遂に農薬を注文

2004年頃から植物を色々と育てていますが、どの植物も多かれ少なかれ病気や虫にやられていました。
農薬を使ってしまえば簡単に片付きそうではありましたが、極力それは避けたく。
しかし、引越し前の環境でも引越し後の環境でも事態は悪くなる一方。

農薬と言っても色々な種類があり、しばらく前の記事にも綴りましたが硫黄石灰合剤等はそもそも自然界に存在する物に近く、使用後も自然界に存在する物質に分解される割には病気や虫に対する効果も高く。
しかし、家庭向けの少量販売は十年前に頻発した事件で入手できなくなり、農家用の大容量なのは安いものの一生掛かっても使い切れない量。まして、余っても処分が面倒そうで。
合成された農薬は悪い噂も多く、それだけは避けたいなぁと。

硫黄石灰合剤の代わりになりそうな物を探したところ「オーソサイド水和剤」という製品が比較的近い性能の様子でした。
恐らく、合成された何かかとは思いますが、使用後も悪影響は少なめらしく。

これが家庭向けの50gで600円とかするそうで、250gで送料込みですと1200円くらいするそうで。
しかし、希釈倍率を800倍とかで使うそうですので、50gあれば40l分にはなるようです。そう考えると50gでも十分なのかなぁと。

陽当たりの悪さの可能性が高いですが、庭に一列に植えた芝生は一年で半分ほど枯れてしまい、これは病気にやられた可能性もあるそうでオーソサイドが効くそうです。
あとは、桃の葉や梅の葉の縮葉病もうちの庭は酷くて。これにも効果あるそうで。
他にもアブラムシの大発生等々。これにも効果が期待できそうで。
使い方をちゃんと守れば、食べられる植物への使用もまずは問題無い様子です。出所不明の野菜よりは安全なのかも知れません。
最低限の農薬使用であれば、メリットの方がやはり多いのかと思えてきました。

他にも、マリーゴールドの葉は途中で乾燥茶葉のような状態になりがちでした。虫に食べられているのか枯れてしまっているのかよく分からない症状でした。
これもちゃんと調べてみたところ、ナメクジ等に食べられる危険性が高いそうで。実際、自宅の庭には時期によってナメクジが多いです。
これも対策予定です。

追記:
届いた品を早速試してみました。
本来はもっと寒い季節で芽や若葉が出る前の使用が良いようです。


箱の中の粉末が入った袋に綴られた使用方法の説明はシンプルで分かりやすかったです。かなりのピンボケ写真、お許しの程。

これは素晴らしい

先ずはこの記事。
ライダーに朗報! 自動二輪が「駐禁」対象から外され、駐車場増設の動き 警察庁が通達

上記記事の引用ですが、趣旨は以下。
1)二輪車の駐車場を増やしていきましょう
2)駐車場の有無や交通状況に応じて二輪車の駐車違反の規制を廃止したり、時間制限を変更したりするなど、見直しを検討しましょう
3)必要があって二輪車も駐車禁止にしている場所では、取り締まりの扱いは変更しません

2006年の改悪法から、やっと元に戻りそうです、
改悪と言ってしまうと失礼かも知れませんが、ここまで取り締まるの?と思える場面は実際に多く。
当時、都心暮らしだった自分は単車を停める場所が無くなり、大切にしていたVespaも手放していて。
ご近所の老舗小料理屋さんとかも、築地への買い出しに利用していたスーパーカブ等で困られていました。郵便の配達員さんとかも。
突然増殖しだした切符切りの係員は、仕事だから仕方ないにしても非常に邪悪な存在にしか見えず。緑の上着からミドリムシとも言われる始末。あれはプライド持って出来る仕事に思えず。

実際、駐車スペースを自宅周辺で確保していても、出先で停められる場所が無く、単車を泣く泣く手放されたライダーは多かったようです。
そして、単車の販売台数はピーク時の1/9まで落ち込む始末。
戦後の日本を支えた産業の一つでもある乗り物が、何とも気の毒な状況でした。
実際、街から単車は消えたような状況でした。

