヨーロッパから戻る連中は総じて足が臭かったです。これは何故か共通していました。

自分が四年次だったときは、就職活動で泊まり込みに来る連中も居ました。
中には明け方まで一緒に飲み続けてしまい、面接が最悪の結果となり恨まれてしまったこともありました。(あれはスマンことをしてしまったと未だ反省しています)
五年次には成績優秀だったH君が北大の大学院に進み、学会の発表で自分の部屋を宿にしたことも。(現在は某国立大で助教だそうです)
H君には「俺みたいなドブネズミのような生活を送っているのとはえらい違いだよ」と弱音を吐いたりしてしまいました。
しかし、H君からすると「俺だって好きな道を歩んでみたかったし自力でやってみたかった」と。一人っ子で親の期待を相当背負っていて。そしてH君は生まれながら片目の視力が無いハンディを背負い、スパルタ教育で育っていて。
大学院に進んだ中には教授とウマが合わず、退学してしまった真面目な奴も居ました。中学生時代から優秀で名が通っていたのですが、退学で親からは勘当され消息不明になり。
そして、当時の多くの友人が、いま何処で何をしているのか自分は知りません。
(ここまでは過去にも似たような話を幾度か綴っています。以下の話題は何年振りかな..)

自分はずっと一人暮らし。身内には現役の学生が現在居るハズです。
十年近く前に亡くなった次男の子供達四人です。
兄が亡くなるまで、自分は兄の事業の連帯保証人で色々とありました。
兄についてはアルコール依存症の末期で、最期の期間はコミュニケーションをまともに取れなく、もう諦めていました。
まだ小さな四人の子供達だけが心配でした。自分が連帯保証していた兄の借金については結果的に保険で賄えましたが、その部分も結果が分かるまでは生きた心地がせず。
兄の家族は実家と折り合いが悪く、兄の葬儀に参加出来たのは兄と一緒に暮らす家族と自分だけでした。
その後自分とも途絶えています。実家が随分と迷惑を掛けてしまった以上、自分からの連絡は取り難く。
なので、その後どうなっているかは風の噂の範囲です。

兄の長男も幼少期から優秀で、六大学には進めたようでした。中高一貫の進学校に当時通っていて、トップの大学を目指していたのですが、あの環境で上出来です。
次男は昔からお人よし。何処で教わったのか謎なお笑い芸がお得意で。
三男は自分と一緒で何も期待されていない雰囲気でした。二人の兄からオモチャにされてしまう場面とか目にしていると、何だか昔の自分と同じだなぁと。
抗議の意思で、トイレに逃げ込んで鍵を掛けてしまったりするそうで。自分も全く同じことを幼少期にしていて(途中で家族が音を上げます)。
兄の葬儀の場面で三男は、沈んだ雰囲気の周りを明るくしようと努めていて。優しい子でした。
一番下の長女はまだお人形さんのように小さく、お母さん思いの甘えん坊でした。四人目に生まれた待望の女の子。

君達に会うのはいつも楽しみだったけど、四人も居るとお小遣いは楽じゃなかったんだよ。
兄の長男が生まれた頃からお祝いとかお小遣いとか自分は渡していたのですが、そのほとんどは将来の学費に向けて貯金に回していたそうです。しかし、末期の兄はそれさえ使い込んだそうで。
なので、最期のしばらくは長男に四人分渡し「好きなもん買え。何も残らなくていいから奪われる前にパッと使え。分かってるよな?」と笑いながら伝えていました。
冗談として伝わらなかったのか、笑ってもらえなかったのが悔やまれます。最悪の場面の冗談は案外重要で。

その三男もそろそろ高校卒業だよなぁと時々思い出していました。幼少期の成績がどうだったか何て、気にしたこと無く。三男とはそんなもんで。
奨学金を借りてまでbe動詞から教わるような馬鹿大に通うようなことが無ければ良いなぁと思ったり。まぁ、これは余計な心配というより、余計なお世話でした。
今年に入り知ったのですが、勘違いかも知れませんが、三男はどうやら日本のトップの大学に一浪して昨年入学していた様子です。
これは自分でも驚きでした。その世代でそうそう居ない珍しい名前で、写真に面影は残り。