ここから先は話がズレますが、単車の環境対策も厳しくなる一方でした。排ガスの浄化や、騒音の規制です。
単純な構造が個人的には好みでした。これは故障率が減ったり、修理が容易であったり、無駄なコストも掛からなかったり。
しかし、環境性能を求めた結果、単車も色々と複雑な装備が増えて、重くなり単価は上がり、燃費も稼ぎにくくなり。
駐車場問題と併せて、単車がますます売れなくなる要因の一つとなった感です。
全盛期よりは既に排ガスも十分綺麗になりましたし、もうこれ以上厳しくしてほしくないなぁと。
遠くないうちにEVな単車も増えるかと思いますし、ガソリンエンジンの単車はこれ以上複雑になってほしくなく。

そんな流れで、旧車な単車の中古市場では値上がりが続いている様子です。
250㏄の4気筒モデルなど、いま新車で出したら凄い値段になりそうで復活は望めない状況で。(今回の規制緩和で販売台数が見込めるようになったらまた復活してくれるかも知れませんけれど)
80年代の四気筒なレーサーレプリカで程度の良いものは、既に手に出せない値段になっています。
2stのレプリカなんかはもう新型が登場することも無いでしょうし、あれは軽さと単純な構造とちょっとイジれば相当なパワーを絞り出せて。当時のモデルはやはり凄い値段になっています。タイヤが二つでも、あの操縦感覚は別の乗り物でしたから。

と、話が大幅に逸れました。
そんなワケで、80~90年代の絶版車は今回の件で更に値上がりしてしまうのかなぁと。
大排気量の単車なら現行モデルでもパワーは有り余るほどですけれど、車検が面倒であったり、重さや大きさが面倒で走り出すまでの取り回しに苦労したり。結局乗る機会が減る乗り物になりかねず。
個人的には狭い日本で丁度良い排気量が250㏄辺りかと思っています。一日あれば東京から青森だって走れる距離ですし。(既にその体力はありませんけれど、学生時代に経験しています)

ともかく、単車に乗るのがまた楽しみになりそうで、乗る機会も増えそうな今回のニュースでした。
戻ってらっしゃい、ライダーさん達!

向かいの部屋に空きが出た

このマンションに引っ越してから、あと半年で三年を迎えます。ローンはあと七年ほど。
住み始めてから色々と問題もありましたが、魅力の多い集合住宅です。

既に築三十年経ったマンションですが、自分の理想に近い雰囲気でした。
昨年放映されたドラマ「ひよっこ」で売れっ子女優さんが住んでいたマンションを小ぶりにした雰囲気です。
あんなに立派ではありませんが、レンガ風のタイル張りの風合いや、無駄に背の高くないシルエットがセコセコしていなくて。
このマンションは昭和の後半から平成の初め頃まではブランドマンションだったそうですが、今となっては部屋の間取りも狭さを隠せないものの、それまで暮らしていたマンションよりは快適です。
普段の快適さだけを求めるなら最新のタワーマンションに限りますが、大震災時とか大規模修繕時とか、あれは恐ろしいと思っています。まぁ、自分には手の出せない値段ですけれど。

「ローマの休日」でグレゴリーペックが暮らすアパートメントみたいなのがずっと理想でもありました。
あの建物も公開当時既に古臭いのですが、何だか独特なアジがあって。
古くなってもアジのあるのが素敵に思えて。日本ですと同潤会辺りでしょうか。
他にも、かなり独特ですが中銀のカプセルタワーなんかも。

雨が多い風土もありますし、修繕が滞っているのもありそうです。
自分の暮らすマンションは、その辺も最低限はしっかりしている様子です。何かの修繕や点検が年に幾度も入っています。
実際、この周辺で同時期に建てられた他のマンションはちと残念な見栄えなのも多く。
そして、ここを選んだ理由の決め手は庭に単車を置けること。あと、小さな畑もあること。
こんな物件は滅多にお目に掛かれませんし、未だ貴重に思っています。

自分がこの物件を購入してから、中古マンションの相場が上がっている様子です。
中古マンションの底値はリーマンショックのあった2008年頃だったと思います。
あの頃は凄かったです。都心の中古ワンルームクラスは捨て値でした。現在は当時の価格の三倍近いのもあったりです。
当時も買おうと思えば買えたのですが、この先も一人暮らしなのか見極めがつかずで、やり過ごしまして。
当時は兄の事業の連帯保証人でもありましたし、これは大きな借金と見なされるそうで。

いつも腰の低かった御向かいが今年の初旬に引越されてしまったのは残念でした。
いつもニコニコ笑顔の旦那さんは五十代の気取らぬオッサンでしたが、若い頃はきっとモテたんだろうなぁと。奥さんも綺麗な方でした。
引越し直後からリフォームが入り、内装は全て入れ替えた様子でした。
その物件が最近売りに出されました。これがけっこうな高額。
更に郊外でもう少しお金を積めば、新築のマンションが買えてしまいます。

この風合いある外観が好みという変わり者の目に留まったら、案外早く買い手が着くかもしれません。
そうでなければ、ジワジワと値下がりもあり得ます。
どっちに転ぶか、ちと気になります。
下手に高値で売れてしまうと、自分の固定資産税にも跳ね返ってきてしまいそうですし。
まぁ、余計な心配だとは思います。

帰国してからの方が危ない


海外でハンドルを握ると現地でしくじるのはウインカーの出し方。
ハンドル周りのレバーはウインカーとワイパーが逆で、ウインカーを出そうとする度にワイパーが動き出し。
数時間で慣れるのですが、気をつけていないと直ぐに戻り。

西海岸では配車ミスにより破格の安さでオープンカーを借りれたのですが、これは晴れ続きの土地で快適でした。
しかし、一方通行で逆走してしまった際は正面衝突しそうな場面があり、互いの急ブレーキで発生したタイヤのゴムの香りがモロに漂ってきました。オープンカーならではでした。
でも、死ぬかと思った。

そして、帰国。
我が祖国。
もう大丈夫だ。

三ヵ月のヨーロッパから戻り、空港近くのパーキングに預けていた愛車をスタートし、大きな幹線道路から自宅へ戻ろうと。
何も考えずにウインカーは右に出せた。上出来だ。
走り出すところで、死ぬかと思った。

「やばい逆走だ」

解説:
駐車場から大きな幹線道路に出る際、多くの場合その国の通行方向しか曲がれません。左側通行の日本なら左で欧米の多くは右です。
帰国直後など緊張感の欠片も残っちゃいません。
写真は1999年に現地で借りたムスタングのコンバーチブル。幸か不幸か予約していた安い車がロサンジェルスの大停電で配車されませんでした。

Bluetoothキーボードの接続にハマる

これまで十数年HHKBという小型のUSBキーボードを利用していました。自宅でも職場でもWindows端末はコレが基本でした。
自宅で使用していた方が最近不調で、キー入力時の引っ掛かりが激しくなっていました。
十分元は取りましたし、いよいよ寿命の様です。

しばらく前にiPad用に入手したBluetoothキーボードがあったなぁと思い出し、これを接続しようとしたところ全く上手く行かず、一時間以上ハマりました。
パスコードというものを入力する必要があったのですが、入力を数回ミスると表示されなくなり。
仕方なく、Webで検索して色々試したのですが、何をやっても駄目でした。

最終的に上手く行った方法は以下でした。

1)コントロールパネルを開く
2)画面右上の表示方法で「大きいアイコン」を選択する
3)「デバイスとプリンター」をアイコンから開く
4)「デバイスの追加」を開く
5)該当のキーボードが表示されたら、それをダブルクリックする
6)まだ試していないパスコードを四桁くらいでUSBキーボードから入力しEnter(既に使用済の四桁は駄目)
7)デバイスの検索中状況でBluetoothキーボードから上記のパスコードを入力しEnter(このタイミングが重要)

これで上手く行きました、重要なのは上の5と6です。既に試したテキトーな四桁では駄目で、新しいテキトーな四桁が必要なのと、デバイス検索中の状況下でBluetoothキーボードから同じのを入力し、Enterキーまで押す必要がありました。
使用中のOSやドライバ、ハードウエアの組み合わせ等によって挙動は異なるようで、自分の場合はこれで上手く行きました。