自分の現役時代に比べてどの大学も入りやすくなったようですが、トップの大学は自分も目指そうなんて思ったことは無く、自分の高校から進学出来たOBは歴代でも極僅か。
自分の元父も同じ大学を目指していたそうですが、一浪しても駄目で、併願していた二期校の小樽商科大学に進んでいます。早稲田の商学部も受かっていたそうですが東京に出るにはトップの大学以外許されなかったそうで。
当時二期校だった小樽商科は北大の文系よりランクは高かったとも聞いているのですが、元父本人は早稲田に行きたかったそうで、色々とドラマがあったそうです。
亡くなった兄はそんな早稲田に現役で入学していて。子供達はそんな話を聴いていたのかどうか知りません。しかし、三代目で目標達成となったようです。
世の中、大学は幾らでもあるのに、何の因果ぞよ。

兄があのような亡くなり方なのもあって、四人の子供達に自分は当時伝えていました。
「勉強はソコソコ出来れば十分だから、何より健康的に生きてほしい」と。
三男はこのオジサンの言葉を忘れてしまったのかなぁ。

勿論、嬉しい部分は幾らでもあります。家族の支えや本人の努力もあっただろうと。
ただ、自分の家系はアルコールで人生をドブに捨ててしまうパターンが多く、元父も兄も同様に大学に入るまでに運だか何だかを使い切ってしまっているようにも思えて。
人生まだまだ長いので、ずっと先の目標を立ててくれたらいいなぁと思っています。
(迷惑掛かるかもしれないので、この文章は消すかも知れません。だた、ずっと気にはしているんです)

Webでお金儲けの話

かなり胡散臭いタイトルです。敢えてこのタイトルにしました。
自分、利己的な輩が昔から苦手で。これを綴ると非常に長くなるので、以下に上手く手短にまとめられるか自信無いのですが。

例えば、大手企業の本社に勤務していた頃、会社のヨットチームからお誘いがあり、幾度か乗船しています。
しかし、チームの一部は「マルチまがい商法」にハマっていて、そんな人達は見せ掛けのゴージャスな生活を好むようでヨットをそのアジトのように利用していて。
マルチまがいにハマる人達は利己的な輩ばかりの認識でした。大切な人の繋がりをお金に換えてしまう愚かな輩くらい酷い認識です。
多くの人は失うものの大きさや多さに気付かれているのかなぁ。信用とか。
一緒に扱われてしまうのは避けたく、ヨットを離れた理由の一つになりました。

マルチまがい商法に限らずそんな利己的な輩ほど、近寄ってこようとして。
避けているのも気付かないのか不思議なくらいです。狙われる獲物な心境です。
どうゆう精神構造をしているのだか。

前回の投稿に続くのですが、盗用された写真の件で色々と数日間考えさせられました。
やられてしまった方によっては請求されるパターンもあるようですし、埒が明かなければ裁判にも持ち込むそうで。
これまでの自分は、なるべく利他的でありたいし、誤解は避けたいしと思っていて、寛容な姿勢でいました。
しかし、無償での作品提供が増えてしまうと本業の人達(プロ)の仕事が奪われてしまう危険がありまして。
だとすると、自分のやっていることは利他的であっても必ずしも「善い行い」とはならず。

だいたい、プロとアマチュアの違いというのも線引きが難しく、自分は一言で説明が出来ません。
特に写真でも文章でも音楽でも、コンスタントに良作を生める人は本当に凄いと思っています。
自分にはその才能がないのが分かっていて。それを本業にしたとき、スランプに陥った場面など想像するだけで恐ろしく。
プロの方はどんな場面でも一定以上のクオリティを保たれている印象です。

世の中、副業が容認されたり認められたりする時代になってきたそうです。
正当な方法であれば問題ないのかな?と思っていたりです。
しかし、「SUKIYAKIが金儲けに走った」と誤解を招くのも何だか怖く。悪いイメージは避けたく。