ちなみに自分の環境は以下です。
・Windows10
・Anker ウルトラスリム Bluetooth ワイヤレスキーボード


接続後のキーボードでこの記事を綴っているところですが、ミスタッチの連発です。非常に効率悪いです。慣れが必要です。
また、日本語入力の切り替えが左上の”~”キーであったり、キートップの刻印と実際の入力が異なっていたり、設定の変更が色々と必要そうです。そもそもこの機種は英語キーなので。
海外の出張ではノートPC持参が基本でしたが、時としてインタアーネットカフェを利用することもあり、英語キーの配列は使っているうちに慣れたものでした。特に@キーの位置とか。
現状は英語キーなのに日本語キーとして認識されているようで、この辺から再設定が必要そうです。

あと、キータッチについてです。HHKBは筐体の高さもあり、それが使いやすかったです。これも慣れただけかもしれませんけれど。
あと、HHKBのキー入力中の音はガチャガチャと大きめでした。職場では周りに迷惑掛けていたかもしれないレベルでした。これが新しい方はカタカタと可愛い範囲かと。タッチは悪くないです。

追記;
設定変更後は英語キーボードとして無事に認識出来ました。日本語入力の切り替えはAltキー”`”の同時押しが必要となりました。このままこのキー配列で慣れるべきかまだ悩めてはいます。
ブラインドタッチに慣れてしまうと、他のキーボードで効率落ちてしまいそうで。
あと、OSの再起動後もキーボードは問題なく即座に認識されていますので、OSのログイン時のバスワード入力も全く問題ないです。
怖いのはセーフモード起動時等のワイヤレス接続出来ない場面です。滅多にあることでは無いのですが、古いキーボードは押し入れの分かり易い場所に残しておくべきでしょうね。

遠くの出来事

遠くの出来事はニュースでしか知る由も無く、「へぇそーなんだ」で鵜呑みにするのが普通で。
公のニュースなんだから、そんな大きな間違いはないだろう。と思うのが普通で。
性善説は悪くないと思いますし、自分もその中の一人です。
しかし、いざ現地に近付くと、なんじゃそりゃ?な場面も多かったです。

自分は「アメリカかぶれ」な部分が多いです。服も音楽もその他の文化も。
しかし、ヨーロッパではアメリカを煙たがる方も実際多かったです。
例えば、英語の発音が崩れていて分かり難いとか、アメリカだけ単位(ポンド、ヤード、華氏等々)が違ったりとか。
そして、他国への介入が多いとか。

超大国だから振舞える部分があるのかなぁとは思います。特に日本は先の大戦で負けていますし、アメリカ発の情報が正という前提になりがちなのかと。
実際、高度成長までは日本も色々と多めに見てもらってきたとは思います。貿易面の優遇や、様々なコピー商品の輸出も含めて。

「クジラは何故あんなに寒い海で暮らしているのか?」という問いが以前に読んだIT系の記事にありました。
大きな身体の体温を落とす為とか色々とありきたりな理由が出てきた中で、その記事は「そこに餌があるから」と。

超大国が外国にちょっかいを出すのは、そこに利権があるからというのは多かれ少なかれあるようです。
しかし、そんなことは表向きに出せないので「石油が欲しい」とは言わず「独裁国家で国民が不自由している」となったりとか。
実際のところ、どうなのか自分も分かりません。
しかし、アフリカに技術支援へ伺った際、現地で教養のある方々は「カダフィが暗殺されたとき、何故にそこにヒラリー女史が居たのか?」と話題になっていました。
ここでいうヒラリーさんとは前回の合衆国大統領選で立候補されていたヒラリー・クリントンさん。
そして、カダフィさんとはリビアで暗殺された特栽者とも言われたカダフィ大佐。アラブの春の一つでした。
カダフィさんの暗殺直前にヒラリーさんがリビアに入国していたのは、日本でその当時あまり知られていなかったと思われます。

カダフィさんが暗殺された数ヶ月後に自分はアフリカのカメルーンへ技術支援で伺っていました。JICAとか大使館関連とか、日本でいう文科省系の方々と食事を一緒にしたことも。自分は勿論ちっとも偉くなくただの技術者。
大使館への訪問を突然誘われたりもあったりでしたが、自分はクロックスのサンダルしか持参しておらず(プライベートの荷物より少しでも使えそうな機材を持ち込みたく)、辞退しています。直近にあったトラブルの方が重要でしたし、それが片付かないと帰国も難しく。
美味しかった料理は大衆食堂で頂いた破格の舌平目くらいで、何もかも日本人の舌には合わず、シャワーは突然熱湯しか出てこなくなったり、停電も断水も頻繁で。何よりも治安が悪すぎて一人で街中を歩くことも許されない状況。
早く、日本で白いおまんまを頂きたいだけでした。吉野家の牛丼も一杯千円で許されそうな日本人にとってのアフリカでした。

昨年のアフリカにて
自分の知っているカダフィ大佐は、それイコール独裁者な方程式でした。権力を盾に好き勝手暮らしつつ、国民は不自由な生活を強いられ。
これも遠くから届くニュースを元にした知識でした。
しかし、リビアはある面理想国家で、生活面や教育面で国民は様々な恩恵を受けていたそうです。無償に近い扱いが出来た理由は石油で儲かったお金が国民に還元されていたと。
独裁者というレッテルは、半島の北側の国に近いイメージで、損する印象が濃いです。ましてカダフィさんの見た目はヒール役のプロレスラー。

帰国してから検索してみたところ、同様の記事が僅かに見受けられて。
その件を思い出した先程、改めて検索したところ同様の記事はかなり増えていました。例えばこちらのサイトです。→”カダフィーの真実~理想社会を創った英雄:のびやかな暮らし”
これは自分がアフリカで聴いた話にけっこう近く。

自分が普段調べ事で参考にしているWikiでもカダフィ大佐の記事は負の側面が未だ多い感です。
それで、カダフィ大佐が暗殺された後のリビアがどうなったか?というと、もう無茶苦茶な状況らしく。最悪な状況の庶民生活だとか。
上記のWikiの記事では僅か一行で評価の一面も綴られてはいます。しかし、もっと具体的に綴ってもいいのになぁと思えたり。
その一行を引用。「カッザーフィーの政策はイスラム過激派を抑え込むなど治安面での安定をもたらし、豊富な石油収入を国家が管理し、それを国民に分配することで世界有数の福祉国家を作り上げた実績も決して無視はできず、カッザーフィー亡き後にリビアが世界最悪ともいえる悲惨な状態になっている中、カッザーフィーの政策を評価する人も決して少なくない」。
まぁ、上手く要約されているとは思います。

世間で知られている情報に従うのは、ある面安全ではあります。そして、異を唱えるのは危険だったり。
ただ、事実に沿った情報か否かは次元が異なり。
しかし、どれが事実なのかは当事者に近くないと分からないかと思われます。
ここで自分が綴っていることも人づての話なので、どこまで本当なのか自分でも分かりません。
ともかく、株価が上がろうと下がろうと、現状維持を何とか続けているこの国で平凡に暮らせていることに感謝してはいます。(こんなオチです)

春の浪人生

自分は浪人の経験が無く、人づてで色々聴いています。
成績が良かろうと悪かろうと、狙った大学の試験の点数が足りなければ落ちるもので。
試験までの努力はあっても結果に結びつくかは運もあったりします。体調だったりヤマが当たったり。
一浪目の春を迎えると、模擬試験の結果は一気に上がるそうです。恐らく、合格圏の上の方がどっさり居なくなるからかと。
それで胡坐をかいてしまうと、数ヵ月の内に現役勢がメキメキ力を着け、試験日当日にドングリとなったり。

高校の同級生の最長記録は四浪で千葉大学というのが居ました。
結果的には良かったのですが、一浪まででしたら大学卒業時はまだバブルが終わっていなかったので、就職には困らなかったと思います。
その後どうなったかは自分も知りません。