過去に自分が撮ってきた写真の多くは、地域のボランティア的な立場での撮影でした。地元の交流サイトで利用する目的でした。
必ずしも納得の出来ない作品も実際多かったです。それでも公開しなくちゃならない産みの苦しみもありました。
また、集合写真の中には偶然妙な表情に撮れてしまう方も多かったりで。こんなの載せたら本人は嫌だろうなぁと思われるのはなるべく省いたり。
公開前提の撮影許可は頂いておりましたが、肖像権で訴えられたらどうしよう?とか。実際にその点で第三者から警告を受けたことはありましたが、意外にもそれでトラブることは無かったです。
撮影当時は小さな子供だったのが、都心地域だったからかその後に立派な芸能人になられたり、オリンピックの柔道で金メダルを獲得されたり。
例えば、自分が自慢げに「こんな写真持ってまっせ!」と著名人になる前の姿を勝手に公開したら、それまで大切にしていた何かを失うと思います。
そんなこんなで場数踏むまでは、判断に迷う場面は多くて。
判断の基準が「利他的」であったから、悪い方向に転がらなかったとしか思えず。

ちと話が逸れてしまいましたが、ボランティア色が濃い中での撮影でしたので、係員の腕章を特別に借りられた場面も多かったです。
周りは報道系のプロカメラマンで、ロープの張られたパイロンの後ろには多数のアマチュアカメラマン。肩越しの僅かなスペースから撮影という煩わしさから解放される立場がありました。
写真のコンテストのお誘いを幾度も受けてはいたのですが、上記のような土俵の違う立場での参加では申し訳なかったですし、全て丁寧にお断りしていました。
(ランク付けされてしまう怖さも勿論ありました)

あと、機材についてです。
最初はコンデジでした。お金も無く結果もまだ何も残していなかったので。
しかし、引き伸ばしに耐えられる高画素なカメラの必要性を感じて、途中からNIKONのD50という当時一番安かったデジタル一眼を購入しています。
FM2という古いアナログな一眼レフは既に持っていましたが、現像代等が馬鹿にならない枚数の撮影のため、数本のレンズだけ再利用していました。
D50は普及機ながら、写りの色具合はかなり良かった印象です。また、ズームではない単焦点レンズを使用した際の表現力は自分でも驚くものがありました。

経験を積んでいるうちに、地元の町歩きの撮影係も依頼されるようになりました。
これは出版目的のお手伝いで、更に解像度が要求される撮影でしたので、D70という中級機種も新たに入手。
解像度はこれで更に上がりましたし、カメラの頭脳部分も進化していて操作レスポンスも格段に良くなっていました。急に撮影したくなった場面ほどタイミングを逃さず。

最終的にD800という機種で落ち着いています。
フルサイズのデジタル一眼で、安くはない買い物でした。レンズを含めるとボーナスの半分は吹き飛びました。
ロンドンオリンピックのプロカメラマン向けの需要で製品は入手難な頃でもありました。物はたまに出回っても値引きはほとんど無く。
やっと手に入れたフルサイズでしたが、皮肉なことにこの頃の自分は本業の仕事が忙しく、町の行事に参加できる機会も減り、撮影の機会を失うばかり。
地元ではちょっとしたゴタゴタも続き、参加し難い状況でもありました。
その後自分は引っ越しをし、シャッターを切る機会はほとんどなくなりまして。
そんなワケで、最期のD800はほとんど無駄な投資となりました。

振り返ると、けっこうなお金を自腹ではたいてしまったのですけれど、沢山の人と知り合えましたし、貴重な経験も多くて。
それでヨシとしています。

過去の撮影分の何割かは、当時管理していた3つのサイトで公開していました。
自分が活動を離れる際は引継ぎもしっかりやったつもりでしたが、一番多くの写真を載せたサイトが数年後に閉じてしまい。
皆さんボランティアな立場なので、強要は出来ませんし、2つ残っただけでも幸せだと思っています。
ただ、公開の機会を失ったのは勿体ないとも思っています。サイトを引き継いで下さった方も同じ理由で引き継がれていました。

撮影中に「アルバムの公開今回も楽しみにしてます」との一声がとても嬉しくて。ほとんどの撮影分は当日の晩に載せていて、対応のスピードだけはプロの報道に負けない速さでした。
「うちの娘の写真、もっと大きな画像で貰えないか?」とか、喜んで尻尾振っての対応でした。
「次の本祭りの町会ポスターで使えそうな写真、全部ちょーだい」とか。

またしても本題から逸れました。そして既に十分に長文。
そんなこんなで、今後は商用利用のサイトで自分の撮った写真を使われる方には徴収させて頂こうかと思っています。本業の方への配慮が濃いです。
過去に管理していた地域サイトでは関係者や被写体になった方による写真の再利用は無許可の方針でした。今後もそのつもりです。
明確なルールはしばらく考えてみてからにしてみます。