随分前にも綴りましたが、自分の場合はどうだったかというと。
家は裕福でなく、高校も奨学金で通っていました。北海道で暮らす三人兄弟三男坊。上の二人は優秀で北大と早稲田に通っており、自分は特にパッとしない成績。
大学に行かせてもらえるとは思っても居なく、アルバイトに明け暮れる高校生でした。
ただ、そのアルバイトで社会を色々観れたお陰で、高校卒業までの一年間で「やはり大学に行くべき」と思った次第です。
浪人は許されなく、自分で生活費と学費を稼げる環境で入れる大学というのはかなり限られました。

地方の国立大であれば合格圏なのもありましたが、自分でお金を稼げる環境など無く、消去法で行くと都内の夜間大学のどれかとなりました。
国公立の夜間と私立の夜間の併願で考えていたところ、センター試験の直前に次男から「お前みたいな馬鹿が併願など許さん。俺たちは単願で入った」と脅しが入り、安全パイの私立だけ受けた次第です。(実際二人の兄は単願でした)
今では想像つかないと思いますが、当時の受験環境はかなり厳しく、ランクに関わらずどの大学も受験倍率はけっこうありました。
夜間でも知名度が高い大学は他の昼間大学に受かっても流れてくるのが実際に居ました。

運良く自分は希望の大学に入れました。試験直前の成績の追い上げは自分でも凄かったと思います。これぞ現役パワーです。
何より、落ちた時の恐ろしさは感じていましたし、落ちた先のことなど何も考えずで。
現役で希望の大学に受かった連中は、実際我を忘れてな部分が多かったかも知れません。高校の薄暗い廊下でモゴモゴと独り言を唱えながら歩いている友人は何かを暗記している様子でしたがこれが可笑しくて。追い越しざまに「しっかりしろ!」と顔を引っ叩いてやったら、「おぉ」と我に返っていて。普段なら引っ叩き返してくるのに。
新年から卒業式までは高校に通う必要が無かったのですが、その間に精神的に病んでしまった奴も居たらしく、後から知ったりでした。
なので、こんな張り詰めた状況を何年何ヶ月と続けられる浪人生というのは、そんなに居ないんだろうなぁとも思えました。
誰しも底知れぬ力を秘めていたりします。しかし、置かれた立場と天秤にかけたり、自分が知る身の程も忘れてはいけなく。夢だけはどんなに大きくても構わないし許されますが。

実際に大学へ通ってみると、想像とは違う部分がけっこうありました。夜間の学部だと「青春の門」のようなハングリーな奴等がひしめいているイメージだったのですが、周りのほとんどは昼間部を落ちて流れてきたのばかりで、特にお金に困っているのは少なく。
それでいて一般教養の科目では「こんなのも知らないの?」と思えるのが多く。当時棘だらけだった自分は平気で「君達とは毛並みが違うんだよ」と漏らすほどで。勿論冗談も何割か入っていましたが本気で言っていた部分もありました。
二浪して日大を蹴って入学した同級生は自分の兄と同い年。そして都内の立派なマンションからソアラ(高級車)で通学とか、なんじゃこりゃでした。当初、自分はこの同級生に相当失礼な対応をしていて(途中でお互い理解していまでも付き合いは細々とながら続いています)。
所謂「嫌な奴」です。しかし、中には自分より捻くれていた奴も居て、ハッとしたりでした。気を付けねばと。
入学してからは成績などどうでも良く、ともかく最短期間で効率よく卒業出来れば良いと思っていたので、何処まで手抜き出来るか?な姿勢でした。
現役で試験慣れしていたので、学業面での苦労は少なかったです。気の毒だったのは社会人入試で入ってきた連中でした。
自分とは真逆で試験慣れしておらず、ブランクもあり、主要科目の基礎が完全に抜けている方も多く。特に英語と数学は気の毒で、微分積分を知らなければ解けない物理とかも。
自腹で教材も学費も捻出していたので、勿体ないから講義だけはちゃんと出席していましたが、公務員やしっかりした仕事に就かれていた方は仕事が忙しく、来たくても来れない状況でした。
自分の場合はこれまた運良く大学の職員に就けていて、勤労学生向けの立場だったので残業はほぼゼロでした。
しかし、昼と夜の両立は決して楽ではありませんでした。実験のレポート作成は徹夜になりがちでしたし、翌日には仕事も待っていて。留年したら解雇な立場もあり、バランスが重要でした。

途中経過を綴ると無駄に長くなってしまいます。途中で自分の成績はドングリでした。毛並みも何もあったもんじゃ御座いません。
入学当時は遥か先だった出口も何となく観えてきて。夜間の五年制で、入学当初は卒業の割合がけっこう低かったらしく。色々な事情で退学者も多かったそうです。
自分の代はこの通り夜間学生らしからぬ学生だらけだったので、ほとんどの同期が五年で卒業出来ていました。
家庭も子供も持った警察官だった方が、卒業後に地方の高校の教師になったり、凄い人生を歩んでいるんだなぁと思える方も居て。
今から思うと、生意気でしかなかった自分は同期からも職場の大人達からも「若いから」で許されていた部分が多かったんだと思います。
時はバブル。しかし何の恩恵も無い自分でしたが、大学卒業時の就職だけは楽させて頂けました。

高校時代の同級生の話に戻ります。
北海道の浪人勢が都内の大学を受験する際は、自分の部屋に泊まり込むパターンがありました。
三浪とかしていると、もう緊張感も抜けてしまう様で、本人も堕落した日々を嘆いていました。都内で何校も併願しているのに、試験日に自分の部屋で一日中ぼんやりしていたり。
自分が何か言ったところで変わるワケでも無いのは分かっていたし、お説教みたいなマネもしたくなく。しかし「これだけお金かかってるのに、勿体ないじゃん」くらいは言いました。
浪人を重ねる連中は、考えてみたらお金に困っていないのばかりでした。
しかし、長いジレンマから抜け出せぬ連中だったので、お金があるからといってあれが「羨ましい」とは思えなく。
立場上、目立ったことは何も出来ず、地下生活のような日々に観えてしまい。どっちが幸せなんだろう?と時々考えてしまいました。

自分の部屋に泊まり込む連中の中で羨ましい部類も居ました。
現役でソコソコの国立大に入り、連休に入ると海外旅行に向かう連中でした。アジアやヨーロッパやアメリカが目的地でしたが、出国や入国の辺りで自分の部屋を宿泊地にしていて。
全く持って羨ましい。ただ、帰国後の話を聴くのが楽しみでした。財布を現地で盗まれた等の危険な思いをしたのはヨーロッパが多かったそうで。
そして、ヨーロッパから戻る連中は総じて足が臭かったです。これは何故か共通していました。

自分が四年次だったときは、就職活動で泊まり込みに来る連中も居ました。
中には明け方まで一緒に飲み続けてしまい、面接が最悪の結果となり恨まれてしまったこともありました。(あれはスマンことをしてしまったと未だ反省しています)
五年次には成績優秀だったH君が北大の大学院に進み、学会の発表で自分の部屋を宿にしたことも。(現在は某国立大で助教だそうです)
H君には「俺みたいなドブネズミのような生活を送っているのとはえらい違いだよ」と弱音を吐いたりしてしまいました。
しかし、H君からすると「俺だって好きな道を歩んでみたかったし自力でやってみたかった」と。一人っ子で親の期待を相当背負っていて。そしてH君は生まれながら片目の視力が無いハンディを背負い、スパルタ教育で育っていて。
大学院に進んだ中には教授とウマが合わず、退学してしまった真面目な奴も居ました。中学生時代から優秀で名が通っていたのですが、退学で親からは勘当され消息不明になり。
そして、当時の多くの友人が、いま何処で何をしているのか自分は知りません。
(ここまでは過去にも似たような話を幾度か綴っています。以下の話題は何年振りかな..)