しかし、最近は一眼のシャッターを切る機会がほとんど無く。
結果的にこのサイトも文章だらけ。
写真があった方がイメージ掴みやすく、やはりあった方が良いかもなぁと。
一枚で状況の説明がつく写真、今後も目指さねば。

追記:2018/04/12
上記を綴った後、ラーメン二郎を頂きつつ気付いた部分が。
個人的に好きだった古い建物を写真に残すのが好きです。十分に歴史のある特徴ある建物ばかりです。その時代の象徴な。
しかし、文化財未満ですと老朽化であっさりと解体されがちで。そんな建物ほど撮影で残すようにしています。最近ですと九段下ビルや、同潤会の上野下アパートでした。
ただ、自分が写真を置くのは有料のレンタルサーバーに独自ドメインの組み合わせ。
自分が亡くなれば料金未払いで一年以内に全て消えてしまいます。健康に幾ら気を配っても誰でもいつかは寿命が訪れます。

お墓なんて無理に残しても僅か数年で忘れられるモノでメンテも面倒で。
それよりも、自分が嘗て存在していた証が自分の撮った写真というカタチで残っているのは悪くないなぁと思います。
引用というカタチで何処かのサーバーや出版物に残っていれば、写真の寿命は伸びそうで。
名声を得るとかではなく、そんな人が昔居たんだなで。

方向感覚

慣れない土地でもスマホの地図アプリで目的地へ到着しやすくなった感です。
スマホを持つ前までは方向感覚を頼っていました。何となくこっちの方向かな?みたいな。
ただ、初めて訪れる分かり難い場所ですと目的地に到着出来たものの帰りのルートがまた分からなくなることも多く、往路で「ここを曲がった」的なランドマークを意識しがちでした。

昨夜、ちと気になるニュース記事を読みました。
渡り鳥をナビゲートする「体内コンパス」の正体が明らかに“という記事でした。
某所でこの記事へのコメントを確認したところ、(程度の差はあっても)人にもその能力があるとのことでした。
渡り鳥に限らずレース鳩の帰巣本能や、生まれた川に海から遡上する鮭も不思議な能力だよなぁと思っています。
人に比べるて桁違いに小さな脳ミソの動物が謎の凄い能力を持っていたりですが、その辺の原理が分かってくるのはナカナカ興味深いです。
生まれたばかりの人の赤ん坊が大人になってから何のツールも持たずに生まれた場所に向かうとか、普通は無理だと思います。

そんな自分でも時々不思議な感覚があります。
電車に乗っている際、いつもと違う方向に進んでいると錯覚する感覚です。
逆方向の電車に乗ってしまったのかな?と一瞬自分を疑うのですが、確認すると目的の方向にちゃんと向かっていて。
「逆方向」と感じる根拠が何も無いのに、これはどうゆうことなのかずっと謎です。
他の人はどうなんでしょうか。似たような経験や感覚は誰しもあるのかな?

去年辺りだったか「千葉時代」というキーワードをニュースでよく見掛けました。
地球の磁場極性は過去に反転したことがあったそうで、その証拠の地層が千葉に残っていたとか。
その前後では、渡り鳥も困ったりしたのかな。

追記:2018/04/07
昨夜、職場の元同僚と夕食を共にした際、この話題になりました。
電車に乗って逆方向に進んでいる錯覚についてです。その同僚も同じ経験を子供の頃にしていたそうです。
興味深かったのは、始発の駅から乗っていて間違いようが無いのに慌てて次の駅で下車しそうになったそうで。
これ、自分も全く同じ経験があって。

周恩来さん

近くて遠い国に中国やロシアや朝鮮半島があったりです。
報道の偏向があるのかも分かりませんが、あまり良い噂が実際届いていない感で謎多く。
どの国も日本との領有権を現在進行形で争っているので、仕方ないのかもしれません。
ただ、近代史を紐解くと、ちと怖いなぁと思える場面も多いです。都合が悪いと消されてしまうとか。