自分はずっと一人暮らし。身内には現役の学生が現在居るハズです。
十年近く前に亡くなった次男の子供達四人です。
兄が亡くなるまで、自分は兄の事業の連帯保証人で色々とありました。
兄についてはアルコール依存症の末期で、最期の期間はコミュニケーションをまともに取れなく、もう諦めていました。
まだ小さな四人の子供達だけが心配でした。自分が連帯保証していた兄の借金については結果的に保険で賄えましたが、その部分も結果が分かるまでは生きた心地がせず。
兄の家族は実家と折り合いが悪く、兄の葬儀に参加出来たのは兄と一緒に暮らす家族と自分だけでした。
その後自分とも途絶えています。実家が随分と迷惑を掛けてしまった以上、自分からの連絡は取り難く。
なので、その後どうなっているかは風の噂の範囲です。

兄の長男も幼少期から優秀で、六大学には進めたようでした。中高一貫の進学校に当時通っていて、トップの大学を目指していたのですが、あの環境で上出来です。
次男は昔からお人よし。何処で教わったのか謎なお笑い芸がお得意で。
三男は自分と一緒で何も期待されていない雰囲気でした。二人の兄からオモチャにされてしまう場面とか目にしていると、何だか昔の自分と同じだなぁと。
抗議の意思で、トイレに逃げ込んで鍵を掛けてしまったりするそうで。自分も全く同じことを幼少期にしていて(途中で家族が音を上げます)。
兄の葬儀の場面で三男は、沈んだ雰囲気の周りを明るくしようと努めていて。優しい子でした。
一番下の長女はまだお人形さんのように小さく、お母さん思いの甘えん坊でした。四人目に生まれた待望の女の子。

君達に会うのはいつも楽しみだったけど、四人も居るとお小遣いは楽じゃなかったんだよ。
兄の長男が生まれた頃からお祝いとかお小遣いとか自分は渡していたのですが、そのほとんどは将来の学費に向けて貯金に回していたそうです。しかし、末期の兄はそれさえ使い込んだそうで。
なので、最期のしばらくは長男に四人分渡し「好きなもん買え。何も残らなくていいから奪われる前にパッと使え。分かってるよな?」と笑いながら伝えていました。
冗談として伝わらなかったのか、笑ってもらえなかったのが悔やまれます。最悪の場面の冗談は案外重要で。

その三男もそろそろ高校卒業だよなぁと時々思い出していました。幼少期の成績がどうだったか何て、気にしたこと無く。三男とはそんなもんで。
奨学金を借りてまでbe動詞から教わるような馬鹿大に通うようなことが無ければ良いなぁと思ったり。まぁ、これは余計な心配というより、余計なお世話でした。
今年に入り知ったのですが、勘違いかも知れませんが、三男はどうやら日本のトップの大学に一浪して昨年入学していた様子です。
これは自分でも驚きでした。その世代でそうそう居ない珍しい名前で、写真に面影は残り。

自分の現役時代に比べてどの大学も入りやすくなったようですが、トップの大学は自分も目指そうなんて思ったことは無く、自分の高校から進学出来たOBは歴代でも極僅か。
自分の元父も同じ大学を目指していたそうですが、一浪しても駄目で、併願していた二期校の小樽商科大学に進んでいます。早稲田の商学部も受かっていたそうですが東京に出るにはトップの大学以外許されなかったそうで。
当時二期校だった小樽商科は北大の文系よりランクは高かったとも聞いているのですが、元父本人は早稲田に行きたかったそうで、色々とドラマがあったそうです。
亡くなった兄はそんな早稲田に現役で入学していて。子供達はそんな話を聴いていたのかどうか知りません。しかし、三代目で目標達成となったようです。
世の中、大学は幾らでもあるのに、何の因果ぞよ。

兄があのような亡くなり方なのもあって、四人の子供達に自分は当時伝えていました。
「勉強はソコソコ出来れば十分だから、何より健康的に生きてほしい」と。
三男はこのオジサンの言葉を忘れてしまったのかなぁ。

勿論、嬉しい部分は幾らでもあります。家族の支えや本人の努力もあっただろうと。
ただ、自分の家系はアルコールで人生をドブに捨ててしまうパターンが多く、元父も兄も同様に大学に入るまでに運だか何だかを使い切ってしまっているようにも思えて。
人生まだまだ長いので、ずっと先の目標を立ててくれたらいいなぁと思っています。
(迷惑掛かるかもしれないので、この文章は消すかも知れません。だた、ずっと気にはしているんです)