表題の周恩来さんを知ったのは、ラーメン二郎の神田神保町店さんで満腹になった後でした。
ここのラーメンは小でもとんでもない量で、大食いな自分でも食後はキツく。大抵は食後に近くの公園でイップクしていました。
その公園に謎の石碑がありました。「周恩来ここに学ぶ」と(幾度か自分も写真に残しているのですが、発掘が難しくGoogleのストリートビューから拝借です)。

周恩来さんは何処かで聴いた名前ですが、ラーメン屋の後では何者か存ぜず、検索してみると凄い人生を歩んでいて。
要約すると、
・太平洋戦争前に中国から日本に留学するも成績が足りず色々と苦労。その後にヨーロッパで立派な大学の学習の機会を得られたものの、学費が足りず断念。
・中国に帰国してから共産党に入党するも、人道的な立場が故に難しい調整役に駆り出されてばかり。
・その後の共産党の躍進で、文化大革命中(文革)も失脚しなかった首相。
・特に文革中は大切に育てていた養女(孫維世)も酷い仕打ちで消されていて。孫維世さんはいまでも十分通用しそうな美女で女優さんでした。
・その文革中は多くの庶民の命を救った。
・党内に敵が多い中で病に倒れ、墓を荒らされるのを避けたく、遺骨は中国の空から散布された。
・ずっと板挟みな人生であった。

また話が飛びますが、自分の小学生時代はまだ文革のさ中でした。AMラジオからは北京放送の民族音楽とか、同様に大出力のピョンヤン放送やモスクワ放送もプロパガンダ的な番組を日本語で流していたりでした。
良いのか悪いのか別として、夜のラジオから届く異国の曲はかなりエキゾチックでした。

周恩来さんについては、検索すると色々と情報が残っています。これも何処までが真実だか分かりませんが、一番酷い史実としては養女の気の毒過ぎる死に方です。
先ず文革についてまともに説明すると非常に長くなるので要約すると「庶民の家畜化」とでも申しますか。教師や医者といった教養のある人は否定され、尽く抹殺されていたようです。当時の同様な流れは他国になりますが映画「キリングフィールド」がそのままです。ビールやキリンさんの映画ではありませんが、色々と考えさせられます。
東西の壁が崩れた時代のゴタゴタも無かったことにされている歴史上、文革は失策だったと認められているようですので、余程なことかと思います。
更に脱線してしもうた。

養女孫維世さんの人生について。
古今東西、美女の基準は色々あるようですけれど、孫維世さんは今でも通用する目鼻立ちの整った美人です。人柄の良さまで伝わってくるような。
何故に周恩来さんの養女となったのかは知りませんが、文革の張本人である毛沢東におかされ、それを知った毛沢東の奥さんの嫉妬で酷い終わり方をしています。その辺はここの文章に遺し難く、Wikipediaのこちらのページで(掲載されている周恩来夫妻と娘さんの幸せそうな写真も演技ではなく一緒に居れる幸せが何だか身に沁みます)。Webで検索すればもっとリアルな酷い有様が伺えます。また、毛沢東さんの奥さんは元役者だったらしく、当時から孫維世さんをライバル視していたそうで。
普通の親なら、大切な娘にこんな酷い仕打ちをされて黙っていられないと思います。しかし、立場上はそれを訴えることも出来ない状況だったそうで。文革時に少しでも庶民を救いたかったのは庶民にも伝わっていたようで、酷い親とは責められなかった様です。

Wikiのこの部分に要約されているかと思います。
引用:彼(周恩来)は同志と人民から尊敬された人物である。文化大革命の時、我々は下放(地方、農村での思想矯正)したが、幸いにも彼は地位を保った。文化大革命のなかで彼のいた立場は非常に困難なものであり、心に違うことをいくつも語り、心に違うことをいくつもやった。しかし人民は彼を許している。彼はそうしなければ、そう言わなければ、彼自身地位を保てず、中和作用をはたし、損失を減らすことが出来なかったからだ。
庶民からだけ認められていたワケではなく、このような状況の国での外交でも国外から認められる立場だった様です。

ラーメン二郎の神保町店さんは昨年末に移転してしまい、その後はまだ訪問出来ておらず。
近いうちに美味しいの頂かねばのぅと思っています。
ティーンの内に上京してから、神保町界隈は発見が未だ多いです。
この石碑は何ぞや?って、面白いと思うんです。またしても春なので、自分もまた神保町に出没せねば。勿論食後に。